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図、フィクション、言葉

 こういう考えが頭に浮かびました。あなた方工学系の人たちが図を示してイメージを与えようとするのは、私達がフィクションを創ってイメージを受けとってもらおうとするのと、同じことなのではないかと。言葉というものはどこまでいっても不完全なもので、すでに語られてきたこと以上のことを語ることはできない。そういうことについての言葉はまだ存在しないからです。だって言葉というものは、語られることで生まれてきたのだから、まだ語られていないことについての言葉はありません。
 だが、人間がものごとを明確に理解するのは言葉によってだから、言葉にならないものについてのイメージは、伝えようとする側にとってさえ、不明確たらざるを得ません。そこで人はまず自分においてものごとをはっきりさせるために、図にしたり、フィクションにしたりします。伝達という行為は、まず自分に対して行われるのです。しかるのち人はそれが他人に伝わるかどうか試してみるのです。それぞれの得手不得手にもとづいて、図であったり、フィクションであったり。
 受け手の側にも得手不得手があるので、図を見ても少しもイメージが浮かばない人もいるし、フィクションを読んでもイメージが浮かばない人もいるのでしょう。もちろんどちらも可能な人もいるのでしょうが。
 そしてたぶん、評論は、図もフィクションも使うことなく、なんとかそれを言葉に置き換えてみようとする試みなのではないでしょうか。
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108:感想 by 植田与志雄 on 2019/12/27 at 13:55:13 (コメント編集)

興味あるので混ぜてください。言葉は日常生活での感覚や考えの伝達や共有のために生まれたと思います。日常生活に入らない内容は言葉は役不足なので、数学者は数式を、技術者は図を、音楽家は楽譜を、ダンサーは身振りを使うでしょう。私は図で考えることが多い。そして図からアイディアが生まれたりもします。文学では言葉の操作によって新しい感覚を呼び覚まされることもあるでしょう。しかし絵画を言葉で表現し尽すのはかなり困難と思います。人の内面で生まれたサムシングを体外で表現する、広い意味の言語は多様と思います。話し言葉は、生命維持活動としてすでにある呼吸の排気系に便乗した低エネルギーの合理的伝達手段なので太古の昔から使われていたと思います。時間に沿った1次元表現だけなので、必要に応じて脳内でこれを多元的なイメージに変換していると思います。言葉には歴史がありますが表現したい実在によって最適とは限らないと思うのです。
20200109これは植田による修正実験です。

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