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セクハラ

 偶然だが古本屋通信がセクハラに関する記事を書いている。2名の実例について、事件当時かなりネットを追跡したらしく、それをもとに氏の結論を書いている。情報を具体的に分析した記事ではないが、セクハラ問題というのが判断の難しい問題だというのは伝わってくる。
 先月の「まがね」例会が、望月笑子の新人賞佳作作品「無機質な腐敗」をめぐってセクハラ問題で見解が割れたので、一度まとめてみたいと思っていた。どこまでまとまるか分からないが、やってみる。
 見解の割れたのは以下の点である。
 K氏。「派遣という雇用形態が蔓延する中で、セクハラが増えている。この小説はそれを告発した」
 筆者。「派遣によってセクハラが増えたという統計はあるのか。安易に結びつけていないか」
 M氏。「職場が正社員と派遣に分断される中で、人間関係がぎすぎすしてきているという実態はあるだろう」
 T氏。「人心の荒廃は高度成長が終わり、日本社会が下り坂になっているためで、派遣があろうがなかろうが起こる現象である」

 まずセクハラ問題を概括し、そののちに作品に入る。
 セクハラ(性的嫌がらせ)は、痴漢でもなければ強姦でもない。
 痴漢は、一般に未知の行きずりの女性に対して電車の中などの混雑を利用してその身体に故意に触れる行為である。
 強姦は、暴力その他の手段で女性が抵抗できない状態にして一方的にこれを犯すこと。 
 セクハラは上記ふたつと異なり、一般に既知の女性に対して、性的発言や身体に触れるなどの行為によって、当該女性の心を傷つける行為である。
 このほかにも性的問題にはいろいろある。売買春があり、似たようなことだが、生活を保証して女を囲うこと(いわゆるおめかけ)、だまして合意に持ち込んでの性行為など。挙げればきりがないだろう。そしてその境界がしばしば曖昧である。

 痴漢は、(ぼくの見聞では)往時のラッシュアワーの電車内では、日常茶飯事であった。女性は泣き寝入りで、実行者には罪の意識などなかった。
 大江健三郎が「性的人間」の中で痴漢を扱っている。45年前に読んだので記憶はあいまいだが、まず痴漢の社会現象的分析を試みている。
 つまり、既知の女性とは距離をとって暮らす反面、全く未知の女性と身体が密着するという、近代都市社会が生みだした皮肉な現実を、一種の戸惑いを持って描出する。
 その上で結末は、犯罪が露呈し罰せられることを望んで、わざと大胆な痴漢行為に出るという破局的なものであった。
 このあたり、新船海三郎が最近力説する「責罪」という概念を想起させる。
(セクハラとは無関係だが、ついでに「責罪」を書いた文献を上げておく。メリメの「マテオ・ファルコネ」〈新潮文庫の「カルメン」に所収〉およびサルトルの「アルトナの幽閉者」〈人文書院〉。どちらも恐ろしい作品である)。
 現代では、女性が声を上げるようになり、世間もやかましくなって、痴漢は社会的に抹殺されかねないほどの重罪となったので、その数は激減したであろうと推測する。

 強姦も、顕著に多かったのは戦後すぐの頃で、時々新聞に載る統計を見ても一直線に下がっている。40数年前でさえ、強姦した、輪姦したということを得意げにしゃべる若者たちがいた。普通の若者たちである。彼らに罪の意識はなかった。
 当時被害を名乗り出るのが難しかったことを考慮すれば、統計以上に激減しているというべきだろう。
 この点での参考文献は、赤木智弘の「若者を見殺しにする国」〈朝日文庫〉である。
 彼は警察発表の統計を丹念に追って、凶悪犯罪が増えた、少年犯罪が増えたとされていることの嘘を暴いている。
 それによれば凶悪犯罪とされるのは、殺人、強盗、強姦の三つであるが、殺人、強姦が減る一方で強盗が増えていることになっている。ところがそこには数字の操作がある。たとえば女子高生がスーパーで万引きして逃げる際に店員を突き飛ばしてけがをさせた。従来なら窃盗致傷である。しかしある年から警察上部のお達しがあって、これを強盗として扱うことになった。こうしてその年から強盗が激増した。警察予算の獲得のための操作なのだ。少年犯罪についても同様である。
 なお、強姦については、小林多喜二の「防雪林」の主人公「源吉」による強姦も論議の材料となり得るだろう。

 セクハラは、従来犯罪ですらなかった。既知の女性の身体にさわったり、性的言動でからかうということは日常生活の一部でしかなかった。酒席などではことさら激しかったし、職場の酒席では女子社員はホステス扱いされた。
 漏れ聞くところでは、ラテン系の国々では女性へのセクハラこそエチケットで、セクハラしないことの方がセクハラなのだという。これは現実に体験したことではないので定かではないが。
 ともあれ、女性が不快にも苦痛にも思っている以上改善されるべきは当然である。
 そして法もでき、女性も強くなり、世間もやかましくなった現在、統計があるわけではないが、これも激減しているのは明らかであろう。いま男たちは女性と接触する際は神経を張りつめている。女性の感じ方ひとつで訴えられてしまうからだ。

 さてそろそろ本題に入っていかねばならないのだが、まず、「無機質な腐敗」が問題をどう取り上げたかを見ていき、そののちに「まがね」例会での論争に入りたい。
「無機質な腐敗」のケースは実はセクハラより悪質である。「セクハラというよりも、ほとんどレイプだったんです」と書いているが、レイプとするかどうかも微妙なところなのだ。
 2007年2月、24才の妙子は盛岡から横浜の自動車会社ニチドーに派遣社員としてやってくる。自動車メーカーというよりも部品メーカーのようにも読めるが、まあ、それはどちらでもよい。
 同年11月、派遣の解雇が相次ぐ中で、正社員の課長である加藤から、「お前も解雇リストに入っている。おれの言うことをきけば守ってやる」と言われ、抵抗したがしきれず、車の中で犯された。
 じつは加藤には派遣解雇に関して何の権限もなく、翌08年5月には妙子は解雇された。ところが二人の関係は11年1月まで3年間続く。その場所はラブホであったり、妙子の住んでいる寮であったりする。2月に盛岡へ帰り、5月簡易裁判所に訴えた。
 ニチドーを解雇されてから盛岡へ帰るまでの2年半の間、妙子がどこから収入を得ていたのかは書かれていないが、引き続き同じ派遣会社に登録し勤務したと書いてあるから、ニチドーとは別なところで働いていたのだろう。
 この話全体をわかりにくくしているのは、二人の交渉が具体的に書かれていないからである。
 小説の前半はセクハラとは無関係である。じつはその部分の方が面白い。思いつくままにとりとめなく書いた作文のような文章ではあるが、多様な人物とできごとを列挙しており、派遣の労働内容とその環境にも具体的に触れていて、それなりに読ませる。
 後半セクハラ部分に入ると、裁判書類を書きならべるだけである。セクハラの臨場感がない。加藤がどう働きかけ、妙子がどう応じたのかが分からない。
 とりわけ、解雇の脅しに負けたとも読める半年間が過ぎ、解雇されてしまってのち2年半にわたって続いた関係が理解しにくい。「お前が結婚するまで面倒をみる」というセリフを読むと、金銭授受があったとも読める。だがこのセリフは08年3月のものだったりする。いくつかの書類をつなぎ合わせても全体状況は見えてこない。
 母親から、「むしろお前の方が悪いんじゃないのか?」と言われたり、本人自身、「本当に、これで良かったんですかね」「私も悪かったんじゃないかって」とつぶやいたりせざるを得ない曖昧さがある。
 さて、小説としての評価を別にして、どういう事態だったのか考えてみる。
 これは(本当はありもしない)地位や権限を笠に着て性的関係を強要し、強要された側は、いやだったのに、解雇の恐れから抵抗しきれなかったという事案と言えようか。
 ただ、セックスという問題は肉体の問題というよりもより多く精神の問題で、人間精神というのは複雑微妙であるから、裁判書類に要約することは無理である。妙子の心も常に揺れ動いただろうからである。
 妙子は「年上の男性に憧れる傾向がある」「ファザーコンプレックスだ」とも書かれている。
 小説としての評価に舞い戻ってしまったが、結局それが心の問題であるかぎり、心を抉り出して描写せねば何も伝わらないのだ。裁判書類に逃げたのは、それが困難な作業で作者の能力を超えていたからだろう。

「まがね」の議論に戻ろう。
 それぞれの言い分は微妙に異なるが、主な相違はK氏と筆者との間にある。
 K氏の主張は、派遣という労働形態の増加が、セクハラの増加を生んでいるとして、派遣とセクハラとを直結させるもののように、ぼくには聞こえた。
 そういう事実もあるのかもしれない。彼の発言に疑念を呈したぼくの発言は、事実そのものを否定したように聞こえたかもしれない。その点ではぼくにも反省点がある。
 正社員であり、課長であり、派遣の受け入れ教育にも当たった加藤が、派遣の雇用を左右する権限があるかのように偽って性的関係を迫る。弱い立場にある派遣社員は抵抗しきれない。
 そういう事件は起こりうるし、現実の問題として類似のケースは増えているのかもしれない。ただし、統計数字があるわけではない。
 ぼくが疑念を持ったのは、そういう事件は正社員同士でも昔からあるし、派遣という立場に対してはなお起こりやすいかもしれないが、実証できる数字があるわけではない。それに何よりも、行為を行うのも、その被害者も、ともに個人であるという点なのだ。
 立場を利用した強要というのは卑劣な行為だ。この小説はそれを書いた。それはたまたま派遣労働に関するものだった。たまたまなのだ。ぼくはこの問題をそういう角度から見る。派遣社員の場合もあれば、他のケースもあるだろう。欲望に負けてしまう弱くて卑劣な個人というのはいつの時代にもいるし、チャンスがあれば実行する。それは派遣に限ったことではない。
 罪を犯したのは個人である。ただ、罪を犯しやすい雰囲気を社会が作ったかもしれない。
 被害者も個人だが、被害者の立場からすれば、派遣という弱い立場だから被害にあったのだと言いたいかもしれない。正社員で、雇用が安定していれば拒否できたのだと。
 この小説はそういうケースである。それは派遣という立場の弱さを訴えるという意味はあるだろう。
 それでもぼくから疑念が消えないのは、それを安易に一般化し、派遣とセクハラという形で直結させてしまっていいのかということだ。
 ここではぼくは小説を責めているわけではない。小説は具体的にものを書く。ひとつのケースとして書く。
 しかし読む側がそれを一般化してしまうことに安易であってはならないだろう。

 正社員と下請、あるいは季節工や臨時工という問題は昔からあった。三次産業では主婦がパート化した。そこには人間関係の上で種々の問題があった。
 いまは派遣の大規模導入によってますます複雑になった。だがもちろん正社員同士でも人間関係という問題は単純ではないし、雇用形態の違いがもたらす影響も決して一様ではない。単純化できない。
 この小説でも、潤という能力的、性格的弱さを克服できない派遣、あるいは粗暴な派遣、ずるがしこい派遣といういろいろな人物を登場させているし、一方では親身に派遣に話しかけてくる正社員のおじさんも描いている。決して片手落ちの描き方はしていない。
 ただ性的関係という何よりも当事者の精神面に重要性のある問題を取り上げながら、その精神的側面を描くことから逃げたこと、そのことが、本来個人的問題であるものを社会的問題としてとらえさせてしまう結果を生んだ、あるいはこれは個人的問題ではなく社会的問題なのだと作者は訴えたくて、故意に精神面の描写を省いたのかもしれない。
 こう書いたからと言ってこれは社会問題ではないと言いたいわけではない。全て個人の問題は社会問題である。社会から離れて個人は存在しない。
 ただ、ぼくが懐疑的になるのは、それがあまりにも図式的に安易に結びつけられてしまう時なのだ。個人と社会の間にある関係もまた複雑であり、この複雑さを描くのが文学であろうと思うからだ。

 言いたかったことがどこまで書けたか心もとない。
 ぼくはK氏の発言を全否定するわけではない。そのように聞こえたとすれば、ぼくが舌足らずだった。その上でなおぼくが疑念を持った理由を、上記で理解してもらえたとすれば幸いである。
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