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【エッセー「すずめ」が思い出させてくれたことと私の勝手な想像】 一読者

 そう言えば、我が家でも昔、家の軒下に落ちてきたすずめと何日か暮らしたことがあった。
 母は、インコのヒナ用の餌をお湯でふやかし、細いストローですずめに与えていた。母はすずめに餌をあげる時、真剣な顔をして、毎回ツーツーとヒナに呼びかけるように鳥の鳴きまねをしていた。
 私たち姉弟は、いつもそんな母を取り囲むようにしてすずめを見ていた。
 すずめはまだ小さくて、体毛が薄く、地肌が透けて見えていた。体はぐにゃぐにゃに柔らかく、頼りなく儚かった。けれど、恐る恐る手の中に包み込むと、その小さな体は驚くほど熱かった。「生きているんだ!」と思うと急に怖くなったのを覚えている。
 結局、すずめはあまり餌を食べず、数日後には死んでしまった。父は「すずめは野鳥じゃから、人間からの餌は食べんのじゃ。」と言った。家にあった動物図鑑を調べてみると、野鳥は警戒心が強く、人間にはあまり懐かないと書いてあった。
「すずめ」を読んで思い出した家族との記憶だ。私は少しの間その記憶の中で過ごした。

「柱時計の上をねぐらにする」「鉛筆の芯の動きに合わせてコツコツやる」。すずめと少年は通じ合い、「ふたり」は同じように「子供の季節」を生きていたのだろう。
 そして、少年とすずめの「重なり合った季節」は、少年にとっては「一瞬」であり、すずめにとっては「生き切る」時間だったのだろう。
「小学生の日々はめまぐるしく、すずめのことだけ覚えてはいられない。」「ある日、動きが緩慢になり、そしてある朝目覚めると死んでいた。」これらの一節に時は過ぎ、少年は少しずつ大人になっていき、すずめは生き切ったこと、そして少年の「子供の季節」の終わりが近づいていることが感じとれる。
 私は、自分の記憶がどういうものかよく分からないと思うことがある。
 私は勝手に想像してみた。
 少年(筆者)はなぜ、すずめと暮らしていた期間を全く覚えていないのだろう。すずめとの些細な出来事は記憶しているのに。すずめがお母さんの手の中で死んだこと、アパートの裏にお墓を作ったことは覚えているのに。 
 私の勝手な想像は続く。
 少年はいつからか、いつもそばにいる兄弟のように、すずめもずっと一緒にいるんだと無意識に思うようになっていたのかもしれない。おそらく、自分とすずめの生きるスピードが違うことなど想像もできなかっただろう。少年にはそんな想像は必要なかったのだ。なぜなら、少年がまだ少年だったから。
 途切れることのない新しい毎日、限りない時間。彼はすずめと「少年の世界」にいたのだ。
 やがて彼にとって、すずめとの暮らしは、とりたてて気にかけることのない日常になっていたのだろう。だから、どれだけの間すずめと過ごしたのか覚えていないのではないか。つまり、幸せだったのだ。
 けれど、すずめはある朝目覚めると死んでいた。少年のすずめとの平穏な日々は突然終わってしまったのだ。それは少年の記憶の中に鮮明に残ったに違いない。そして少年は無意識に時間には限りがあることを知るのだ。
 記憶とは不思議だ。私はしばしば、急に昔のことを思い出す。あの時母があー言ったなとか、あの日吹いていた風の頬にあたる感触とか、思い出すのはいつも何かの出来事というかたまりではなく、些細な記憶のかけらだ。そして、きまってしばらくの間、その記憶のかけらに弄ばれる。幸福感に満たされたり、悲しみが蘇ったり、感情を支配されたりすることがある。そして、些細な記憶を辿るたび、もう戻れないことを知らされる。人の記憶は、些細なかけらから出来ているのかもしれない。少なくとも、私の記憶はそのようだ。
 私はその記憶のかけらを愛しながら、嫌いながら、限りある日々を生きている。

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