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宇佐見りんから

 今期芥川賞受賞作、宇佐見りん「推し、燃ゆ」について、主人公のキャラクターと文体とがマッチしていないという指摘があった。
 たしかに、この主人公は学校でもバイト先でも家庭でもダメな女の子で、それなのに主人公の一人称の文体がしっかりしすぎている。これだけ自分で分かっていれば解決できそうなものだ、と感じさせられるところはある。
 しかし、よく見れば、主人公の書いているブログの文体がそもそもしっかりしているし、自分の好きなアイドルに関しては徹底的に調査研究し、統計をとり、予測も立て、それをファン層に向かって確かな文章で発信している。そのブログは多くの再生回数を稼いでいる。無能な女の子ではないのである。人間の能力が極端に偏ることはありうるわけで、個人的には気にせずに読んだ。
 ここでは、この作品を離れて、もっと一般的に、フィクションのなかのキャラクターの統一と破綻について考えてみたい。
 最近、BSの映画を観ることが多くて、そのせいで時間が足りなくて困るのだが、いままでの人生でほとんど映画を観ていないので、仕方がないのだ。
 ヒッチコックのシリーズをしばらくやっていたが、そのあと、チャップリンに移った。チャップリンはだいたい観た記憶があったが、その面白さ、技術的な高さ、鋭い批評性、人間を見る目の暖かさなどに改めて感じ入った。
 そのなかで、「独裁者」である。最後の場面、ユダヤ人の散髪屋が演説するところ。非常に感動的な場面なのだが、まるで散髪屋のキャラクターではない、ここはチャップリンその人として演説している。
 でありながら、違和感がない。映画の必然の流れとして鑑賞できる。このとき思ったのは、ああ、フィクションというものはこういうことが可能になるのだ、ということだ。
 カミュの「異邦人」についても言えるだろう。
 死刑になったはずのムルソーは、いつ、この文章を書いたのか。と問えば矛盾だらけである。白井浩司は新潮文庫の改訂版のあとがきで、法廷でムルソーの注意を引いた若い新聞記者が書いたのだ、という仮説を立てている。この新聞記者がカミュその人であるのは明らかだし、白井浩司のように読ませる意図があっただろうとも言える。
 それはそれとして、と言うか、それとしてさえも、やはりここにはフィクションの持つ矛盾がある。これはむしろフィクションの不可避的な矛盾であり、だからこそそれはフィクションなのだと言えないか。
 矛盾のないものを書こうとすれば、ほんとうのことをありのままに書いたらいいのだ。フィクションで書くということは、ありのままでは表現できないものを表現しようとして書くのだから、どこかに必ずある種の破綻を含んでいる。
 それは「異邦人」の構造自体についても言えることだろう。ずっと他人事を語るようにして語ってきたムルソーが、最後の最後になっていきなり自分の怒りをぶちまける。ここで、「異邦人」の文体はある意味破綻している。ここはカミュその人が語っているかのようだ。「独裁者」のラストシーンと非常によく似ている。
 完全な小説というものはない。小説がつくりごとである限りにおいて、どこかが必ず破綻している。それこそがむしろ、小説を書く意味だと言えないだろうか。
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コメント
193: by 笹本敦史 on 2021/04/01 at 12:29:45

フィクションでの矛盾点の指摘というのはだいたい後付けで、作品がおもしろければ気にならないし、つまらなければ目につくというものではないかと思います。

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