FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

池戸豊次 「水のまち」 一粒書房 2019年 1500円

 収録作品
「鹿を殺す」25ページ
「春の獅子」29ページ
「水のまち」39ページ
「憂いの王」69ページ
「寒晒し」 40ページ
 合計   202ページ

 ページ数はそれぞれの作品の(タイトルを除いた)所要ページ数。400字詰め換算では全体で283枚とあとがきに書いてある。ページ数の4割増しくらいが400字詰め換算枚数だろう。
 それぞれを完結した短編としても読める。連作作品なので、全体をひとつの中編小説として読むこともできる。
 作品は、2006年の冬に始まり、春、夏、秋ときて、2007年の冬で終わる。
「憂いの王」だけは秋の数カ月に及ぶ話だが、あとはほとんど一日か二日の話である。読んでいて一日の長さに驚いてしまう。作者は長い物語を一日のなかに凝縮する。決してだらだらと書かない。
 作者は1962年の生まれだから、この作品の年代のときは44歳。主人公たちは、それより10歳くらい若い。
 直次 38歳
 キシ 35歳
 いろんな読み方のできる作品だが、全体を通すと、この若い夫婦の恋愛小説としてだけ読んでも、十分に堪能できる。だが、もちろんそれだけではない。
 はじめにあらすじを大雑把に見てみよう。

 ところは岐阜県郡上八幡に近い山村。にぎやかな観光地から曲がりくねった山道を延々と上がっていったところ。しかし、商店街があり、スーパーマーケットがあり、病院らしきものもあるようなので、それなりの村ではある。
 主人公直次は、ここで水道工事屋をしている。妻キシは裏方いっさいを引受けている。子供はいない。忙しいときは職人を雇う。父親は炭を集めて卸す営業をしていたが、時代が変わって水道屋に転身した。十数年前母親が50歳で亡くなり、それまで名古屋で会社勤めをしていた直次は帰ってきて父親を手伝い、いま脳梗塞で入院した父親に代わって切り盛りしている。
 母は若いとき郡上八幡の役場に勤めて、その地で食堂を経営している家に下宿していた。郡上八幡には親戚もいて、母は結婚して直次とその姉を生んでからも、しばしば郡上八幡に連れていき、世話になった家にも立ち寄った。その家に孫娘がいた。神戸で生活しているが、夏休みになると実家に預けられる。これがキシである。三歳違いの二人は小学生のころ一緒に遊んでいた。
 1995年、神戸は震災で壊滅する。キシは24歳である。婚約者がいた。その二人の間に一波乱あって、(何があったかはご自分で読んでください)、傷心のキシは郡上八幡にしばらく滞在する。翌年、春の祭りにも来て、直次と再会、三年間の遠距離恋愛ののち、結婚、大都会神戸を離れて、山村での生活が始まる。

 というのが、あらすじというよりも、この物語の設定である。そこから話は始まる。過去のもろもろのいきさつは、そのつどそれぞれの作品のしかるべき箇所で明かされる。
 というように、ときたま過去に帰りながら、しかし、小説そのものは日々の出来事、あるいはただ一日だけの出来事を記していく。これは過去を書いた小説ではない。2006年の現在を書いた小説である。過去は重要な意味を持っているが、それが現在に照り返してくる限りでの意味であり、常に現在というトーンのなかで話は物語られていく。
 どういう物語か。
 生活の物語だ。山村の水道屋の労働と生活の日々が綴られる。書かれているのはほんとうに日常的なことである。だが、この作家の手にかかると、日常が芸術となる。
 この作家の世界には、色彩がある、音がある、手触りがある、臭いがある。描き出される世界が濃密なのだ。
「鹿を殺す」は2016年9月号の「民主文学」に掲載され、ぼくはそのときだけで、この作品を3度読んだ。あいだの3作品は初めて読んだが、最後の「寒晒し」が「民主文学」の19年度新人賞佳作となったので、そのとき「鹿を殺す」をまた読みなおした。4度目である。そして今回本になって初めから読み直したので、「鹿を殺す」は都合5回読んだことになる。
 読んでみたら読者も感じるかもしれないが、「鹿を殺す」の書き出しは、決して器用な文章ではない。ちぎって投げたような、ぶっきらぼうな文章で、初めて読んだとき、下手な文章だと思った。ところが読み進むにつれて、冴えわたってくる。
 3年前、このブログに感想を書いたとき、作中からいくつかの文章を紹介した。今回、それは繰り返さないので、もうひとつ別の文章を取り上げてみよう。
 認知症の老婆が川でおぼれたときのこと。
 <あの日、老婆が行った小屋には何も無かった。以前は田起こしの機械や田んぼの肥料が入っていたが、もう何年も前に稲作は止めてすべて処分していたのだ。床に古い筵がしかれただけの空っぽの空間を自身の頭の空洞のように見回して、激しい恐怖と孤独を老婆は感じた。豪雨がトタン屋根を叩き始めると箱をたたかれた小動物のように外に飛び出て、濡れて重くなった服で、水があふれる水路をまたごうとして足を滑らせて流された、と暗く想像した>
「寒晒し」からも一箇所だけ引用する。
 <雪はすべての色彩を奪ってしまう。山も田畑も家の屋根も、何も描かれていない画用紙のようにしてしまう。そんななか、赤く染まった地蔵の姿は、赤鉛筆の先っぽのようになって、直次の脳を突っついた。(中略)そのとき、「お前はどこに行くのか?」と真ん中の一番大きな地蔵が喋った。幻聴か。やはり俺は今、普通ではないのか>
 うまい文章だが、うまさが大事なのではない。もちろんテクニックは必要だが、それによって表現されているもののほうがより大事である。
 作品の基調となっているのは、生命である。鹿の生命、猫の生命も含めて、作者は生命を描き出そうとする。生命とは何かと理屈で問おうとするのではない。生命を生命として描き出し、これが生命だと読者の眼前に差し出す。

 夫婦が生活し、働いているのは、村の閉ざされた共同体のなかである。直次はここで生まれ育った。お寺のトイレを修理しに行くと、そこで出迎える奥さんは、むかし小学校で鉛筆の持ち方を直してくれた恩師である。認知症の妻を大雨のとき川で失った炭焼きのじいさんは、かつて父がその炭を購入していた相手である。
 直次が所属する消防団はときおり寄合いを持ち、頼母子講の定期的会合もある。
 一方、一歩出れば村人たちの視線にさらされる。荒物屋のもと子は放送局で、「人の心に土足で踏み込んでくる」。
 直次にとってはこれが自分の住む世界だ。だが、神戸育ちのキシには時にそれが疎ましい。「なぜほっといてくれないのか」「なぜ監視し、干渉するのか」
 共同体に慣れ親しんでいる直次と馴染みきれないキシとの葛藤がある。

 3つの作品は直次の視点で書かれるが、「春の獅子」と「憂いの王」とはキシの視点である。男性作家が女性の視点で書き、女性作家が男性の視点で書くというのは、プロの作家では珍しくないが、同人誌作家が書くと、たいてい違和感がある。難しいのだ。読者の先入観をうまくかわせない。
 この作者は成功している。まったく違和感がない。なぜだろうと考えてみた。
 直次は作者の若いときをモデルにしたような人物と思えるが、それを視点人物にして書くときにも、作者は直次に同化しすぎない、どこか突き放したような目で直次を見ている。視点人物と作者の距離の取り方に、直次を視点人物にしてもキシを視点人物にしても共通したところがあり、それが成功しているのではないか。
 その上にまた、この作者は女性の心のひだを見事にとらえているように、男のぼくは感じる。女性読者はどう読むのだろうか。

「憂いの王」は村芝居の話だ。
 だが、それに入る前に、直次が詐欺にひっかかる話がある。関西から流れてきて古家を買い取り改装するということで、水回りを中心に、大工への外注まで段取りして完成させるが、注文主は代金60万円を払おうとしない。人のいい直次ではいつまでも解決しない。キシが、偶然のことから弁護士に知恵を借り、それを武器に、これまた偶然つかんだ、相手の弱みに付け込んで、とうとう分割払いを承知させる。この場面のキシの姿はテレビドラマを見るようで痛快だ。
 さて、芝居である。郡上に実際にあった百姓一揆の話で、郡上八幡の民芸館の主人水上が脚本を書いたということになっている。
 直次が殿様を演じ、日系ブラジル人の若い女性が殿様と恋仲になる町娘を演じるはずだったが、その女性が妊娠して、急遽、キシが代役になった。この章の後半、現実と芝居の中身とが交差するような形で進んでいく。これもなかなかうまい。
 この脚本を水上が書いたという設定になっている。だが、その前、水上が江戸時代の文書を講義する場面に関して、作者はあとがきでその文書の引用元をあきらかにしている。そこから見て、この脚本が他人のものなら作者は当然その旨を断るだろうから、これも作者自身の作品なのだと思われる。
 この章が連作中最も長く、おそらく400字詰めにして百枚くらい。キシの視点で書かれ、ドラマチックな仕上げになっている。

 最後の「寒晒し」は「民主文学」佳作になった作品から、かなりの部分を削除している。佳作になったときの選評で、すべての審査員がこの作家の才能を認めたが、「鹿を殺す」と重複した場面があることを問題にした。今回その部分を取り除いてすっきりさせた。全体がひとつの小説として無理なく読める内容に整理されている。

 全体を通して強く感じるのは、描かれているのが日常生活であり、周辺の平凡な人々である、ということ。
 で、ありながら、そこにはじつに濃密な時間が漂い、ありふれた世界を、ありふれていないもの、オリジナルものにしている。特に凝った文体を使うわけではない。しかし、時にその切り口の鮮やかさが、見慣れたものを新鮮なものに変換させる。
 郡上八幡の季節々々の祭りや行事を巧みに織り込みながら書き進み、郡上八幡と周辺の様子を丁寧に描写しているので、観光案内としても読める。帯に書いてあるとおり、読むと「郡上に行きたくなる本」である。

 直次の視点と、キシの視点を交差させることで、共同体の正の側面と負の側面とを複合的に描き出した。この点は特に注目に値する。

 ここに紹介しきれなかったが、さまざまな人物が登場して、さまざまな情景が繰り広げられていることを付け加えておく。
 1点だけ苦言を呈する。誤字脱字が多少目に付く。立派な本にしたのだから、校正だけはきっちりやってほしかった。

発注先 一粒書房
    〒475-0837 愛知県半田市有楽町7-148-1
    TEL 0569-21-2130

関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す