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青山次郎「ほうとう」(「民主文学」20年4月号)

 書き出しはよかったのだ。仙洞田作品の書き出しに苦労したあとだったので、こういうふうに、いきなり主人公が動いてくれれば読みやすい、と読みながら勝手にうなずいた。主人公のうきうきしている冒頭を読めば、「はあ、これは希望が絶望にかわる小説だな」というのはすぐわかる。それをわからせるような大げさなうきうきぶりで、コメディタッチの小説なのだと思って読み始めた。
 どこに転がっていくかさっぱりわからない小説というのは読みにくい。こういう方向かなと予感させると読みやすいが、予感どおりだとまた失望するので、その予感を裏切ってくれるのがいちばんいいのだが。
 最初につまずいたのは、54ページ下段<爽やかな気分で景色に目をやっていると、これまでのことが次々と胸の内に甦ってきた>から、55ページ上段<出口のなかった自分の過去の思いにふけっていると、風が強くなってきたようだった。高尾山を経由して下山するため僕は立ち上がった>までの、こういう叙述方法なのだ。その間に34行の過去が挟まれている。
 過去を挟んでも構わない。しかしなぜその過去を、この場所で、富士山を眺めながら、<爽やかな気分で景色に>目をやりながら、<出口のなかった自分の過去の思いにふけ>るような、そんな形で思い出さねばならないのか。34行にもわたって苦しかった過去の思いにふけりながら、なおかつこの人は<爽やかな気分>だったのかどうなのか。
 こういう書き方をときどき見かける。何かをしながら、過去を長々と思い出す。しかも順序だてて思い出す。しかも<爽やかな気分>で<いやなこと>を思い出しもする。この人間の頭のなかは今どうなっているのか。<爽やか>なのか<爽やか>でないのか。
 過去を挟んでもいい。しかし、なぜそれを「思い出し」として書くのか。人の「思い出し」は、かくも順序だっているだろうか。人間の心に浮かぶことというものはもっと切れ切れのものではないのか。
 なぜ、過去をその人物の思いとは関係なしに叙述しないのか。ここは一人称だが、その一人称がわざわざ思い出さなくても、過去のこととして客観的に書くことはできるだろうではないか。
 こういう小説を読むとき、いつも浮かぶ疑問である。

 ストーリーは予想通りに進んでいく。ただ、コメディタッチではなかった。その意味では予想を裏切ってくれたわけだが、ここは裏切ってくれないほうがよかった。冒頭の大袈裟なうきうきぶりはどう見てもコメディで、そのままそういうタッチで書き続けてくれればよかったのだ。深刻なことを深刻に書いたのではありきたりだ。深刻なことほどユーモアが欲しい。

 コンビニのさまざまな業態をかなり詳しく紹介している。そこは読みごたえがあった。しかし、どちらかといえば、まだ説明だ。ひとつの店でのある一日を具体的に目に見えるように描き出してほしかった。一人一人の店員の描写、来店客も含めて。そこに力を集中してほしかった。
 組合は余分だったように思える。
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