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「1Q84」

「1Q84」について12枚書いたが、あまりに散漫なのですべて没にした。
 代わりに読直後に書いた2010年の日記から引用する。この方が多少ましな気がする。

 2010年10月25日
「1Q84」を読了した。文章はうまい。話の運びも、人物描写もうまい。レイモンド・チャンドラー張りの、ハードボイルド。センテンスが短くて、読みやすい。翻訳もしやすいだろう。ユーモア感覚に優れている。随所で笑える。比喩がとてもいい。使い古されてない。オリジナルで、しかも違和感がなく、イメージがすっと伝わる。基本的には、エンターテイメントである。ハリウッドアクションに、SFファンタジー、セックスと純愛と、すべてをかき混ぜて、そこに純文学的要素を付け足したような感じ。
 しかし、エンターテイメントなら、東野圭吾にかなわない。東野にはオリジナリティがある。「1Q84」の致命的欠陥は、オリジナリティのなさである。比喩はオリジナリティに富んでいるが、文章は素晴らしいのだが、作品そのものにはオリジナリティがないのだ。浦沢直樹の「20世紀少年」に負けている。
 取り上げているのはどちらもオウム事件である。オウムは政界進出をしようとして失敗したが、「20世紀少年」は、オウムが政界に進出し、日本の国家権力を握った姿を描いた。そのため創価学会と公明党のあり方をオウムに合体させた。非常にうまいやり方だった。教団「ともだち」の一般信者と幹部の姿をかなり克明に描き、彼らがなぜそこに集まったかをリアリティを持って描き出した。そのために中間的幹部や、下級幹部にまで目配りした。
「1Q84」は壮大な失敗作である。長いが、長さを感じさせないと言うべきか、感じとれないと言うべきか。退屈させないし、面白いから、すっと読める。でも、内容はほとんど何もない。純文学的要素は単にエンターテイメントを破綻させているだけである。
 まず、教団「さきがけ」を何ひとつ描かなかった。どういう人々がどういう動機で集まってきて、具体的に何をやっているのか、最後までわからない。幹部も中間幹部も下級幹部も出てこない。ただボディガードが二人出てくるだけで、彼らはその外貌しか描かれない。
 リーダーが何を望んでいるのかもわからない。このリーダーはコッポラの「地獄の黙示録」の謎の人物そのものである。つまり何もわからないのだ。
 ふかえりは、孵化える――すなわち蘇りであろう。天吾と青豆とを甦らせるのだ。
 リトルピープルは基本的には遺伝子である。すなわちすべての生き物は遺伝子のキャリアに過ぎないということを表現している。にもかかわらず、人間は自由意志を持っており、この自由意志は遺伝子の奴隷であることを潔しとしない。ここに人間存在の根源的問題がある。これがテーマだ。
 また部分的には、リトルピープルはビッグブラザーではない。すなわち偉大な指導者ではなく、卑小で愚劣な民衆そのものである。この民衆の意志に踊らされるリーダーの姿を象徴している。
 この点、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の苦悩を髣髴とさせる。ジョージ・オーエルの「1984年」のビッグブラザーも、結局はリトルピープルに踊らされる存在にすぎないのだ。
 また一方リトルピープルは、「小さきもの」である。それは青豆の体内に育つ天吾の子である。それは遺伝子を受けつぎつつ、また新たに遺伝子と自由意志との闘争を始める存在である。
 この作品には、「1984年」や、「20世紀少年」にあった国家観はない。村上はそういうことに関心を持っていない。
 この作品は基本的に純愛物語である。少年少女時代の家庭環境に問題があったせいで、普通の人生感覚をもてなくなってしまった少年少女が、30才になり、20年の空白を経て再びめぐりあい、普通の生活を取り戻そうとする物語なのだ。だが、その喪失と回復の過程も、じつはリアリティを持たない。そこでは喪失はただ物語の必要上やむをえず導入されたものという印象しか与えない。そのテーマへの作者の内的必然性が感じられないのだ。
 1部2部は単なる導入部で、3部でやっと文学らしくなるが、牛河という人物の描写や、それから天吾と父親との関係を描くあたりは読ませる。まあ、村上も基本的にはこういうことが書きたいのかもしれない。だが、それを普通に書いたのでは読者は読んでくれない。面白くなければ読んでくれない。それで面白くするためにいろんな仕掛けを持ち込んだという感じだろうか。したがって純文学的要素でエンターテイメントを破綻させるのも、やむをえないことなのだろうか。まあ、そういうふうに解釈すれば成功作かもしれない。
 少し短かすぎたかもね。教団「さきがけ」をもっと書ければよかった。でも、長くなりすぎるとまた読者が逃げる。小説は常に読者のことを考えねばならないので、そこが難しいところだ。

 11月10日
「ノルウエーの森」「羊をめぐる冒険」「海辺のカフカ」を読んだ。山口はよい機会を与えてくれた。春樹は読む価値のある作家だ。
「ノルウエー」が一番よかった。69年から70年にかけての学園青春もの。彼は三つほど年下だが、ぼくの青春とほぼ重なる。個性も生き方も全然違うが、感性に似通ったところがあり、この青春文学がすでに存在するなら、ぼくはもう青春は書かなくてもよいな、と感じさせる。ぼくはその後の40年を書けばよいのだ。製鉄所を書けばよい。これは誰にも書けない。
 こうして読んでみると、少年時代の問題から人生に対する普通の感覚を持てなくなって、それを取り戻そうとして苦悩するというテーマが、春樹にとってはひとつのトラウマのようにも思われる。
 ただ春樹は、それを日本的私小説、たとえば太宰治のように、ぐじゅぐじゅと書きたくない。彼は弱みを見せたくない。強がるのだ。ハードボイルドなのだ。おれはこんな人間だ、仕方ないじゃないか、愚痴は言わない、ちゃんと生きてみせる、という姿勢を貫こうとする。だが貫ききれないで、ふっと弱みが出てくる。それが春樹だ。
 文学は芸術の一分野である。芸術とは何か。それは人生の応援歌である。それに接した人が生きていく勇気をもらえるということが、何よりも大事だ。それはどんなエンターテイメントにしてもそうであるし、いわゆる文学系の小説は、エンターテイメントだけでは満足しきれない人のための応援歌なのだ。
 春樹にはそれがある。
 遺伝子と自由意志という問題は、育った環境とどう闘っていくか、いわば社会的遺伝子と自由意志の問題ともなってくる。人間は学習動物であるので、遺伝子は生物学的なものだけでなく、社会的なものでもあるのだ。
 一方彼には、社会を支配する巨大な力というイメージが常にある。それはしばしば陰謀団的なものとして描かれ、そしてしばしば羊がそれに関与してくるのだが、これは彼にとって具体的な陰謀団というよりも、社会の現実のありかたに対するメタファーとして使われているとみるのが妥当だろう。もちろん、ジョージ・オーエルの「1984年」にしても、それはスターリニズムを具体的に描くというよりも、近代文明全体への警告だっただろうし、浦沢直樹の「20世紀少年」にしてもそうなのだ。違いは、オーエルや直樹が、それでも組織の細部を細かく具体的に描写したのに対し、春樹はそれをしないという点なのだ。
 何故しないかというと、それをすると、春樹にとってもっと切実なテーマが、陰に隠れてしまうということがあるのだろう。それはつまり、遺伝子と自由意志、生い立ちと自由意志の問題である。焦点はこちらにある。したがって自由意志を妨げるもしくは制約するものとしての社会的力については、彼は暗喩にとどめ、具体的に書こうとはしないのである。
 オーエルも直樹も、寓話としての組織を細密描写した。だがそれをやると、現実社会から、あまりにもかけ離れてしまうという弱点がある。「20世紀少年」は漫画だからそれが出来た。現実を漫画的に描くことで、現実を振り返らせることが出来た。「1984年」は寓話に徹底することで、そこに焦点を当てた。だが、村上春樹の求めているのは、そういうことではないのである。
 もちろん、何故寓話でなければならないのか、という問題はある。何故現実をありのままに描かないのか、という疑問である。
 ひとつには、それではあまりにも面白くないのだ。もうひとつは、話が具体的になるほど、それは普遍性を失ってしまうという懸念がある。
 個別のものをどう普遍化するのか。その過程において常にぶつかる問題がここにはある。真実は細部に宿るという。細部のリアリティは確かに必要だが、行き過ぎると、それは現実に対する作者の個人的な見方を、読者に強要するものとなる。現実というものは複雑であり、すべてを書ききることはできない。書くという行為は常に取捨選択であり、取捨選択によって作者の立ち位置を読者に示している。それを過てば、それは読者にとって受け入れがたい強要となる。
 読者は作者の見解を聞きたいわけではない。そこに投げ出された作品世界を味わいたいのだ。
 こういった問題が、すべてぼくが書こうとする製鉄所小説に関係してこざるを得ない。ぼくは製鉄所と、その労働と、その労働者とを一枚の絵にしたい。これがぼくの表現欲だ。だが、どうすればそれを普遍的な鑑賞に堪える絵に出来るのか。ぼくは妥協したくない。だが、妥協せねば、退屈なものになりかねない。誰を読者にするのか。誰に対して語りたいのか。だが、読者のことを考えるのは間違っているだろう。要するに文学として成立させるためには、何を書き、何を書かないか、何をどう書くか。
 民主文学の書き手たちの作品を読みながら、常に兆してくる疑問である。そこには読者の読みたくない小説が多すぎる。それは素材に問題があるのか、それとも素材の料理の仕方なのか。
 ただ単にこういうことがありました、という小説は読みたくない。何かが欲しいのだ。それは何なんだろう。
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