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Author:まがねとおる
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諸山立と出会って

 諸山 立 1939年生まれ。たぶん。今年誕生日が来れば82歳と聞いた。
 本年2021年4月1日 死去。
 ジャズ喫茶アヴェニュー経営者。倉敷の美観地区にある。
 詳しい経歴はまだ聞けていない。
 三宅陽介亡き後、一時期「まがね」の会長を務めた。引き受けるときも渋り、その後もずっと辞めたがっていた。
「まがね」に発表した作品名を列記する。枚数は、字数×行数×2段×ページ数を400で割った概数。内容に関する一言。〇✕は個人的見解。

 諸山 立全作品 13作
01年 37号「長い列」91枚 敗戦時の朝鮮北部からの逃走劇 ◎
02年 38号「間貸し」52枚 子どもの目から見たスパイもの 〇
03年 39号「賑やかな水槽」38枚 現代コンビニ風景 ✕
03年 40号「遠ざかる灯」25枚 同窓会 ✕
04年 41号「骨の行方」41枚 町内会と戦争の記憶 〇
04年 42号「果肉」42枚 市税課と女 〇
05年 43号「胡瓜」36枚 少年時代 ✕
06年 44号「水底の街から」83枚 市税課と飲み屋と女 〇
07年 45号「あたたかい飯」33枚 中学生 〇
07年 46号「穴に落ちた男」56枚 痴漢でっちあげ事件 △
08年 47号「過去からの手紙」42枚 平凡 ✕
09年 48号「父の墓」42枚 後半に読み応え △
10年 50号「ボディ&ソウル」47枚 ジャズ喫茶経営者の面目躍如 ◎

 ✕はやや平凡な作品。△は面白いところもあるのだが、少し不満が残る作品。〇は問題なく面白い作品。◎は必読作品。
 以上と思っていたら、もう1作出てきた。
1967年発行「倉敷民文」創刊号「後任」49枚 著者28歳
 合併後、市役所の出張所となったかつての町役場に転任した若い吏員の、出合ったできごと。 
 少し雑なところもあるが、構成力、表現力、人物の造形力、いずれをとっても、すでにれっきとした書き手である。
 以上14作品の掲載誌は10年前に諸山氏と出会ったとき、彼から提供された。その折にすべて読んでいるが、今回すべて再読した。これ以外に作品があるかどうかは知らない。
 一応この範囲で考えると、28歳でそれなりの処女作をものにした諸山立は34年間の沈黙を破って、62歳から堰を切ったように書き始め、いずれも読みごたえのある13作品を書き上げた10年後、71歳で執筆をやめ、以後10年、「あとひとつだけは必ず書く」と言い残したまま世を去った。
 どの作品も、内容といい筆致といい、若々しさのたぎるものばかりで、これが60代での仕事かと驚かされる。
 ひとつひとつ取り上げて紹介したいが、今度ということにしよう。
 残念なのは、作品集を出版していないことだ。同人誌で書く作家は、何作か書くとまとめて何冊か出すものだが、この人はそういうことをしていない。「まがね」のバックナンバーにも在庫がないので、このままでは人に読んでもらえない。惜しい気がする。

 作品にははっきりフィクションとわかるものもあれば、体験に取材したもの、モデルの実在するもの、人から聞いた話、などがかなり混じっていて、それを分けることが困難だ。文学としては別に必要のないことだろうが、いまになってみると、そういう創作裏話のようなものをなぜ聞いておかなかったのだろうと悔やまれてならない。
 作品や、聞いた話などからの推測を交えて、ざっと経歴をたどってみる。

「長い列」では、主人公の少年とその母親が朝鮮北部から脱走してくるのは、敗戦の1年後である。平壌からかなり離れたところにある製鉄所で、父親はそこの技師か何かで、すでに病死している。社宅にいるのは日本人の技師ばかり、朝鮮人の女の子が家事手伝いに通ってくる。朝鮮人の優秀な青年たちが別棟にいて、一般工員は奴隷部屋のようなひどいところに押し込められている。敗戦後住まいを交換されて、はじめてその差別に気が付く。もとから地下組織があったらしく、いっときの混乱はすぐおさめられて、製鉄所は操業を続ける。だが、進駐してきたソ連軍の兵士たちは粗暴で危険だ。
 ひそかに計画を練って集団で脱走を開始する。38度線を越えて米軍支配下に入れば安全だ。
 歴史的事実にどこまで忠実かも不明だが、作者の体験だろう。7歳くらいのときの経験なので、あいまいな記憶を関係者からの取材で補っているのだろう。
「間貸し」では、母子は祖父の残した町場の家に住んでいる。倉敷水島にいたと、本人から聞いた。母の働きだけでは生活できないので、部屋を貸している。そこに公安が偽って借家人として入りこみ、道路の向かいの家を監視しているという話なのだが、どこからがフィクションなのかがわからない。いずれにせよ、生活そのものは事実だろう。
「胡瓜」には、山間部にある母の長兄の家で貧しい暮らしを送る母子が、町場の次兄と妹を無心に訪れ、冷遇されて帰る道で空腹に耐えかね胡瓜を盗む話が出てくるが、これはおそらくフィクションだろうという気がする。前後の現代シーンともども、諸山らしくない雑なところが目立つ。
「あたたかい飯」では、主人公は中学生だ。ここにはかなり体験も入っていそうな気がする。きょう食べるコメがなくて、少年は「腹減った、腹減った」と繰り返す。ぼくの妻は「可哀そうに」としきりと同情していた。
 しかし、おそらくそれが作者の中学時代のすべてではない。ちょっとした体験を引き延ばして書いている。作者から聞いたところでは、中学時代少し不良がかっていた彼は、担任の女教師の借家に入り浸っていた。そこには日本文学全集がそろっていて、彼女が部屋を開放したのだ。諸山少年は、そこで日本文学を読破した。これがのちに小説を書き始めるもととなった。ところが、そこに出入りする少年たちはやがて酒やたばこをやるようになり、女教師は怒って部屋を封鎖した。こういう話を彼は書いていない。「腹減った」の中学生とかなりイメージが違う。
 商業高校を卒業すると、市役所に勤める。「後任」「果肉」「水底の街で」はその体験から生まれた。後年の2作では税務課勤務である。脇役を務める人物たちが生き生きしている。モデルもいたのだろうが、読書体験のたまものでもあろう。登場人物たち、とりわけ脇役が魅力的なのだ。描写に手を抜かない。ストーリーだけでも面白いのだが、ストーリーに引きずられていない。書き急がない。丹念に描写する。
 市役所勤務の青年時代は、組合の活動家でもあったようだ。だが、そういう作品は残していない。「後任」や、「穴に落ちた男」で脇役に登場するだけだ。「間貸し」にも一人登場するが。
 いつからジャズ喫茶に転じたのか、ぼくは知らない。レコードが高価で、自分で買うよりも喫茶店に通って聴いたほうが安上がりという時代だったので成り立ったという。本人から聞いた話では、姉がクラシックが好きで、その影響からクラシックを聴くようになり、それがいつしかジャズに転じたということらしい。
 けれども、彼の小説に姉は一度も姿を見せない。ぼくの聞き間違いだったのか、それとも実際に姉がいたのだとしたら、彼の小説には相当なフィクション部分が多いということになろう。
「骨の行方」には長じて町内の役員をやるようになった経験が生かされている。
「ボディ&ソウル」は唯一のジャズ小説だ。

 ぼくが諸山立を知ったのは10年前である。定年退職して福山に転居してからだ。20数年間離れていた「まがね」に復帰してみると、そこにジャズ喫茶の経営者がいた。しかもこの男がすごい小説を書く。なぜもっと早く戻らなかったのだろうと後悔した。
 ぼくは耳も悪いし、音楽とは無縁に生きてきたが、ジャズは聴いていて飽きなかった。ジャズ喫茶の雰囲気も好きだったので、京都時代はよく通った。岡山県に越してきてからも、岡山市内、倉敷市内でジャズ喫茶を探し、何軒か行った。だが元町通りにアヴェニューを見つけたときは、すでにそういう気持ちから遠ざかっていた。それにジャズ喫茶のアングラ的な雰囲気が好きだったので、元町のアヴェニューはなんだか普通の店のような外観で、ぼくを惹きつけなかった。
 この元町通りというのは、倉敷駅からまっすぐ延びる通りなのだが、当時は細い道で、並行して走るアーケード通りのほうが人通りが多かったと思う。どちらも、美観地区と呼ばれる観光地区へと続く道だ。そこは、グレコの受胎告知などをそろえた大原美術館の周囲に、倉敷川をはさんで今も生きる倉造りの街並みが人々を引き寄せている場所である。
 車時代になって、駅舎が立て替えられるとともに、元町通りは拡幅された。以前よりはずっと広くなったが、車社会の進展には追い付けず、いまとなってはあいかわらず細い通りにしか見えない。けれども人通りはアーケード街を離れてこちらに来るようになった。アーケード街が寂れていく時代だ。観光客はみなこちらを通る。土産物屋もこちらに移ってきた。
 しかし、アヴェニューは、この工事をきっかけにどこかへ消えてしまった。アヴェニューにはいつか一度入ろうと思っていたら、なくなってしまったな、と思っていた。ところがなくなったのではない。移転したのだ。美観地区の裏側、やはり倉造りの家が並んでいて、いま観光客もわりと足を延ばすが、当時は人影まばらだったあたりに引越した。その建物はむかし共産党の地区委員会があった建物で、ぼくも一時は出入りしていた。しかしなにぶん古い街なかだから駐車場が確保できない。たぶんそれで地区委員会は引越したのだろう。
 以上が諸山立との出会い。

 出会って、たちまち意気投合した。いや、ぼくのほうが勝手にそう思っただけで、諸山氏のほうではそうではなかったかもしれない。
 京都を離れて以来、話題を共有できる友がいなかった。何年間かときどき訪ねてきてくれた友人たちは、どういうわけかみんな早死にしてしまった。
 ぼくはすでに福山に転居していたが、妻がまだ水島にいたので、月に一度岡山で開かれる「まがね」の例会日は、ぼくはたぶん前夜から水島に泊まったのだと思う。諸山立を送り迎えするのが月例となった。はじめのうち、三宅陽介と三人だったが、彼が老人ホームに入り、出席が難しくなってからは、我々だけだった。
 諸山立はおしゃべりだ。車の行き帰りのあいだじゅう、ずっとしゃべり続ける。口をはさむいとまを与えない。ずっと一人で喋り続ける。じつにいろいろなことを聞かされた気がするが、いまとなっては、ここにすでに書いたこと以外にはあまり思い出せない。そして考えてみると、いまになっていちばん知りたいこと、彼の生きてきた具体的な日々のことや、それと小説とのかかわりの細部にわたる話について、結局ぼくはなにひとつ訊いてみようとはしなかったのだ。
 まだ電車で通っていたころは、倉敷駅で降りると飲み屋に向かった。三宅陽介が一緒だった。飲み屋に入ると、先客がいた。農学博士だそうで、いまでは名前を思い出せない。誘い合わせたわけでもないのに何度か一緒になった。ベトナムに調査に行ったとき、雨降りで何日も調査に出れない。その日々をベトナム人たちと何をして過ごしたのだったか、面白い話をしてくれたのだが、いまでは話の内容を忘れてしまった。この博士は焼酎の一升瓶を手元において、それを手酌でコップに注いではぐいぐい空ける。新しかった瓶があっという間に半分に減っていた。
 三宅陽介、諸山立、農学博士の3名は、このあたりの飲み屋街では、3馬鹿大将で通っているのだと自慢していた。
 馴染みの店をいくつも持っていて、どこも安い店だと言って、方々へ連れて行ってくれた。ぼくはすでに定年退職者だが、じつは初めての経験なのだ。ぼくには学生時代も、働き始めてからも、こういう付き合いをした経験がない。そういうことに初めて気づいた。
 飲むとぼくも雄弁になる。耳が悪いので声が大きくなる。諸山立は、年上でもあるので、なんでも遠慮せずに言うことのできる相手だった。そういう相手が長年いなかったのだ。ぼくの関心に、ついてきてくれる人がいなかった。もっとも、諸山立がすべてのことに関心を示したわけでもない。それでも彼は聴いてくれた。それだけで、ぼくはずいぶん救われた。
 彼が体調を崩して以来、ぼくは遠慮した。会いたいといつも思っていたが、彼の健康を損ねてはいけないと思って我慢した。もっと会えばよかった。

 10年経ったのだ、と驚いている。10年と言えば、小学校入学した子が高校2年生だ。小学校卒業した子は大学を卒業している。自分自身の少年時代をふりかえれば、それは永遠とも言える長い長い年月だった。貧しい人間関係しか持たなかったぼくでも、それなりにさまざまな出会いはあったし、ストーリーもあった。
 ところがどうだ。いまでは10年は一瞬だ。瞬く暇もなかった。出会いと言えるほどの出会いも、ストーリーと言えるほどのストーリーもなく、いつの間にか日々は過ぎていった。
 そして人々はもっと深く知り合えたかもしれない可能性に、永遠に蓋をして去って行く。残された者はただ茫然と立ちすくむのみだ。
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