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「異邦人」論の計画

「異邦人」論を書き始めた。もう正月だから、書きあがるのは来年になるだろう。40数年前、30歳前後に一度、書こうとして資料を収集した。「異邦人」には一言で説明しつくせないところがあり、その部分に迫ってみたかった。
「シジフォスの神話」は「異邦人」と同時に読んでいた。「ペスト」もじきに読んだ。「裏と表」もたぶん読んでいた。このとき新たに読んだのは、カミュの10代からの日記(上下2巻)と、カミュが「異邦人」を書く数年前に書いて発表しなかった作品(異邦人と似た部分がある)、それにフランスで出版され日本でも翻訳出版された5~6冊の「異邦人論」である。「異邦人論」はさまざまな立場の人が書いていた。一人だけ、キリスト教関係の著者が見当違いのことを書いていて、これは相手にする必要がないと思った。それ以外はすべて「異邦人」に好意的だったが、それでもぼくの理解との間に食い違いがあった。それで、「ムルソー・ノート」と銘打ってメモを取った。さまざまな「異邦人論」から検討すべきところを抜き書きした。パソコンもワープロもない時代である。コピー機くらいはどこかにあったのかもしれないが、目に付くところにはなかった。それでガリ版で切って、謄写版で刷った。そういう道具はたぶん金光教の教会で借りたのだと思う。何人かに配ったが、なにぶんまだメモの段階なので反応を期待するほうが無理だった。
 定年後福山に来て書類を整理していて見つけた。でももう用がないと思ったので、捨ててしまった。
 あのとき挫折したのは、翻訳ではわからないところが出て来たからだ。検討しようとしている事柄が微妙な問題だったので、翻訳では手が届かないのだ。それでこれはフランス語を勉強しない限りここから先へは行けないと悟って、結局諦めた。あきらめずにフランス語に挑戦すべきだったのだが、そうしないところがぼくの駄目なところだった。
 今回はそういう欲張ったことをめざすのではない。
「異邦人解説」みたいなものを書いてみたいと思う。というのは、現代人が「異邦人」に対して異邦人であるという現実にぶつかってしまったからだ。
 50年前、誰しも「異邦人」を読んでいたし、みんなカミュのファンだった。いや、ひょっとしたら、たまたま、そんな人ばかりがぼくの周りに集まっていただけのことかもしれないのだが、ぼくは、ほかの人々も、読む機会がなかっただけで、読めば必ずファンになるだろうという気がしていた。ところが、読んでも誰も「異邦人」に関心を示さなかった。わずかに関心を示しても、ぼくがこれは検討に値しないとして捨てた、例のキリスト教徒による解説書に書かれていたのと似た反応だった。
 これはショックだった。このままではぼくが立ち上がれそうにないので、「異邦人の読み方」みたいなものを書く。もし、来年早めに書きあがったら、「樹宴」に出すかもしれない。「樹宴」の締め切りを1月半ばと言ってきたが、もう倉庫に何もないのだ。
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116:re:異邦人論 by 瀬崎峰永 on 2020/01/08 at 16:26:11

そんなことはないでしょう。
僕自身、10代のときに「異邦人」を読んで強い衝撃を受け、それ以来「梶井基次郎とA・カミュが愛読書」と言ってきましたし、ヤスミナ・カドラの「カブールの燕たち」を読んだときにも、この作者はカミュの影響を受けているとすぐに直感しました(実際そのとおりでした)。カミュが好き、と広言している若い女の子も知ってます。今でも読まれているし愛されている作家だと思います。

同調圧力の強い社会にあってムルソーの徹底した個人主義はとても痛快だし、ファンは多いはずです。

ただ、石崎さんの時代、カミュ作品はサルトルとならぶ実存主義哲学の書として読まれていたのではないでしょうか。
カミュはどこまでも、追放の不条理性やあらゆる圧力への反抗を題材に新しい創造を試みた芸術家だと僕は思います。おっしゃるキリスト教徒の書いた解説書というのがどういう内容なのかは知りませんが、哲学書として「異邦人」を理解しようとすると、作品を歪めてしまうのではないかという気がしています。

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