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藤野可織「爪と目」

 二人称小説というのは、小説を書く者なら誰しも一度は挑戦し、そしてほとんど挫折しているのではなかろうか。
 試してみたくなるスタイルなのだ。三人称があって、一人称があるのに、何故二人称ではならないかと誰しも考える。ぼくも過去に何度か試みたし、現に去年か一昨年にも一、二枚書きかけてそれきり忘れてしまっていた。
 案外うまくいかないのだ。
 それは二人称が原理上一人称を要求するからだ。二人称とは誰かにとっての二人称であって、一人称がなければ成り立たない。それがなければ三人称と変わらなくなってしまう。二人称にした意味がなくなってしまうのだ。ところが一人称が登場したとたんに、今度は一人称小説との区別がつかなくなるのである。
 一人称はいなければならない、しかし、いてはならない、
 これは絶対矛盾だ。だがそうとわかるとよけいに挑戦したくなる。
 呼びかけ形式、たとえば手紙形式や、そうでなくただ形式上呼びかけるという形でなら、おそらく今までにもあっただろう。
 だが、これは安易な解決法に写る。そういう方法を使わずに、普通のスタイルで二人称をやりたいのだ。
 この作品では、三歳児を一人称とすることで、一人称がいながら、いない、という矛盾を実現させた。
 だが、三歳児が知り得るはずのないことを平気で描写していく。もちろんそうしなければ、すべてを三歳児が語ったのでは、一人称小説になってしまうからである。しかしこれでは三人称小説ではないか、どこが違うのかと誰しも思う。ぼくも疑問を持ちながら読み進めた。
 ところが、主人公がブログに熱中し、その状況が「あなた」「あなた」で書きこまれていく個所を読んでいるとき、異常なことが起こった。
 まるで「あなた」と呼びかけられているのが、読者に過ぎないはずの、ぼく自身であるかのような気がしてきたのだ。
 皮肉な三歳児がぼくにむかって「あなた」と皮肉っている。あなたの人生はこんなにも無惨なんですよ、これでよいのですかと暴露している。
 このときぼくは、なるほどこれこそ二人称小説を成功させる最も有効な方法だと気づいた。
 実質三人称でありながら、「あなた」と呼びかけることで、読者を「あなた」にしてしまう。この時二人称は見事に生きるわけだ。
 もっとも、三歳児が一人称たり得る種明かしはされている。
 447ページ(文芸春秋版)の末尾から448ページの上段にかけて、「だいぶあとになって」「それからさらにあと」と傍点付きで、すでに大人になり、肥満を克服して、スマートで背の高い女性になったらしい一人称が、それまでに知りえた事実に推測を交えながら過去を語っているのだ、ということを、二段階にわたってほのめかしている。この部分はあまり目立たないように書かれている。はっきりしてしまうと一人称小説になってしまうからだ。
 ブログの描写のあたりで、ぼくはこの小説は成功していると思い始めたが、終末に来て一人称がにわかにしゃしゃり出てしまった。
 これは小説の雰囲気をぶち壊した。最後まで同じムードで統一すべきであったのだ。小説というのは終わりかたが難しい。決着をつけようとしがちである。だがむしろ決着させてはならないのだ。終わりにしてしまってはならない。生活は続いていくのだから、小説は終わらないところで中断されねばならない。
 残念なところで中途半端になってしまった。

 ところで、最近の芥川賞にはいろいろ批判がある。奇をてらわなければ受賞できないのかと問われる。
 だが、日本全国にはおそらく何万人もの素人作家がいて、力のある作品を書く人も数えきれないほどいる。出版社としての商業的思惑もあろうが、やはりその中からあえて選ぼうとすれば、新しい機軸を打ち出した作品に眼がいくだろう。
 直木賞には文学的冒険は要らない。書き方はありきたりでも内容が良ければよいのだ。だが文学が芸術の一ジャンルである以上、文学そのものを問い続ける作家は、形式を無視できないし、常に冒険しようとする。文学とは何か、言語とは何か、表現とは何かということを考えずにはいられない。種々の試みがなされ、その大半は消えていくだろうが、やがてその試みの中から新しい言語表現が次第に定着していく。その点は他の芸術ジャンルと一緒であろう。

 さて、形式だけなのか、内容は問わないのかという声が聞こえてきそうだが、ぼくは内容も悪くないと思う。
 ブログに支配される人間模様というのは、ありきたりの題材ではあるが、実に丁寧に描出されている。現代習俗への切り込みとして、一つの完成された形を示したと言えないか。
 また、近視の世界から認識される側の、対人認識の不確実性にともなう不安、懐疑という問題は、そこに焦点は当たっていなかったが、一種の哲学的問題提起といえよう。
 我々が五感に頼って疑おうとしない世界は、ただ単に五感が我々に与える世界認識にすぎない。従来視る側から提起されてきたテーマをこの小説は視られる側から提起した。
 さらに、ぼくを唸らせたのは、420ページ下段の叙述である。天災、アレルギー性結膜炎、浮気、祖父の死、外国の内紛と災害、漫画の連載終了、そして母の死。すべてが淡々と並列に並べられる。一人の人間の認識において、これらはまさに並列的出来事である。そのことをどうこう言う前に、これは現実なのだ。この現実認識を欠く文学は虚しいアジテーションと化す。
 アジテーションにはアジテーションの役割があり、文学には文学の役割がある。

 以上、ぼくの素直な感想だけを書くために、あえて選評も読まなかった。笹本氏の短評を読んだのみである。
 ぼくが力説したことをすでにほかの人が言っているとすれば残念だが、これをアップしたあと確認する。
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