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秋吉知弘「ヨブが見た空」(「民主文学」20年5月号)

「ペスト」を読んでいる途中だが、とりあえずこれだけは読んでおこうと思って手にとった。
 読み終えて、さて、どう書こうかと思いあぐねている。
 新人賞受賞第1作ということで、去年の支部誌推薦作と勘違いした。渡部唯生「歴史の吐息」である。この作品と非常によく似ている。安保法案国会があり、たたかいの盛り上がりがあり、その前で足踏みしている若い主人公があり、70年前の戦争の記憶があり、そしてキリスト教がある。てっきりこの作者が書いたと思って読んだ。
 そうではなかった。「まんまんちゃん」の作者なのだ。いま二人の履歴を見ると生年がほとんど同じである。78年と79年。
「まんまんちゃん」の内容を忘れていたので、手っ取り早く自分で書いた1年前の評に目を通して、思い出した。
 そうだった。前半と後半とが極端に切り裂かれた作品だった。前半、うつを患っている主人公の描写が的確で、文学の香りがした。ところが後半主人公が入れ替わって唐突に原爆の話になり、作品が二つに断ち切られてしまう。
 今回も全く同じである。原爆と安保法案、さらに言えば主人公の青春の迷いと、三つのテーマに切り裂かれた作品である。
 しかし、「まんまんちゃん」では前半の文章が十分こなれていて、文章上手を思わせたのに、今回、冒頭から大変未熟な文章で、とても同じ作者とは思えない。あるいは若い時に書いた物を引っ張り出したのであろうか。芥川賞受賞者などによくある話だ。受賞第1作が書けなくて、受賞以前の作品でごまかす、そんなもののように思える。
 一つの小説のなかにさまざまなものごとについての関心が盛り込まれるのは、必ずしも悪いことではない。人間は多様なものに囲まれて生きているのだから、当然そうある。しかし、それが一つの短編小説となるときには、そこに作品としての統一感がなければならないだろう。この統一感にとって、重いテーマが二つあるということはすでに阻害要因である。原爆と、安保法案と、どちらもが同じ重量感で作品のなかに居座っている。さらにそこに主人公の青春の悩みまでが付け加わり、この三つの要因で、作品を三分割してしまう。
 三つ書いてもよい。ただ、どれか一つを基軸にせねばならなかった。重いテーマが一つあり、それにほかのテーマがぶらさがっていればよかった。
 谷口さんはなかなか印象的だったが、ほかの活動家たちははたして必要だったのか。その他大勢でよかったのじゃないか。
 父親はなかなか面白いキャラクターである。不動産会社を経営しながら、しかも土日も出勤しながら、大学生の息子の朝食を作り、六時には帰宅して夕食まで作っている。随分珍しい人だと思ったら、亡くなった妻の遺言を守っているのだと後でわかる。
 息子も家事を分担していると父親が言っているし、食事以外の家事は息子がやっているらしい記述はあり、ぬか床は息子が混ぜているのだが、例えば、食後に息子がお茶碗を洗う場面とか書いてあればもっと実感が出ただろう。
 この出来すぎた父親に対する息子の鬱陶しい気持ちを書いてはいるのだが、もっとそこを強調して、そのアンバランスなおかしみで作品のムードを統一すればよかった。父と息子というのはなかなかぴったりとはいかない関係だろうから。
 母親の手紙は少し長すぎる。漱石の「心」以来、同人誌作家にありがちな傾向で、ぼくは感心しない。
「ヨブ記」は旧約聖書のなかで異彩を放つ文書だが、この作品の文脈のなかでとてもぴったりしているというようには思えない。
 安保法案を取り上げてはいるが、ここに書かれたような取り上げかたで、この法案に関し何らかの理解をもたらすことが可能だろうか。世論のすべてがこの法案に反対しているわけではない。賛成の世論も反対の世論に劣らず、おそらくそれよりずっと多く存在しているのだから、こういう政治の具体的局面の描写というのは気軽にできることではないだろう。
 この主人公はなぜこの法案にこだわっているのか。彼らの活動に対して、なぜ、一方では引き寄せられ、一方では反発するのか。
 結局短い小説の中に、重いテーマを三つも入れてしまったせいで、どの一つも読者に訴える力を持てない。
 7ページ下段<心臓が文字通り音を立てて鼓動し、まるで心が震えているように感じられた。歩くみんなが僕と同じ思いで、心を合わせて世の中に訴えている。(中略)矢継ぎ早に唱和される言葉を共有し、みんなが一体になっている感覚だった。こんな感覚は初めてだった>
 しかし、<こんな感覚>は、ヒットラーユーゲントのドイツの少年たちも持ったし、教育勅語を唱和する日本の少年たちも持ったし、オウム真理教を奉じた高学歴者たちも持ったのだ。
 もちろん、人は人とつながりたいという根源的な欲望を持っているし、高邁な理想を信じたいと思う気持ちも持っている。だが、基本のところで、それは区別しがたい共通の現象として存在するもので、そこには、人に対して慎重さを要求すべき正当性もある。
 作者は人の感情を描写するとき、十分な批評精神を持っている必要がある。
 年代の問題はどうなのか。
 主人公の生まれたのは1995年である。(19ページ下段)
 母親の死んだのは、2003年。(次ページ)主人公8歳。小学2年。
 長崎原爆投下、1945年。
 <あなたのおじいちゃん、おばあちゃんは長崎で67年前に原子爆弾に遭いました>(18ページ上段)
 さて計算が合うだろうか。67年前というのはいつの時点からさかのぼっているのだろうか。
 母親がこの手紙を書いた年=死んだ年=2003年とすると、
 2003―1945=58年で合わない。
 この手紙が読まれることを予定した年=主人公が20歳になった年=1995+20=2015年とすると、
 2015―1945=70年で、(わずか2年の違いではあるが)一応これも合わない。
 これは病床で死ぬ直前の母親の計算間違いとして理解すべきなのか。(それにしても死ぬ10日前に随分長い手紙を書いたものだ)
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