プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

「聖痕」および、井上、桜作品

 14日付の朝日新聞で、水無田気流という人が「聖痕」について、よい批評を書いている。はじめて聞く名前だが、肩書は詩人・社会学者とある。まさにそれ自身、(短いのだが)、詩でもあれば、社会批評でもあるような内容である。作品を独自の角度から論じつつ、その論証に社会的な客観性と、イメージの豊かさとを持たせている。このようなものはぼくには書けない。
 このブログ上で様々な作品を論じてきたが、結局いずれも読後感想文の域を出ない。
 だが、それは百も承知。小説にとって何より大事なのは普通の読者の普通の感想であろうと信じる。そこが出発点なのだ。それは読者によってさまざま異なる。それでよいのだ。そこから論争が始まって噛みあってゆけばよいと思うのだが、なかなかそうはいかないようである。

 以下の文章は、以上に書いたことともあまり繋がってもいなければ、「まがね」の読者以外には通じないことがらで、また今から論じようとする二人の作者はそもそもブログを読まないので、そちらに対しても意味を持ちえないのだが、ちょっと思いついたので書いておく。

「まがね」54号の井上淳の作品はぼくには大変面白かった。笹本敦史もそう感じたようだ。ところが井上淳が自作について長々と語ったあと、「聞かない方が面白かった」と笹本君はつぶやいた。じつはぼくもそう感じた。
 一方、桜高志の作品は、その内容は桜氏の口から繰り返し聞いて「面白い。それを小説にしてくれ」とぼくが要望していたものである。にもかかわらず、作品は面白くなかった。
 井上作品と桜作品とのこの対称性は何だろう。一方は作品は面白く、口から聞かされると面白くない。他方は口で聞くと面白いのに、作品になると面白くない。
 けだし、これが作品は作者から独立するということなのだろう。
 出来上がった作品は作者と無縁である。解釈は読者に委ねられている。井上作品はいろんな解釈が可能なので読者にとっては面白いのだ。ところが井上君が作者としての解釈を口にすると、とたんに面白くなくなる。井上君は作者としては一流だが、読者としては未熟なのだ。彼の作品がいろいろに解釈できるのは、彼が決して理屈を書かないからである。彼は頭に浮かぶ情景を素直に再現しようとする。それがよくできているので、そこから読者はさまざまに想像力を働かせることができる。ところが井上君は、自分の小説を一通りにしか読むことができない。それはたいがい読者が気に入った読み方とはズレているので、読者には面白くない。
 ここまで書けば、桜小説が何故面白くないかを書くまでもなかろう。彼は自分の作品を、こう読んでくださいと読者に強要するような形で書いてしまう。読者の勝手な解釈を許してくれない。口から聞くときには、その強制力が働かないのだ。桜君の話を、聞き手は勝手に解釈して面白がっている。それが文章化されると強制力が働いてしまう。

 だから、読書にはそもそも決まった読み方などない。人は自分の読み方を示し、こうも読めるじゃないかと示すことができる。その読み方の客観的妥当性と、深さや意義をめぐって、評論が交わされるのだろう。(なんとか、最初の文脈と繋がったかな?)
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
40:管理人のみ閲覧できます by on 2013/07/17 at 21:34:27

このコメントは管理人のみ閲覧できます

▼このエントリーにコメントを残す