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両親の履歴

 必要があって、両親の履歴を調べていて、いろんなことが分かった。何となく知っていたこともあれば、今回初めて知ったこともあった。他人には関係のないことだが、備忘録として記す。
 父の本籍はもともと富山である。富山県富山市稲荷となっている。ぼくは富山に一度も行ったことがないので、それがどのへんなのかさっぱりわからない。とりあえず、石崎の祖先の地なのだろう。
 生まれたのは、岐阜県吉城郡船津町鹿間、それもどこなのかわからない。父の生まれた時、その父親はすでに死んでいたので、これはたぶん父の母親の里なのだろう。岐阜県生まれというのは初めて知った。
 13歳で旧制中学校入学。尋常小学校の卒業が12歳だとすれば、高等小学校に1年行ったのだろうか。静岡県立沼津中学校。ぼくの行ったことのない県ばかりだ。これは母親の再婚にともなって母親の手を離れ、石崎の唯一の相続人として、このときまで、母親の兄弟の家庭で育ったのである。その家はもちろん石崎ではないので、家族の中で一人だけ石崎だった。
 翌年、富山県立富山中学校へ転校。父の父方の祖母が、富山でまだ生きていたらしい。
 18歳で卒業。旧制中学は5年制だ。
 同年、京都高等工芸学校図案科入学。
 4年後、22歳で卒業。
 同年、栃木県立足利工業学校教諭として赴任。
 これも初めて知った。卒業後は京都で教えていたのだと思っていた。沼津と足利とは両親の会話にしょっちゅう出て来たのだが、それが彼らにとってどういう土地なのかは聞かずじまいだった。
 足利の書類が今回初めて出て来た。京都高等工芸の教授が足利工業の校長あてに送った推薦状である。その宛先の校長の名前が、なんと、ぼくの母の父親だ。父が母の父親の教え子だというような話は聞いていたが、教え子ではなく、校長と教諭の関係だったのだ。
 母の父親が足利の校長だったというのも初めて知った。
 同年、陸軍第一補充兵役編入。これはまだ予備役で、実際に軍隊に入ったわけではない。
 2年後、校長の一人娘と結婚。父もひとりっ子で、石崎には江戸時代までさかのぼらねば石崎を名乗る人間はいないから、旧民法のもとでは、戸主である。校長のほうも一人娘だから、本来婿養子を取らねば、その家は断絶してしまう。にもかかわらず、その結婚が成立したのは、その校長が分家せずに、その兄の戸籍にぶら下がっていたからである。
 その事情は母を語るときに語る。
 結婚の翌年退職。ついに兵隊にとられたが、運良く、習志野の高射砲部隊で済んだ。
 だがこの戦争では、両親とも父親を失っている。
 母の父親は奉天の満鉄毛織の顧問として赴任していて、ソ連軍に銃殺された。
 父のほうは、沼津で育ったときの実質的な父親というべき伯父(母親の兄)が、フィリピンに向かう産業団の責任者として乗船していた船を、米軍に撃沈されて亡くなった。開戦直後だった。
 敗戦。
 父は京都に帰って、織物関係でしばらく働いたが、労働運動盛んな時代に労組の書記長に祭り上げられてストを打ち、責任をとって退職。十日町のたしか工業講習所と呼んでいた所へ転職した。そのあと、福山の県立工業試験場へ。備後絣のデザインが仕事だったようだ。
 学歴、職歴、兵役歴などはもちろん戸籍謄本には書いてない。なぜわかったかというと、父の履歴書が出て来たのだ。几帳面でなんでもとっておく父だから分かったのだが、この家に来て10年、さまざまな書類を相当ゴミに出した。奇跡的に残っていたのだ。
 福山に住み始めてから何年も経って、1962年に本籍を富山から京都へ移している。福山ではずっと借家住まいだったので、京都の母の実家を本籍にしたのだろう。この当時はいまのように気軽に本籍を移したりしない習慣だった。そこにも日本近代史上の問題があった。
 父が、ぼくらのいま住んでいる家に、本籍を移したのは、1994年である。
 したがって三通りの戸籍謄本が必要なのだが、それがつながっていないので、土地家屋の相続手続きができずに、司法書士がいまだに苦労している。
 ぼくら夫婦の戸籍も京都の結婚したアパートに置いたままで、いまの手続きが済み次第、これも移すつもりだ。放置したまま死んでしまうと、子供たちが苦労する。

 母の本籍は、長野県松本市大字北深志土井尻町、戸籍の筆頭人は、母の父親の兄である。母には、小学生くらいで亡くなった兄がいたので、分家したら将来困るとまでは考えていなかっただろうが、母の父親が若くして故郷を出て各地に転居したようなので、戸籍を兄の下に置いたままにしていたのだろう。
 母が生まれたのは、東京府北豊島郡日暮里町である。母の母親は京都人であるから、おそらくそれまでに母の父親は一度京都で暮らしている。たぶん京都の学校を卒業したのだろう。その地で結婚し、東京に転居していたものと思われる。
 戸籍でわかるのは、そのあと父と結婚したことと、死亡年だけだ。
 ところが学歴のわかる書類があった。むかし一度その書類を見た覚えがある。今回も少し前に見た。ところが手続き上必要な書類を探し始めてみると、その書類が出てこない。
 ぼくの部屋にはさまざまな原稿や手紙の類が散乱しているうえに、町内会の書類、老人会の書類、郷土史研究会の書類などが積み重なり、未整理状態で混在しており、そこに両親の遺した書類が混ざりこんでいる状態で、必要な書類がなかなか見つからない。それで今回戸籍や土地家屋の登記簿を探し始めてから、不要と思われる書類をかなり処分した。そのときに誤って捨てた可能性がある。
 何のための書類だったのか、不明だ。戸籍に学歴、職歴は記載されない。母は勤めたことはないので、履歴書も書かなかったはずである。にもかかわらず、その書類には学歴が記載されていた。
 それによると、金沢で小学校に入学している。金沢には石崎の墓地があり、学生時代に両親と行ったことがある。そのとき母が城下町の入り組んだ道路を迷わず先導したことがあった。そのころにはまだ母の少女時代などに興味がなかったので、詳しく聞くことはなかった。母は金沢に地理勘があるのだなと思っただけだ。
 高等女学校入学は京都だ。ところがこれは何年もせずに中退している。そのあと、たぶんドレスメーカーと読んだと思うが、そこの学校へ行き、そこは卒業している。
 この書類によって、母の育った一家の模様がおぼろげに浮かんできた。それまで母は京都だと思っていたが、そうでもない。思い出してみると、母は関西弁を使わなかった。むしろ標準語に近い言葉だった。母の母親が完全な京都弁だったのとはまったく違っていた。
 言葉。言葉について。それはまた別のテーマだ。
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