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「民主文学」1920年1月号

 50年前に読んだ本は細かいところまで思い出せるのに、きのう読んだ本の内容を思い出せない。これはすでにれっきとした事実だから、承認するしかないのだ。
 読んだ本の感想を書くのは、それゆえの備忘録だ。ところが自分の書いた感想すら忘れてしまい、挙句、感想を書いたということまでも忘れてしまう。
 悔やんでいてもしょうがないので、先へ進もう。

野里征彦「わが心、高原にあり」
 連載第1回。<意識はとっくに戻っていた> プロ級の人なので、出だしからうまい。こういうものを繰り返し読んでいれば、うまい文章を書けるようになるかもしれない。もっとも、内容が面白いからこそなのだが、文章のうまい人はだいたい内容も面白い。引き寄せられるように読んでしまう。締めがまたうまい。
 <ぼくの気持の隅に張り付いていた「きえええーっ」という得体のしれない奇妙な叫びの正体に気づいたのは、そんなことの一つだった>
 と来ては、来月号を期待せずにいられないではないか。
 しかしこの話、同じ作家の短編で一度読んだような気がする。人生に絶望した青年が山のなかで木を切る仕事を始めて元気を取り戻すという話が、たぶんこの作家だったような気がする。あれがテレビドラマなら、今度は劇場版ということかな。
 一箇所、誤植。16ページ下段。(耕地面積一反部)⇒(耕地面積一反歩)の間違いだろう。

 ちなみに今月号はいたるところ誤植が目立つ。
 中西繁「油絵紀行」99ページ上段。13行目の<パリのマドレーヌ寺院>から、21行目<ドラクロワが描いたショパンの有名な肖像画の複製が飾られている>までが、その21行目から下段の2行目にかけてそっくり繰り返されている。いくらか表現が変わっているので、おそらく推敲の段階で、前の文章が消されずに残り、推敲後の文章と併存したものと思われる。
 最近、WORDの機能が著しく劣化して、さまざまな問題が生じ、使いづらいソフトになっている。その一例かも知れない。
 ただ「民主文学」は、少ない人数のボランティアに近い編集部でやっているだろうから、行き届かない面があるだろう。そのぶん、著者の本人校正を慎重にやることが望まれる。

田本真啓「メトロノーム」
 最初に誤植の指摘。30ページ上段。<僕は先生のことを嫌いなった>⇒<嫌いになった>の間違いだろう。
 この人の作品は第一作のピーターパンとカントの出てくるやつ(題名は忘れました)が大変気が利いていて面白かったのに、2作目、3作目はパッとしなかった。今回作は久々に<田本リズムを取り戻した>という感じで面白く読んだ。特に、袖口から蛇の出てくる場面は圧巻だった。この調子で頑張ってください。

かなれ佳織「青いゾウ」
 これもうまい作品、読ませる作品である。若い世代を巧みに書いたなと思う。でも、現代の若い男性というのは、ほんとうにここまで謙虚なのだろうか。まあ、独身社員のあこがれの的を自分が射抜いたとあれば、そうあってしかるべきか、こういうやさしい男もいるのだ。いま、それだけではまずいと自覚して変わろうとしているところだからいいではないか。彼女のほうも「変わりなさい」と言ってくれているし。

須藤みゆき「水入らずの日」
 この新しいシリーズの二作目?
 この人は独特のムードを持っていて、それにふさわしい独特の文体を持っている。センテンスが長い。長くてねじくれたセンテンスなのだが、にもかかわらず気持ちよく読めるのだ。下手な人にありがちなねじくれかたと全然違う。意図的に、文学的必然性をもって、ねじくれさせている。ねじれと、畳みかける文体、これがこの人のものだ。
 10年前の5歳の娘の事故死と、その後の離婚を抱えた暗さはあるのだが、全体の筆調はむしろユーモラスだ。自らの少女時代を語ったときの一面的な暗さからは明らかに切れている。背負ってしまったものを、背負ったままで、その場所で生きていこうとする強い意志を感じる。自分のことよりも周囲の人々のほうをより多く気にかけ、より多く描き出すところに何かを獲得した姿勢が見える。
 <私はここで、生きてゆくのだ>

鶴岡征雄「交尾」
 前作から、この人の作品に興味を持った。タイトルを忘れたが、初めて出会った女性に自分の失恋の打ち明け話をしているうちに、結局その女性と寝てしまう、まだごく若く、純情そうに見えて手の早い青年の話。あれは面白かった。女性も魅力的に書けていた。
 今回作も途中まではたいへん面白いのだ。高齢の医者と、彼が通うバーの25歳のバーテンと、来始めたばかりなのに馴れ馴れしい弁護士事務所勤務の三十路の女。このバーテンは役者崩れで、客あしらいがぞんざいなのを逆に面白がられている。胃潰瘍が進んでいるのに医者のいうことを聞かない。この三人の掛け合いの面白さで読ませる。
 ところが終盤になって、次々と新しい話題が出てくる。この三十女には統合失調症で自殺した弟がいた。その自殺に彼女は責任がある。
 医者の姉とされている人は、じつは医者の母親で、そこにも長い物語がある。三十女は和子、医者の姉は松子、このふたりの物語が始まるまで小説はバーを舞台に三人の掛け合いを中心にしてゆっくりと進んでいくのに、終わり近くになって、和子と松子の、いままでとはまったく無関係な二つの、それもお互い無関係で、しかもどちらもいたって重い物語が、いきなりばたばたと駆け足で飛び込んでくる。
 これはめちゃだ。この二つの話はそこまでの話とまったく関係がない。それは別のところで書くべきだ。もし三つの話をひとつにしたいのなら、少なくともこの三倍は書かねばならないし、それがひとつの小説になるための必然性をも作り出す必要があるだろう。
 欲張りすぎて失敗してしまった。
 ところで年代設定はどうなるのかな。松子の恋の相手、つまり医者の秘密の父親だが、学徒出陣で死んだ。その息子である医者が77歳だから、ほぼ現代の話、三十路の女も、25歳のバーテンも、いまのこの時代に30代であり、25歳なのだということになる。それにしては二人とも少し時代がかっているように思う。現代では30代の女を三十路の女とは言わない。アラサーというのだ。一方、統合失調症は最近の言葉だろう。むかしは分裂病と言ったのだ。
 その上に、医者には40数年前に結核で死んだ双子の兄弟がいた。この医者は77歳、その秘密の父親は学徒出陣で死んだのだから、双子が生まれたのは、戦争の始まる少し前だろうか。双子の片割れが死んだのは、戦後30年以上、早くても1970年代末以降のことになる。そのころには結核は不治の病ではなくなっていた筈である。するとこれはもっとずっと時代をさかのぼるべきなのだろうか。だが、そうすると、学徒出陣で死んだ秘密の父親の年齢が合わなくなってしまう。
 前作は、1960年代に設定して書いた。だからその時代の雰囲気をうまく出せた。今回作は少し無理があるようだ。

橘あおい「こもれびの病棟」
 精神病の話。内容は書かれるべき内容であり、読まれるべき内容である。だが、小説としてどうなのか。文章は整っている。癖のないのが長所でもあれば短所でもあるという文章。
 さまざまな症例、さまざまな問題点が列挙される。だが、列挙を責めるなら、ぼくが今回傑作とした「まがね」61号の桜高志「介護の神様」を否定することになってしまう。あれはエピソードの羅列に過ぎないといって批判された。その批判は当たらないと言ってぼくは抗弁した。羅列に価値がある、作者が口出ししていないところに価値がある、というのがぼくの意見だった。
 ではこの橘作品はそれとどう違うのか。
 読者としてのぼくのほうに問題があるのかもしれないが、ぼくは以下のように感じた。ごたごたしている。統一感がない。モードの一貫性を感じとれない。絵画で言うならば、地の色が不鮮明である。音楽で言うならば、モチーフ(一貫して流れる旋律)に欠ける。
 もちろん内容面で言っているのではない。内容は精神病の問題で一貫している。表現方法上の問題である。一番損ねているのは、<私>の存在だろう。この作品では、ときどき顔を出す<私>が邪魔になっている。<私>はこの作品には不必要な人物だ。いないほうがいい。
 何が問題なのか。小説はそこにバーチャルな世界を作り出すのだが、ここでは、主張したいことが前面に出てしまって、世界が描かれていない。むしろルポルタージュとして書けば成功しただろう。
 ルポルタージュ、あるいはドキュメントと呼ばれる世界、そういうものが日本では不当な扱いを受けていると感じる。そういうものを読者が読まないので、読者に読まれることを目的として、ルポで書くべきものをむりやり小説にしてしまう。小説のほうが読者に馴染むからだ。その上小説はルポほどの正確さを要求されないという利点もある。
 これからの日本の文学は、小説至上主義を捨てて、ルポ、ドキュメント、エッセー、批評、あるいは伝記や、詩や戯曲など、多面化していったほうがいいのではなかろうか。小説が逃げ道になってはいけない。

青木陽子「夏休み」
 これはさすがプロの作品。ケチの付けようがない。うまいので、なだらかに読んでいける。読んでいて場面が眼に浮かぶし、子供たちの姿が鮮やかだ。
 時代の変化についていけないわれわれ世代の嘆き節で、嘆きの内容がよくわかる。反発もあり、寂しさもある。半面、われわれの親もわれわれに対してそうだったのだろうなとも想像してみる。
 日々、直面し、どうしてよいか分からずに立ち尽くしている。すごい勢いで日常生活のツールが変わっていき、それに伴って人間関係が変化する。馴染めないものに馴染もうとは思わないが、利用できるものは利用できる限りで利用しようとする。新しい世代に対して何かできるのか、何もできないのか、よくわからない。できるだけ繋がっていたいと思うだけだ。「ウザイ」と思われているかもしれないが、そんなことには負けないぞ。
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コメント
105:交尾 by 石崎 徹 on 2019/12/23 at 17:14:43 (コメント編集)

 おっしゃるとおり、雰囲気は昭和なのです。ところが昭和というのは30年前、1989年で終わっているのです。そのとき77才だとすると、1912年の生まれです。しかしその父親は学徒動員で戦死しています。それは1940年代の話です。1912年に子をなした男が、40年代に学生のはずがないでしょう。50歳近いはずです。そういうちぐはぐさがこの作品にはあります。面白い作品であることは認めますが、小説にとって時代背景は重要だと思います。

104: by 民主文学読者 on 2019/12/22 at 19:14:03

2020年1月号、いわば新年号なので期待して新春短編小説集を読みました。おもしろかったのを一つ選ぶとすれば「交尾」です。人にはいろいろ事情があったりしますが時代背景は「昭和」でしょうか。タイトルも内容から別の方がいいのではと感じた。

103:アラサー by 笹本敦史 on 2019/12/22 at 08:30:36

「アラサー」は30歳前後を表す言葉なので「三十路」とはちょっと違います。今どき「三十路」という言葉をあまり使わないのも事実ですが。

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