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「民主文学会」

 民主文学会とは何か。会の主張としてではなく、客観的実体としての諸側面について、考えてみる。
 最もわかりやすいのは、短歌や俳句に見られるような結社としての側面だろう。ぼくには疎い世界なので間違っているかもしれないが、外から見る限り、短歌、俳句は結社によって成り立っているように見える。
 いくつかの有力な結社が月刊誌を発行し、会員の投稿がそれに載る。会員にとっては励みであるので、そのためだけでも会員となって、すなわち雑誌の購読者となる。失礼をお許し願いたいが、そういうケースもあり得るだろうという趣旨である。
 短歌、俳句の場合はこれがうまくいく。その作品はたった一行で完結しており、一冊の雑誌に数百人の作品を載せることができる。年に12回発行すれば相当チャンスは増えるわけだから、会員だけで十分採算のとれる発行部数を維持できるわけだ。
 民主文学会にもそういう側面はある。アマチュアの書いたものを載せてくれる。安いが一応稿料も出る。地方で同人雑誌をやっても、発行経費はすべて持出しだし、その普及規模も範囲も限定されている。せいぜい友人知人に配る程度だ。「民主文学」に載れば一応全国3千人の手に渡る。多少は文学に関心ある読者の眼に触れる。(もっとも、「民主文学」購入者がどの程度この雑誌を読んでいるかはかなり疑問なのだが)。
 民主文学会の持つこの機能は、同会の最も有力な存続基盤ではないか。商業誌ではまったくその可能性のない作品が、この雑誌なら、可能かもしれないと考えることができるのだ。
 ただ、短歌、俳句と違って、小説には結社機能を有効ならしめる上での明らかな欠点がある。それは小説は長いということだ。一行というわけにはいかない。短くても30枚だ。一冊に載るのはせいぜい数人である。結社機能だけで3千部を維持するのはきわめて難しい。
 商業誌の発行部数がどの程度か知らないが、おそらく「民主文学」とたいして違わないだろう。文学雑誌が売れていた時代は終わった。
 にもかかわらず、そこそこの稿料を払って、安い値段で売ることができるのは、ひとつには広告収入が多いし、それにその作家を囲い込むことによって、売れると判断した際には単行本や文庫本を自社で出させることによって稼げるからだ。こちらに集まっているのはある程度売れることがわかっているプロである。
 民主文学会はアマチュアの集団である。そのことの弱点(売れない)も、長所(結社機能がある程度成り立つ)も、双方持っている。
 だが、この長所が短歌、俳句の場合ほど成立していないとすれば、何によって成り立っているのか。
 おそらくオールドマルキストたちが買ってくれている。買ってもたぶんほとんど読んでないだろうが、お義理ででも買ってくれる。
 60年代後半から70年代の初めにかけて、ぼくは友人たちと同人雑誌をやっては潰ししていたが、当時の民主文学同盟には入ろうとは思わなかった。それでも時々本屋で「民主文学」を見かけると買っていた。
 半世紀経ってこの層がまだ買ってくれている。それはたぶん共産党系のオールドマルキストであり、これはもうひとつのかなり決定的に重要な側面である。
 新日文のことはよく知らないが、有力な作家たちも集まっていたその集団から、あまり有力でない人々が追い出されて文学同盟を作った。にもかかわらず、新日文のほうが消え、文学同盟は残った。もちろん新日文に残った作家たちは作家として自立できたので、もともと求心力が弱いということもあり、一概には言えまいが、共産党の組織力が有効に働いた面もあったのではないか。雑誌というものは購読者がいなければ成り立たない。
「葦牙」についてもほとんど何も知らないが、同様のことがいえるだろう。購読層を組織できるバックがないと成り立たないのだ。
 この側面は、文学会の強みでもあれば弱みでもあるだろう。共産党との間で、微妙な舵取りを必要とされる局面が今後もあるかもしれない。
 会の経済的成立基盤という問題は、それなくしては会自体が存続できなくなるので、最も重要で基本的な側面だと思うから、こういう順序で取り上げた。
 ではある組織をバックとする、いくぶんボランティア的購買層に支えられたアマチュア集団として以上の意味はないのか、というとそうでもない。ここからは「民主文学」の内容の問題になってくる。
「民主文学」は面白くないと言われる。だから誰も読まない。購読者でさえ読まない。おそらく会員でさえ読まない人が多い。それも無理はない。アマチュアの書いたものなど面白いはずがないのだ。
「民主文学」が世界の名作に対抗できないのも確かである。ぼくは80年代に同盟に参加し、まもなくやめたが、それには文学そのものに関心を失ったということもあった。当時、日本古代史や、文化大革命・ポルポト政権(この2テーマに関してだけでもそれぞれ10冊以上読んだ)や、新書関係の雑多な本を中心に読んでいた。小説も読みたいという気持ちはあったが、世界の名作も読めていないのに、現代文学を読んでもしょうがないという気持ちがあって、民主文学以外でも日本文学は一切読まなかった。読まないのに購読しても仕方ないのでやめた。
 それでやめて世界文学が読めたかというと結局それも読めず、もっぱらエンタメばかり読んでいた。労働がきつくなっていたせいもある。労働者は文学なんか読めない。エンタメが必需品である。労働者にとって小説は気分転換だ。これは小説の、とても大事な役まわりのひとつだと思う。
「民主文学には自然主義私小説的身辺雑記が多い」と小林昭が批判していたが、ぼくもそう思う。作家の高齢化もあって、民主文学はすでに古い。日本文学の悪しき伝統から抜け出せずにいる。
 世界名作にもなりえず、エンタメにもなりえない。では何かあるのか。結論から言うと、それが意外にある。
 面白くない小説が多いというのがあり、その結果の食わず嫌いがある。また忙しい日常生活を送っている人々に、まだ評価の定まっていない作品を読めというのは無理だ。そんな時間などない。読む価値があると、あらかじめわかっている作品だけを読みたいと思っても当然だろう。
 だが、ぼくは多少時間ができたので、今回会に復帰して以後、「民主文学」は隅々まで読んでいる。すると、意外と良い作品に出会う。 
 何よりも民主文学には、アマチュアの強みがある。プロでない、アマチュアである、ということは普通に働いており、普通に生活している。全国さまざまな人々の働きぶり、生活ぶりに具体的に接することができる。これはプロの作家の真似のできない点だ。彼らは生活を書いても労働を書いても抽象的である。だが、ここには生きた現実がある。
 これは重要な側面だ。
 いまひとつは、やはり社会を変えたいと思っている人々が書いているということだろう。前にもこういうことを書いた気がするが、これもひとつの特徴だろうと思う。
 じっくり読めば良い作品もあるのだが、それで読者をつかむというのも難しい。不出来な作品がしばしば大きな顔して載る。これがいちばんまずい。評価が読む人によって異なるとはいっても、やはり編集部の能力が疑われかねない。文体や作品の傾向も選ばれるべきだろう。似た文体、似た傾向の作品が連続すると、読者は飽きる。純然たる娯楽小説だって必要だ。それは小説の最も重要な役割のひとつなのだから。投稿優先の方針は捨てるべきだ。全国の支部誌には良い作品がもっとあるはずだ。「まがね」にだってある。サークル誌評委員会がそれを読んでいるのだから、そこからピックアップすればよい。
 作家の能力がよく云々されるが、ぼくは編集部の能力をこそ問いたい。
 ただそこにも難しい問題があるかもしれない。読者層も高齢化しており、彼らは自然主義小説に慣れている。新しい小説に拒否反応を起こすかもしれない。新しい読者層をつかまえる前に、古い読者層に逃げられるかもしれない。
 そう考えていくと袋小路だが、民主文学会がいまなんとか維持できている理由はほぼ列挙できたのではないか。
 しかし今後おそらく二番目に挙げた理由が、オールドマルキストの亡くなっていくのに従って、どんどん成り立たなくなってくる。民主文学会は正念場にさしかかっていると言えるだろう。
 最後に、重要な問題をひとつ書き忘れていたので追加する。
 古本屋通信は、民主文学が面白くない理由について、民主文学では共産党批判がタブーになっている、タブーのある小説など面白いわけがないと言っている。きわめて適切かつ重要な指摘だと思う。
 党員か、党に近い書き手が集まりながら、共産党についてほとんど書かない。あるいは誰が読んでも共産党でしかありえないような党を書いても党名を秘す。
 党批判どころか、党自体がタブーになっているような印象がある。
 たまに党が出てくると、とってつけたような出方になる。
 ある意味ではしかるべき結果だ。
 党に欠陥があることは、書き手であろうがなかろうが、みんな感じている。書き手は、党を書こうとすればそれを素通りできない。しかしそれを書けば問題になるかもしれないと考える。そこで最初から党など存在しないかのように書く。
 自己検閲しているのだ。だから問題の根元に迫れない。いちばん大事なことが書けない。真実が書けない。これでは面白くなくて当然だろうし、文学ともなりえない。
 民主文学会の最も大きな弱点はおそらくここにあるのだろう。
 そしてこれこそぼくがあげた文学会の二番目の側面なのだ。購買層も、組織自体も党に依存している。この関係が崩れると成り立たないという問題を抱えているのだ。
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コメント
113:勉強になりました by 浪人 on 2013/11/07 at 20:51:51 (コメント編集)

勉強になりました。

私も議論に参加させてください。

図書館で拾い読みした本で恐縮ですが、旧ソ連や中国の共産主義政党の特徴として、政治指導者がイデオロギー指導者を兼ねること、実生活と魂の生活との両方を指導者に支配されることとの論及があった。私は、今までの「なぜ既存の社会主義国は誤ったか?」論で、これがいちばん本質的だと思った。例は悪いが、共産党指導者は、いわば国王と教皇を兼ねた存在になりがちである。それが、おぞましい中世的誤りを招くのではないかとの論だ。

日本共産党と民主文学の関係に、そういうことがなければいいがと思う。もしあれば、それは日本共産党にとっても不幸なことだと思う。感性まで政治指導者に支配されたくはない。政治指導者には、その道のプロとして優れた存在であってほしいと思う。赤旗の主張などを読んでそういう役割をちゃんと果たしてくれていると感じることが多いののは嬉しいことだ。だが、いかに優れた政治家であっても、魂や感性にまで立ち入ってはいただきたくない。絶対にご免だ。


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