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「民主文学」20年3月号

秋元いずみ「マア君とクマ」
 今月号は、「若い世代特集」と銘打っている。この人も若いのだろうが、「民主文学」誌上ではもはやベテランだろう。
 書きなれた筆致で、少年の心の闇の部分を、読者には隠したままで引っ張っていき、最後に謎を解き明かす推理小説的手法をうまく使っている。心温まる一篇。日常生活的な細やかな表現は女性作家の得意とするところだ。わかっているようで、じつは何もわかっていない若い女教師への皮肉がよく効いている。母さんそっくりの説教口調をする小学5年生の姉というのもうまい。叔父のみっちゃんは少しできすぎだが、こういう人物が一人はいないとストーリーがまとまらないので、やむを得ない。
 欠陥といえば、不注意ミスがいくつか見当たるところ。
 三人称の「優太」が一か所「僕」になっている。
「要件」はこの場合「用件」のほうが適当ではないか。
<先生の動作がいつもよりゆっくり感じる> てにおはの問題。主語述語がおかしくないか。
<以前何色だったか分からないくらい>⇒<もとは何色だったか> まちがいではないが、引っかかる。

渡部唯生「声と鼓動」
 こじんまりした日常生活的小説だけでは「民主文学」の名が泣くので、こういう作家は必要だ。去年の「支部誌同人誌推薦作品特集」の優秀作獲得作家の受賞第一作である。
 あの作品については、前半はつまらなかったが、後半教会の秘密が明かされるところは読みごたえがあったと書いた。話を作ることのできる人だと思った。それなりに描写もできていた。
 しかし、今回は失敗している。
 小説にはもちろんどんな書き方もありうるが、読者を納得させなければだめだろう。型破りの小説を書こうとしたら、それなりの覚悟がいる。そうでなければ、一応は文学の伝統のなかで仕事をするのが無難だ。
 小説はとりあえず物語である。物語というものは、描写を要求する。場所と人物とが描写されねば成り立たない。観念の羅列では物語が成立しない。
 政治を書きたいという意欲は認める。それは必要なことだ。いま、「民主文学」にさえ欠けていることだ。だが、頭のなかの政治ではだめなのだ。人間の生きた生活から出てくる政治でなければ意味がない。
 このなかでどうにか光っているのは、80歳の老ブルース歌手と、フィリピン人との混血少年だ。この二人は存在感があった。このふたりを中心に据えてストーリーを構築すべきだっただろう。球とあかりはその他大勢でいい。短い小説なのだから、主役が多すぎてはいけない。
 現実の政治がテーマになっている。だとしたら、背景となる現実をもっと丁寧に書かねばならない。
 球は24歳(40ページ)、原発事故のとき16歳(42ページ)だった。3.11があったのは2011年だから、この小説の現在は、現実の現在、2019年である。だから、<香港でも、連日、大規模なデモ>(34ページ)というのはそのとおり。しかし、<国会前はふたたび、数万人の市民たちに包囲されていた>(51ページ)は、現在のこととして正しいのか?
 ぼくは田舎にいるので東京のことはわからないが、ここに書かれている風景は、吉良よし子や、シールズの奥田愛基が登場した時代を思わせる。たった数年前のことではあるのだが、その時代の大衆的盛り上がりはいまはない。と思うのだが、ぼくの認識不足か?(もちろん、その頃も香港には今と異なる雨傘革命があったわけだが)
 この作家は1978年生まれである。現在42歳。その青春時代といえば、2000年ころだろう。その前、作家が10代だった1990年代は、天安門から、ソ連の崩壊、湾岸戦争、阪神淡路の地震、オウム事件と続く。2000年代に入ると9.11からアフガン、イラクへのアメリカの一方的開戦、そして2011年、3.11と吉良よし子、シールズ、奥田愛基の登場と、そして2019年、いまは一時的撤退か?
 時代の流れがどんどん早くなっており、小説を書くほうも実際大変なのだ。変化する社会の流れと、そのなかでの普遍的なものをどうつかむか、作家も格闘せねばならない。
 この作品では、作者の生きてきた20年から30年の間の出来事がごちゃ混ぜになって2019年のこととして描かれているような印象を受ける。
 ストーリーは作っていい。人物も作っていい。作るのが小説だ。だが時代背景を作ってはならない。それは歴史の捏造になる。いまは、たった数年で社会の雰囲気ががらりと変わるのだ。
 いま歴史を勝手に捻じ曲げる小説家たちと対峙せねばならないときに、対峙する側の歴史認識がいい加減であってはならない。いい加減な歴史認識からはいかなる普遍も生まれては来ない。
 この作家の意欲は大いに買う。政治は書かねばならない。だが、もう少し身辺から始めてはどうだろうか。
 描写に意を用いてほしい。臨場感が大事なのだ。国会前デモを書くなら、読者をその現場に連れて行ってほしい。読者を置いてけぼりにして作者だけが行ってもダメなのだ。小説とは臨場感だ。臨場感とは描写だ。

 3月号にはもう一作あるが、まだ読めていないので、また今度。
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