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ゆで卵について

 ゆで卵について書こうと思ったのには、これといった理由はない。
コロンブスのむこうを張るつもりでもなければ、レイモンド・チャンドラーを語るのでもない。もちろん卵料理の薀蓄を傾けるわけじゃない。ぼくは料理のことはからきし知らないし、いつぞやテレビでゆで卵の剥きかたについて解説が始まったときには、馬鹿らしいと思って席を離れたくらいなのだ。だがじきに馬鹿にしたことを後悔することになった。ゆで卵を剥くのは案外難しいのだ。世の中、馬鹿にしていいことが、そんなにあるわけじゃない。
 というわけで(どんなわけだか?)、ゆで卵を大量に剥かねばならない羽目に陥ったのだ。それは実に馬鹿馬鹿しい話なのだが、退職してからぼくは女房と別れたのだか、遠距離恋愛しているのだか(もしかして遠距離片思い?)、どうだか知らないが、ともかく一人住まいするようになった。そこで何より困るのは食い物である。初めのうちはそこらの店に片端から入っていろいろ食べていたが、だんだんそれも飽きてくる。コンビニ弁当もうまくない。やむなく料理を始めたが、やってみると、これが実に面倒な一大事業である。いったい何故人間は毎日毎日飯を食わねばならないのだろう。こんなこと、とてもやってられない。
 そこでふと思いついたのが、おでんだ。大鍋におでんをぎっしり作っておく。毎日暖めなおして、熱燗一本つければ、立派に晩餐が出来上がるではないか。ときどき具を足してやって、うすくなってきたら、適当にしょうゆをぶちこめばよい。こうしてめでたく食の問題は解決し、ぼくは毎日おでんを食べている。
 ところで、おでんの具には卵が要る。これは茹でて殻を剥かねばならない。これが案外うまくいかないのだ。油断しているとすぐに身が剥げ落ちて、卵はぼろぼろになってしまう。ぼろぼろの卵をおでんに入れると、それこそばらばらになってしまう。これではおいしくない。そこで慎重に剥くのだが、うまくいったと思ってつい気を抜くと、最後の瞬間にぽろっと身が剥げる。手間のかかること、じれったいたらない。
 こうしてじりじりしながら卵を剥いていて、ふとぼくは思うのだ。いまこの瞬間、世界中で何人くらいが卵を剥いているだろう。
 この計算はちょっとおぼつかないような気もするが、その道の統計学者ならわけなく計算するかもしれない。そんな計算が何の役に立つか知らないが、決して少ない数ではないだろう。ゆで卵はおでんにだけ使うわけじゃない。それこそレイモンド・チャンドラーの主人公の探偵たちは毎日殻を剥いているに違いない。殻を剥いてぱっぱっと塩を振って食べているだろう。それにゆで卵を細切れにする料理も確かあったし、卵サンドにも使うし、こうして数え上げてみると、地球上のどこかで、ぼくと一緒に卵を剥いている人の数は相当なものにあがりそうな気がする。
 そんなふうに考えているとぼくは愉快になってきた。万物の霊長たる人間が地球のどこやかしこで一斉に卵を剥いている、なんと涙ぐましくも敬虔なる風景ではないか。そのうちには六十億人が一斉に卵を剥いているような気さえしてくる。
 これもぼくら素人が剥いているうちはまだよい。だが調理人たちはどうなのだろう。プロは剥くコツを知っているだろう。ぼくのように馬鹿にしたりせずにちゃんと覚えたに違いないからだ。だが、見習いたちは、兄貴分たちに、「おい、遅いぞ」とか「なんだ、この剥きかたは」とかどなられながら、気もそぞろに必死になって剥いているかもしれない。剥く先から、「こんなもの、客に出せるか」とゴミ箱に放り込まれているかもしれない。ぼくはちょっと気の毒になってくる。見習いも、兄貴分も、店のオーナーも、待たされるお客も、卵も鶏さんも気の毒だ。そしてつくづく調理人でなくてよかったと思うのである。
 どうでもいい話なのだが、ここまでがぼくの最初に書きたかったことである。
 だが、書いているうちに、ゆで卵の剥き方の下手なのはぼくだけかもしれない、とふと気づいた。ぼくは堅ゆで卵をあんまり食べたことがなかった。子供のころはもっぱら半熟卵だった。テーブルに家族の数だけ小さな細長い杯を並べて、そこにおふくろが茹でたての半熟卵を載せていく。スプーンでこつこつやって、スプーンが入るだけの口をあけ、そこから塩をふりかけて熱いうちに食べるのだ。おやじは茹でる時間にやかましく、たしか三分とか言っていた。これは上品な味わいで、ぼくは好きだった。
 ところがレイモンド・チャンドラーを読むにおよんで(と言うほども読んでないのだが)、この貴族趣味的な食べ方がどうにも鼻につき始めた。半熟ではサルモネラ菌が死なないと聞いたせいもあるだろう、めったに半熟卵を食べなくなった。ベーコンエッグズは好きな食べ物で、よく朝食にとる。いずれにせよ、殻を剥く必要がない。半熟卵は上部を少し剥くだけである。
 語らないと言ったが、ついでにちょっとだけ書くと、チャンドラーの探偵たちは(ぼくの少ない読書経験でも)確かに魅力的だ。どこが魅力的といって、彼らは愚痴を言わない。探偵の依頼主はたいてい大富豪で、主人公はつまらない仕事に安い報酬で命をかけているのだが、決して不平をこぼしたりしない。本当は傷つきやすい心の持主なのだが、それをおもてに見せない。ぼくらの人生は愚痴のかたまりのようなものだが、だからよけいに、ああいうふうにかっこよく生きたいものだと思ってしまうのである。(ところが結局はかっこ悪くしか生きられないのだ)。ぼくが堅ゆで卵を食べるようになったのは、チャンドラーを読んでからである。
 ここまで書いたから、ついでに少しだけコロンブスにも触れよう。コロンブスについては、ぼくはどう評価してよいかよくわからない。彼のせいで原アメリカ人のほとんどが死に絶え、その文明は滅んでしまった。たとえばコロンブスが上陸したキューバには、原アメリカ人の子孫は一人も生き残ってはいない。キューバの人口はすでに一千万を超えたと思うが(よく知らない)、すべてスペイン人と彼らが連れてきたアフリカ人の子孫である。だが歴史を語ると話がややこしくなるから、ここはハード・ボイルドふうに黙って通り過ぎるとしよう。
コロンブスの卵である。
 一躍有名人になってヨーロッパに帰ってきたコロンブスをやっかんだ人々が、「ただ西へ向かって船を進めただけじゃないか。そんなこと誰にでもできる」と言ったとき、コロンブスは手近にあった卵を手に取り、「これをテーブルに立ててみたまえ」と言った。人々は試みたが、誰も立てることが出来ない。丸いタマゴは厄介な代物なのだ。だが、コロンブスはやにわに卵の一方の端をこつんと割ってテーブルに立てた。「割っていいなら誰にでもできる」と人々が不平を言うと、「人のやった後であれこれ言うのは簡単だ」とコロンブスは答えた。たぶん、この卵は堅ゆで卵だったのだろう。コロンブスが卵の丸い方と尖った方とどちらをこつんとやったのかも多少気になるが、それは詮索しないことにしよう。
 これはぼくの好きな話である。人のやらないことをやったから偉大なのだという趣旨で、そのことにぼくは感銘するのだが、もうひとつ、卵に限って言えば、発想の転換というテーマも出てこよう。
 だが、発想の転換とは何なのか。
 人々が、これがゲームのルールだと勝手に思い込んでいたことに対して、いや、そんなルールなど存在しない、こういうふうにやることもありなのだ、と示すことだろう。歴史上の偉大な発明発見の類いには、常にそういうところがある。それは人々があたりまえだと思っていたことに対して、本当にあたりまえなのか、と疑問を提出することであったり、あるいは、何年間も研究し、考えに考え、苦労して実験を重ねてきても実らなかったことが、ある日ふと何の前触れもなく正解がひらめく。それはたいがいテーマから頭が完全に離れていたときであり、子供たちと遊んでいたときであったり、お皿を洗っていたときであったり、トイレでいきんでいたときであったり、しばしば夢の中であったりもする。そのとき彼らはまったく別の角度から課題に接近するので、いままで彼を無意識に縛っていたルールを跳び越し、それはルールではありえなかったことに気づくのだ。
 だが、これに関連して、コロンブスの卵には、個人的に苦い思い出もある。ルービックキューブがはやったころ、ぼくは苦労してこれを解いたが、ある人はそれを馬鹿にして、「ばらばらにして嵌め直せばいいじゃないか。簡単なことだ」と言った。ぼくはいささか傷ついた。確かにそれもコロンブスの卵には違いない。だが、これはルールを明示してあるゲームであって、この物質世界や精神世界のように、あまりにも複雑すぎてどれがルールなのかわからない世界の話ではない。そんなことを言うなら、将棋で勝つためには歩がどんどん飛んでいって相手の王様を取ってしまえばいいだろう。いや、歩もなくていい。いきなり王様を投げ捨ててもいいし、将棋相手を殴り倒してもいいのだ。
 ルールあるゲームでルールを無視してはゲームは成り立たない。実生活のゲームと仮構上のゲームとは根本的に違うのだ。もちろん実世界にも、自然だろうと社会だろうと精神だろうと、ルールはあるのだろう。だが実世界のルールは複雑で、我々はしばしばルールではないものをルールだと勘違いしているのだ。だから実世界では発想の転換が必要になる。でも、将棋やトランプでのインチキをぼくは許せないし、ルービックキューブをばらばらにしてもコロンブスの卵になるとは思わない。
 だがもちろん、ぼくを笑った人は、ぼくがつまらないことで時間を無駄にしているといって笑ったのだ。ゲームが時間の無駄だということに気づかせるところに、発想の転換があったとも言いうるわけだ。この指摘にはたしかに痛いところもある。
 それにしてもぼくは思うのだ。これも無駄だ、あれも無駄だと言って無駄を省いていったら、人生にいったい何が残るのだろう。人生というゲームに、どんなルールを見出すことが可能になるだろう。そう思ってみると、ゲームとそのルールという問題は、意外に深遠なテーマになってくる。
 最後にもうひとつだけ無駄話をする。一見ゆで卵とは関係ないように思うかもしれないが、実はそうでもない。
 ぼくは毎日、春日池を散歩する。若いころは、散歩といわずいつといわず、ぼくの頭の中を数限りない小説のストーリーが駆けまわっていたものだが、空想力にあふれていた時代はいつしか終わった。平凡きわまりない老人となったぼくの散歩には、もう頭を埋めるようなストーリーは何もない。パソコンのキーを叩くとき以外、ぼくは小説とは無縁に生きている。叩きはじめるとそこに物語が初めて生まれてくるという具合なのだ。
 だから、たいがいぼくは何も考えずに歩いている。ときおりは百人一首の覚え直しをする。すっかり忘れてしまって、妻にも、娘にも、猛勉強を始めた婿にまで負けるので、口惜しいから、単語帳をポケットに忍ばせて、復習するのだ。(みな負けず嫌いのゲーム好きなのだ)。
 でもせっかく単語帳を持っていっても、やる気が起こらず、結局何も考えずに歩くことが多い。何も考えていないことに気づいてびっくりしたりする。
 ある日、いまを盛りの菖蒲園の八橋を歩きながら、ふと思った。
 地球の人口六十億として(本当はすでに七十億なのだが)、いま、この瞬間、セックスしている男女は何人くらいいるものだろう。ぼくはざっと計算してみる。老人子供をぬいたセックス適齢人口が三分の一として二十億、そのうち三分の一は相手がいないとすれば残りざっと十四億、平均週に一夜とすれば一夜あたりで二億、地球は丸いので、常にどこかは夜だから、二十四時間の三分の一が夜の状態にいるとしてざっと七千万、つまり三千五百万組の男女がいまこの瞬間にも地球のどこかでせっせと性の営みに励んでいる。
 ぼくは感動した。三千五百万組の男女が常にセックスしているこの地球という星、それは実になんとも言えず壮大な風景ではないか。人々は地球上のどんなことも自分たちには関係ないような顔で愛を語りあい、それ以外生きる目的がないかのように求めあって、いまこの瞬間を生きている。
 ぼくは感じ入って、咲き誇る菖蒲の花々を眺めながら、ゆっくりと歩いた。そして思った。地球外の知的生物がもしいるとして、彼らが単性生殖だとして、この地球の状態を観察したら、いったいこの七千万人は何をしているのだろうと不思議に思うことだろうな。そしてぼくは幸福な気持ちになった。

 追記
 時代がどんどんぼくらを置き去りにしていく。未曾有の地震と津波と放射能に苦しむ人々を前に、ぼくはただ立ちすくむしかなかった。何を書いても無意味だという虚脱感で、ぼくは三ヶ月間何もできなかった。
 その間、ぼくの頭にはネビル・シュートの「渚にて」と、もうひとつ、石森章太郎の漫画とが常に居座っていた。たぶん、石森(いまは石ノ森と言うらしいが、ぼくにとってはずっと石森だ)の作品だったと思うのだが、ひょっとしたら勘違いかもしれない。ごく短い作品なのだが、作者のよく知られている数種類の漫画が、同時平行に進行していく。そしてそのすべてがいきなり中断する。核爆発で人類が消滅したのだ。あらゆる喜びも悲しみも、希望も苦悩も、瞬間に意味を失ってしまう。それは「渚にて」の世界でもある。
 この現実を前にして、ぼくの書こうとしていた小説は一体どんな意味を持ち得たのか。発表予定だった小説と、この雑文とを、とりわけこのあまりにものんきすぎる雑文の掲載を、ぼくはためらわずにおれなかった。
 いまでもためらっている
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