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図、フィクション、言葉

 こういう考えが頭に浮かびました。あなた方工学系の人たちが図を示してイメージを与えようとするのは、私達がフィクションを創ってイメージを受けとってもらおうとするのと、同じことなのではないかと。言葉というものはどこまでいっても不完全なもので、すでに語られてきたこと以上のことを語ることはできない。そういうことについての言葉はまだ存在しないからです。だって言葉というものは、語られることで生まれてきたのだから、まだ語られていないことについての言葉はありません。
 だが、人間がものごとを明確に理解するのは言葉によってだから、言葉にならないものについてのイメージは、伝えようとする側にとってさえ、不明確たらざるを得ません。そこで人はまず自分においてものごとをはっきりさせるために、図にしたり、フィクションにしたりします。伝達という行為は、まず自分に対して行われるのです。しかるのち人はそれが他人に伝わるかどうか試してみるのです。それぞれの得手不得手にもとづいて、図であったり、フィクションであったり。
 受け手の側にも得手不得手があるので、図を見ても少しもイメージが浮かばない人もいるし、フィクションを読んでもイメージが浮かばない人もいるのでしょう。もちろんどちらも可能な人もいるのでしょうが。
 そしてたぶん、評論は、図もフィクションも使うことなく、なんとかそれを言葉に置き換えてみようとする試みなのではないでしょうか。
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115:管理人のみ閲覧できます by on 2020/01/08 at 00:00:40

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114:「図、フィクション、言葉 」についてのコメント 2 by 高原利生 on 2020/01/07 at 23:58:25 (コメント編集)

 先に次の批判をしておくべきだった。
 石崎「図、フィクション、言葉」2019:「言葉というものは、語られることで生まれてきたのだから、まだ語られていないことについての言葉はありません」

 言葉は語られることで生まれてきたのではない。その中で発展はしただろう。「まだ語られていないことについての言葉はありません」ということもない。石崎さんに珍しく、文法だけは合っているが、内容が全て間違いの文である。

 形式論理と文法の間にあるべき論理学はまだない。高原が「未完成の哲学ノート」で作ろうとした一つは論理学である。その内容の一つは、何かが生まれる論理である。
 書いていて、物々交換や言葉のように、人の共同観念とある種の もの の双方に担われているものごとの始まりは、二種の領域で同時に行わなければならないため難しいのだと分かった。
 始まってしまえば、言葉は、過去、未来を含むあらゆる領域のあらゆる可能性を自由に広げることができる。新実在論の言うとおりである。
 始まった後、何かを産み続ける原動力は単純で、必ず差異を埋めることである。吉本隆明の自己表出、指示表出の他にまだある。

110:「図、フィクション、言葉 」についてのコメント by 高原利生 on 2019/12/27 at 14:18:54 (コメント編集)

 仮説がある。哺乳動物の集団による狩りの中には、高度の抽象力、超感覚、「空間的判断」力があった。単一目的に特化されているものの、複数個体間の高度な双方向コミュニケーションと、極めて高度の抽象力により、行動の目的の全員の一致、全体の中の自分の位置の把握、「空間的判断」による、各個体の行動像が一瞬の内に実現されている。
 この段階に欠けている知的能力が必要だったので、人類はこの過程を一般化し単一目的から全体の複雑高度な目的、実行力の獲得の方に進んでしまった。それが「空間的判断」力を失う代償で得られた時間的言語だったのではないか。(未完成の哲学ノート四版p19)
 今でも、言葉以外に得る情報は多く、図など何かを特別扱いする意味は少ない。使えるものは全て使わねばならない。
 大事なことは、何であれ表出されたものは、死んだ情報であり、それから新しいものを作らないといけないという態度である。

109:管理人のみ閲覧できます by on 2019/12/27 at 14:03:41

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108:感想 by 植田与志雄 on 2019/12/27 at 13:55:13 (コメント編集)

興味あるので混ぜてください。言葉は日常生活での感覚や考えの伝達や共有のために生まれたと思います。日常生活に入らない内容は言葉は役不足なので、数学者は数式を、技術者は図を、音楽家は楽譜を、ダンサーは身振りを使うでしょう。私は図で考えることが多い。そして図からアイディアが生まれたりもします。文学では言葉の操作によって新しい感覚を呼び覚まされることもあるでしょう。しかし絵画を言葉で表現し尽すのはかなり困難と思います。人の内面で生まれたサムシングを体外で表現する、広い意味の言語は多様と思います。話し言葉は、生命維持活動としてすでにある呼吸の排気系に便乗した低エネルギーの合理的伝達手段なので太古の昔から使われていたと思います。時間に沿った1次元表現だけなので、必要に応じて脳内でこれを多元的なイメージに変換していると思います。言葉には歴史がありますが表現したい実在によって最適とは限らないと思うのです。
20200109これは植田による修正実験です。

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