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姓、氏、苗字

 姓、氏、苗字は「たんめん老人」もいま書いているし、コメントでも疑問が来たが、時代変遷が大きい。姓は元は八色の姓で、じつは八色になる前もあって、臣、連で始まっていた。その臣、連の頭に、真人、朝臣、宿祢などが乗っかったので、臣、連などが下のほうになってしまい、やがて消えた。真人は天皇家から派生した氏族、その下が朝臣、宿祢だったが、平安時代に入るころには、真人も宿祢も消えて、みんな朝臣になった。事実上、姓はなくなった。そして姓と氏とが混用されるようになったと思う。源平藤橘を四姓と呼んだり、臣籍降下で氏を賜うのを、賜姓と言ったり(たんめん老人がこれは賜氏と呼ぶべきではないかと言っている)、姓氏家系大辞典(これは現代の辞典だが)などという用例にみるとおり、ごく早い時期に、姓と氏とは同じ意味になったと思う。もともとは、姓というのはその家の家格を表す。明治になってヨーロッパの真似をして戦争に負けるまでのたった70年間だけ、公候伯子男という爵位を作ったりしたが、あれの古代型が姓である。その姓が朝臣以外使われなくなったので、事実上単に貴族への一般的な敬称の意味だけになった。
 氏は、もちろん源平藤橘以外にもたくさんある。清原とか、紀とか、阿倍とか、だが、京都朝廷は源平藤橘が圧倒的に多かった。そこでその住んでいる街路名をとってあだ名で呼ぶ。このあだ名が家名となる。
 地方豪族はじつは源平藤橘ではない。中央集権国家なので、もともとは確かに中央貴族が国司として地方に赴任し、土着したから、平将門などは確かに平なのだろう。だが、義朝、頼朝がほんとうに源氏かどうか疑わしいという新聞記事も子供のころ読んだ記憶がある。まして北条が平だとか、新田、足利が源だとかというのはほとんどでっち上げである。彼らの系譜などわからない。勝手にそう名乗っただけだ。そう名乗る一方で、やはりその居住地があだ名となる。都市生活者ではなく、地方の地主だから、その土地の名前になる。これが苗字で、どの田んぼの持ち主かという意味だろう。栄えた一族は兄弟がそれぞれ別の土地の持ち主になるから、一人ずつ苗字が違う。親子でも違ったりする。しかし時代を経ると、次第に一家、一族の苗字は継承されるようになり、やがてそれが氏と呼ばれる。いつ、どの時代というよりも、もともと氏と苗字もかなり混用されていたのだろうと思う。
 法律でこれこれと決めたわけではなく、慣習的に使われてきた言葉だから、もともとあいまいなのだ。ぼく自身は、「苗字」にあまりなじみがなかったので、北条、足利が氏で、源平藤橘が姓なのだと錯覚していたわけだ。姓、氏、苗字という使い分けも、細川氏がわかりやすく説明しているだけで、そんなにきちんとしたものではないだろう。
 近代に入って、ミスター、ミセスを翻訳する必要から、氏と夫人が利用された。もっとも夫人は古代中国からあって、日本古代にもあった。帝王の妻の順位の一つだった。これを、ミスター、ミセスの翻訳として使うことが百年間で定着したので、いまになって、氏は男でも女でも氏なのだ、と言われるとなかなか慣れることができないという話。
 そこへぼくの場合、氏と姓に関する誤解があり、氏(源平藤橘)を姓、苗字(北条、足利)を氏と思い込んでいたので、歴史的に女性が苗字では呼ばれず、氏で呼ばれる(これが正解)のを、氏で呼ばれず、姓で呼ばれる(まちがい)のだと勘違いしていたので、余計に、氏が女性の呼称になることに抵抗感があったのだ。だがもともと、漢字文化圏では氏は男女共用だったようだ。漢字文化圏には(日本を含めて)男女を区別する言葉はもともとないのだ。これを切り離したのは翻訳文化だった。苗字が男に対してだけ使われたのは、その時代の要請である。それが田んぼの持ち主を意味するからだ。たぶん江戸時代には、すでにこの用法も変わっていただろう。
 という話である。ぼく自身の誤解が絡んでいるので、話がやたらややこしくなっている。
「氏」という言葉の歴史的変遷と、それへのぼくの誤認識について語りたかった。
 だから、古代―中世―近世―近代―現代という経過が必要だった。このうち近世(ほぼ江戸時代)が省略されているので、話がぴょんと飛んでいる。(じつは江戸時代のことは何も知らないのだ)
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