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ライトノベルとふたたびスージーアウトサイダーについて

 50年前、庄司薫の「赤頭巾ちゃんシリーズ」は一通り読んだ。いま思えばライトノベルのハシリだったのかなとも思える。その当時の高校生の話し言葉を使った小説だ。
 つまりそれまでの日本文学にはない文体だった。でも、少しの抵抗もなく受け入れた。若かったからだろうか。
 いやいや、そんなことじゃない。ライトノベルと赤頭巾ちゃんとは次元が違う。赤頭巾ちゃんは文学だし、ライトノベルは到底文学ではない。と、どうしても感じてしまうのだが、ライトノベルの愛読者たちはどう感じているのだろうか。
 エンタメだってそうなのだ。ミステリーだって、横溝正史や、東野圭吾、アガサ・クリスティ、一連の翻訳物、その他その他、ちゃんと小説として読めるものと、やはりライトノベル風のとても読みにくいものとある。ライトノベルというのは人物描写も情景描写もしない。ストーリーだけを追っかけていく。読者が頭の中に絵を描けない。だから、つまらない。退屈で読む気がしない。それにオリジナリティに欠けるし。書いていることが平凡なのだ。
 今回、スージーのアウトサイダーを読んでいて、女の子が男の子の世界をよくこれだけ書いたな、という感想が一方にありながら、やはり女性の作品だとも感じさせられたのである。男の子たちの心のなかを、ああでもないこうでもないとやたら書き綴るのだ。男の子はたぶんこういう書き方はしない。
 それはあだち充を読んでもそうだろう。恋愛を描きながら、少女漫画の描き方と明らかに違う。ことこまかに書かずに、読者に想像させるように書く。そういうところが我々にはぴったりくる。心のなかをあんまり書かれると嘘っぽくなってしまう。心のなかというものは、そう簡単に言葉にできるものではないのだ。それよりも、外から見えるものをもっと丁寧に書き込んでほしいのだ。
 これはつまり、ライトノベルの女流作家に感じるところなのだ。
 けれども、スージーのアウトサイダーで、おや、と思わせたところもあった。それは、けんかの相手側の女の子や男の子が主張を始めて、それまで一方的だった話が複層的になり、しかもそれなりに筋の通った相手側の主張に対して、14歳の男の子がかえって強く反発する、一筋縄でいかない人間の心というものを作者が描いてみせたことだ。このあたりは、女子高校生の作品としては上出来だった。
 オクラホマの地方都市の話である。65年といえば、ベトナム戦争と、公民権闘争の時代だが、そういう話題は出てこない。ニューヨークやロサンジェルスではないのだ。
 上流家庭の子供たちと、貧乏人の子供たちとの間にはっきり垣根があり、それぞれに不良グループがある。グリースとソックスだ。この両者間のけんか沙汰が絶えず、ついに殺人事件までにいってしまう。「ウエストサイド」や「理由なき反抗」に似たところがありながらも、枠組みがまるで異なる。それなりに興味深い話である。最初から最後まで14歳の少年のしゃべくりで、最後に、これが少年の書いた作文だったのだとあかされる。そこはしゃれた終わり方だ。女の子が書きながら、登場人物がほとんど男の子ばかりだというのも、なかなかかもしれない。
 67年にこの作品が出ると、たちまち中学生高校生(アメリカは中高一貫だが)の間で必読書となり、青春小説の流れを変えてしまったそうだ。
 コッポラの映画はあまりパッとしなかったようだが、83年、すでに33歳に成長した作家が、看護婦役で出ているらしい。トム・クルーズも端役で出ているようだ。
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