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ムルソーとはなにか

「異邦人」に対する人々の反応にショックを受けている。反発するというのならまだわかる。どうやら関心を持てないらしいのだ。「これが世界の名作? なんで?」という反応である。ここまでとは思わなかった。あまりに衝撃的で、自分自身を「異邦人」と感じてしまった。
 歓迎してくれると思っていたわけではないが、落差の大きさに、うまく言葉が出てこない。どう解説してよいのかわからない。
 考えてみると、この作品を受け入れる感性というのは、自分自身を「異邦人」であると感じる人々のものなのかもしれない。
 世間の人々とのものの感じ方の違い、この違和感による生き難さ、自分はこの世界の住民ではないと感じること、まず基本にあるのはそういうものだ。日本ではそれを代表するのが太宰治である。
 ところが「ムルソー」はそれを突き抜ける。「ムルソー」はぐだぐだと悩まない。その場で開き直る。
「虚無主義ではないか」と言われた。たしかに哲学的には虚無主義である。だが、「明るい虚無主義」だ。太宰の「暗い虚無主義」の対極にある。
「人生は無意味である」。その意味するところは、人生にはあらかじめ与えられた「意味」は存在しないということである。しかし、だから暗く生きなければならないという理由はどこにも存在しない。偶然与えられた人生を十分堪能して生きればよいのだ。
 人々がぐだぐだと悩むのは、人生には意味がある筈だと思ったり、ありもしない「希望」を持ったりするからだ。
 生命は偶然の産物で、死は絶対的で、ア・プリオリな意味は存在しない、人間は自由であり、自由に生きてよいのだと知ること。
「失われた夜のために」のなかに書いたが、あれは実際に見聞きしてきたことだ。即ち、太宰治にとりつかれた人たちは、そのあとカミュに夢中になる。そして人によっては共産党に入党する。そういう実例をぼくはいくつも見た。周知のように、太宰治もカミュも青春の一時期共産党に入党している。
 カミュとは、「異邦人」とは、「暗い虚無主義」からの開放なのだ。太宰治から救い出した青春なのだ。われわれが「異邦人」のなかに見たのは「明るさ」である。「太陽と海」である。「異邦人」が暗い小説だと感じたことは一度もない。ぼくらは「異邦人」に太陽と海を感じたのだ。その焼けつくような輝きと底抜けの明るさとを受けとったのだ。ぼくらは「異邦人」を得たことでようやく人生を肯定することができたのである。
 なるほど、そういうものと無関係だった人々にとっては、「異邦人」はなんのことかさっぱりわからない代物なのかもしれない。われわれはたぶん救われる必要のある人間だったのであり、そこで救われただけのことだった。
 そして、この小説が世界中で歓迎されたという事実の裏にあるのは、自分を「異邦人」であると感じ悩んでいた人たちが、それだけ多かったということなのだろう。
 今回、まず、文体でつまずいた人が多かった。「これが文学の文体か?」「翻訳だからこうなるのだろう」「日本語の小説としてはありえない」
 そういう側面もあるかもしれない。だが、この文体は翻訳だからの文体ではない。原文自体が、わざとそういうふうに書いてあるのだ。文学的必要性によって択ばれた文体なのである。
 直接的にはレイモンド・チャンドラーの影響が指摘されるし、実際そうなのだが、そういう文体が、自分の現わそうとする世界を描くのにふさわしいと感じたから、カミュが選んだものなのだ。
 犯罪と裁判の記録なのだから、そういう意味でもこの文体はふさわしい。主人公の心のなかを分析的には書かない。松本清張は探偵の推理の過程をそのまま綴っていくが、すぐれたミステリーはそんなことはしない。探偵の見聞きしたものはすべて読者に見せる。だが、推理の過程は見せない。読者に推理させる。それが読者にとってはミステリーの楽しみだ。
 それはそれとして、この作品は、一人称小説だが日本の私小説の対岸にある。日本の私小説は、自分の心理をあれこれと分析してみせる。しかし、現実の人間はそういうようには生きていない。あれこれと自分を分析しながら生きているわけではない。人間の意識はもっと切れ切れで、その場その場の瞬間的なものであるはずだ。私小説作家の書くのは、すべて後付けだ。あとで考えたアリバイに過ぎない。
「異邦人」に記録されるのは、ムルソーの眼に映ったこと、人々の行為と自分の行為、人々のセリフと自分のセリフ、そしてその場その場で自分の心に浮かんだあれこれの印象だ。
 リアリズムを言うなら、このほうがリアリズムなのである。
 もちろん必要以上に主人公の心を隠しすぎているのじゃないか、という指摘はありうる。それはこれがある意味ミステリーとして成立するための必要性によるのだ。文体のなかから、その隠されたものを読者に発見してもらうために隠している。下手な小説にある読者への不親切とは違う。必要だからそうしている。
 キリスト教の問題がある。これは無神論の小説だ。1942年、キリスト教がまだ強い影響力を持っていたヨーロッパ社会では、「神を信じない」と公言することには強い反発があっただろう。
 だが、いまはもう無神論は常識となり、宗教が少数派となった世界で、無神論はもはやインパクトに欠けるのじゃないか。そもそも日本にはキリスト教が存在しないし、日本人は最初から無神論者だから、日本人の読者にとってはなんの意味もない、と。
 たしかに、具体的に書かれているのはキリスト教だから、表面的に読めばそういうことで済ませてしまえるのかもしれない。
 つまり、ドストエフスキーも、アンドレ・ジッドも、ヘミングウェイも、サルトルも、いっさいの無神論小説はもはや意味を失った、いや、そもそも日本では最初から意味がなかった、と。
 けれども、カメル・ダーウドはイスラムの立場からカミュへの賞賛を惜しまなかった。「小説を知らなかったら、自分はイスラム過激主義になっていただろう」とダーウドは書いている。幼いころはイスラムに傾倒した、自分を反イスラムだと言って攻撃する連中よりもずっと深く自分はコーランを理解している、だが、小説を読むことで世界が開けたと。そしてその自分の小説のなかで、ムルソーが司祭に向けて発したとそっくり同じ言葉を、イスラムに対して向ける。
 なるほど、あのアラブ人たちの世界には、まだその問題、神の問題が残っている、だが日本人には存在しないのだ、というのだろうか。
 カミュは、「無神論は宗教への無関心ではない」と言った。「宗教への無関心には文明に対する無関心を感じる」と。
 明治維新以来、必要に迫られて西洋文明を必死になって取り込んでくるなかで、その文明の神髄ともいうべきキリスト教も、さまざまな形で受容してきた。社会主義でさえ、日本に最初に入ってきたのはキリスト教社会主義だった。
 ある時期まで、日本の知識層には常識としてキリスト教があった。
 高度成長以後、日本はずいぶん変質した。高度成長と、その終焉、バブルとさらにその崩壊も経て、妙なナショナリズムが多かれ少なかれ人々を侵食している。外国文学を読まない。日本の小説だって読まないというが、そんなレベルではない。比較にならない。精神的な意味では、日本の鎖国時代がまた復活して来つつあるような気さえする。
 日本人の精神を形作ってきたのが仏教であるとするなら、仏教への無知もまた責められるべきことではあるだろう。だが、だからと言って、キリスト教は日本人には関係ないので知らなくていいのだ、ということにはならない。
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139:「ムルソーとはなにか」へのコメント補足 by 高原利生 on 2020/02/14 at 23:00:10 (コメント編集)

 「人生は無意味である」以下の7行を読む気力が出るまで三日かかった、と書いた。
 石崎さんは、人々の自由への具体的努力から目をそらせる。論理から目をそらせるのが、楽しく泥沼に引きずりこむ邪教のような美文である。
 「明るい虚無主義」で「偶然与えられた人生を十分堪能して生きる方法がある」なら示してみよ。
 僕には自由に生きる方法は難しかった。できるだけ短く単純に書こうとしたが、二百ページかかった。まだ改善の余地があり改良している。

138:「ムルソーとはなにか」2019へのコメント2 by 高原利生 on 2020/02/13 at 14:15:54 (コメント編集)

3.歴史と論理により、ほぼ「不自由に」決まっている人生を、苦労して新しい意味、価値の全体を作りつつ自由に生きて行かねばならない。
 これには、対象化における自由だけでは不可能で、論理学を作り人類史を総括し実現案を述べたのが[50]だった。結論がたまたまマルクスと同じになった。マルクスは、石崎さんが批判し読むことを拒否する手稿の二文で、一体化の生き方と政治・経済を同時に作る困難な努力が必要だということを論理的に述べている。([50]の5.4節  注)

4.宗教は四千年ほど前、産まれた。宗教の初期の歴史から学ぶべきは謙虚さである。知識ではない。
 残っている課題は、階級対立解消ではなく「世の中は、二割が努力し残りは付いていくことで回っている」という問題で、第二部[51]  注 の始めで触れているが、答えがまだない。

 注 [50] [51] [54]:http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-1323.html#comment125
 [50]の2ページの前書きと11ページの概要第一部が高原「哲学ノート」の本文と思ってもらってよい。あとはその解説である。この1323へのいくつかのコメントは、なるべく全体を意識して書いた。

137:「ムルソーとはなにか」2019へのコメント1 by 高原利生 on 2020/02/13 at 14:00:44 (コメント編集)

 「人生は無意味である」以下の数行を考える。この美文を読む気力が出るまで三日かかった。
 この文で今までの石崎さんの不可解な言のいくつかが分かる。

1.石崎さんは、人生にはあらかじめ与えられた「意味」は存在しないという「当たり前」から、不可解な飛躍をする。単に過去や他者の意見の制約も受けず、歴史把握と論理のいずれも無く生きることが何と「自由に生きること」らしい。

2.現実、人生という事実は、少し偶然があるだけで、他のものや人と相互に制約を与え合い受け合い、ほぼ「不自由に」決まっている。人は、物事に関わる限り、否応なしに、物事の個々の客観的属性は、無意識に主観的意味、機能、価値を与えられてしまう。
 「事実、人生は無意味である」が正しいなら「事実、人生は無属性」になり、事実、人生そのものが、その人にとってなくなってしまう。
(属性、意味、機能、目的という、客観と主観の関係については[50]の本文1章 注)
 しかも、ご本人は、支配層に作られた常識という制約は無意識に信じ切っている。
 これでは、常識と少しだけずれた小説は読め、評が書けるが、1984年や異邦人は読めず書けない。

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