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まがねとおる

Author:まがねとおる
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京都旅行(15)

 9月29日。10日目。朝食のあと、荷物があるので、バスステーションまで車で送ってもらう。一日乗車券はないから、たぶんICOCAで帰ってきた。行きと同様、高野川を下って、出町柳から川端通を下る。四条で曲がって烏丸通を帰ってきた。
 この川端通を通るとき、日新時代の、組合大会の思い出が、頭をよぎった。この通りの荒神口近辺に、教育文化センターがあり、そこで組合大会をやったのだ。
 組合大会は代議員が集ってやる。労働者の5人に1人が代議員で、2000人くらい労働者がいたから、代議員はざっと400人か。いまのシネコンのような階段状の講堂だった。
 組合は総評、社会党系なのだが、実質は御用組合である。でも、組合選挙はちゃんと民主的に行われ、共産党員も選ばれていた。その場でぼくは執行部案に対する反対意見を述べた。執行部案は一項目ごとに、討議し採決された。ふと気づくと、採決の直前の発言に代議員たちの賛否が引きずられている。これだ、と思って、どうしても否決したい議案のときに、ぼくは最後にもう一度発言を求めた。すぐあと採決となった。作戦はまんまと当たった。ぼくの案が通り、執行部案は否決されたのだ。
 数日後、ぼくは九条工場の工場長に呼ばれ、梅津の本社への転勤を言い渡された。拒否すると、将来を考えろと言われた。本音では本社に行きたい気持ちがあって、結局、受け入れた。これがまちがいだった。本社は広い敷地のなかに、いくつもの工場建屋があり、ぼくが配属されたのは、離れ小島のようなところで、数人の年寄りしかいなかった。ぼくは監視下に置かれたのだ。
 もともと人間関係の希薄ななかで育ってきたぼくは、年寄りたちと打ち解けることが難しかった。公的な場では発言できても、雑談や世間話はさっぱりできなかったのだ。
 こうしてぼくは挫折を繰り返していった。
 ということを思い出しながら、その鴨川沿いの道をバスに揺られていたとき、妻はその反対側、鴨川の向こう岸に何かを見つけていた。だが、そのときはそれを語ることなく、バスは京都駅に着いた。
 お土産を買って、要らなくなった衣類と一緒に宅配便で送るという。ぼくのほうはどこへ行ってもお土産を買う習慣がないから、適当な待合室で腰かけて待つ。途中で喉が渇いて何か飲みたくなった。ところがスーツケースを二つも持たされていて、動きがとれない。我慢できなくなって、二つを両手で転がしながら、京都駅構内構外で自動販売機を探す。背中にはずっとリュックを背負っている。これは10日間ずっと背負っていたのだ。自動販売機がどこにもない。あとで、地下のコインロッカーの近くにあるのを見つけたが、地上にはなかったので、コンビニに入る。スーツケ-スふたつを転がしながら、缶コーヒー1本を買った。
 妻が帰ってきた。お土産は店が無償で送ってくれるというので、すでに頼んできた。衣類と一緒というわけにはいかないというので、これは宅配業者に頼まねばならない。ということで、業者のところに行った。たぶん、地下のコインロッカーの近くだった。ここでスーツケースの中身を段ボールに入るだけ入れて依頼した。結局スーツケースふたつは手元に残った、ずいぶん軽くはなったが。
 ということだったのだと思う。ここの記憶はあいまいだ。スーツケースはふたつとも持って帰ったと思うのだが、よくわからない。たぶんこのときまた、そのふたつをコインロッカーに預けた。最後に行きたいところがあると言う。河原町に行きたいと。
 バスに乗る。四条を過ぎたが、まだ降りない。丸太町も越えて、荒神口で降りた。その通りを鴨川に向かう。十字架が見える。
「ね、ここをバスで通ったとき、ちゃんと見つけたのよ。河原町に面してると思っていて何度も通ったのに見つからなかった。鴨川の向こうを通ったときに十字架が見えたのよ」
 鴨川にかかる荒神口橋のすぐ手前に、その小さな教会はあった。ドアが開いている。ドアの前に何人かがいた。なかを覗き込むと、「どうぞ、入ってください」と言われた。なかへ入る。ほんとうに小さな教会だ。こんなに小さかったのだろうか。ほぼ満席である。日曜日ではあったが、礼拝は午前のはずだ。いまはもう昼をまわっている。なにが始まるんだろう。
 やがて美しい女性が出てきてナレーターをはじめた。スチーブンソン一家がオリンピックを演じるという。背の高い白人の男性と、かわいらしい三人の男の子たちが登場して、オリンピックのいろんな競技を演じて見せる。そのひとつひとつが聖書にちなんだコントになっている。ユーモアたっぷりの達者な演技と、なかなか利かしたしゃれでひとつひとつを締めくくる。
 たとえば、水泳競技では、スチーブンソンはモーゼの杖で水を塞き止めてしまい、歩いて渡る。男の子の一人はクジラに飲まれる。これはヨナだ。目には目を、歯には歯をが出てきたかと思ったら、その直後に右の頬をうたれて左の頬を差し出すといった具合。これはボクシング競技だっただろうか。
 ナレーターをつとめた女性は、スチーブンソンの妻で、三人の男の子の母親なのだった。
 ここまでは前座にすぎなかった。ここから本番が始まった。
 男性ギターと、女性ボーカルによるコンサートである。これが本日の出し物なのだった。唄は緩やかな讃美歌モードで始まり、突然ロック調になる。次々と演目が進み、何人かが入れ替わり、楽器を替えたりして、続いていく。最後はロックからさらにラップになった。
 ぼくらはこういうものをアメリカ映画でさんざん観たが、日本では初めて経験した。
 すべて終わって、出口でどこから来たのかと聞かれた。「広島県です。ぼくらは50年前にこの教会で式を挙げてもらったのです」
 妻たちが住んでいた膳所の、それも住まいの目と鼻の先にバプティストの教会が建った。小学生たちが好奇心で集まる。やがて子供につられて親たちも来るようになり、こうして妻の一家は家族ぐるみで洗礼を受けた。妻はここぞというときにはお祈りする。もっとも原理主義ではない。いまでは教会にも行かないし、お寺でも神社でも行けばお祈りする。典型的な日本的信者だ。その母親は、「神様、仏様、イエス様」とお祈りしていた。
 父親はキリスト教社会主義者で、たまたまぼくと立場が一致していた。もっとも性格は正反対で、誰とでもすぐ友達になり、ロンドンのパブでも当地の呑み助相手に「しあわせなら手を叩こう」と歌って、「言葉なんか知らなくても仲良くなれる」とうそぶいていたという。この人には到底かなわない。ゼノ神父と知りあって、福山に精薄児施設ゼノ少年牧場を造った。一方では、ぼくにプロレタリア文学集を贈ってくれた。
 という事情で、妻の希望で、バプティストの教会で式を挙げることになった。
 京都に教会は多いが、バプティストは荒神口にひとつあるだけだ。50年前にここで式を挙げたのだと言うと、「きょう歌った娘さんは、そのころの牧師のお孫さんです」と言う。
 式の準備で牧師と話し合ったとき、バプティストの話題をぼくが出した。ベトナム戦争さなかだ。アメリカのバプティストは戦争に協力的だが、日本のバプティストは批判的ですね、とぼくが言うと、「われわれはあの戦争に反対です。われわれの立場は共産党よりももっと左です」と答えた。おや、この牧師は新左翼なのだろうかとぼくは一瞬警戒したが、式の後、日新電機と大阪毎日新聞の共産党関係者が主催して開いてくれた祝賀会に、牧師も来てくれて楽しそうにしていたので、ほっとした。
 そのときの記憶では牧師はそんなに年ではない。われわれより少し上くらいの感じだった。きょう歌った女性は、若々しいが、少なくとも20代の後半だろう。あの牧師にこんな孫がいるだろうかと疑った。でも考えてみるとぼくらにも20歳の孫がいるのだから、あの牧師にもこのくらいの孫がいてもおかしくはない。
 終わりよければすべてよし。よかったのは終わりだけではないが、この終わりがいちばん感動的だった。さまざまな偶然が積み重なって、ちょうど、その日に訪れた。信じられないような偶然だった。

 教会を出ると、鴨川の河原に下りた。川のなかを飛び石を並べて渡してある。むかし出町のデルタで、靴と靴下を脱いでズボンをめくり上げ、鴨川を歩いて渡ったことがある。あのころには、川のどこにもそんな渡し石など見たことはなかった。あくまでも水に入って渡ったのだ。ところが今回注意して見ると、鴨川の流れのところどころにそういう仕掛けがあって、子供たちや若い人たち、観光客を含めた人たちが、行き来を楽しんでいる。
 妻が渡るという。え? めちゃだ。年を考えろよ、と言うが、「大丈夫、渡れるよ」とぴょんぴょん飛んでいく。「早くお出で」と誘う。ぼくは躊躇した。ぼくの運動神経はゼロに近い。とりわけよくないのがバランス感覚だ。耳が悪いせいだと思うが、体の平衡をとることができない。だから自転車だって怖いのだ。よくもこれで、しばしば高所作業をやってこれたなと、思い起こすと不思議なくらいだ。若いときには自分の欠点に気づかない。
 それでも妻がどんどん行ってしまうので、仕方がない、ぼくもやってみた。何とかやれた。反対側に渡って、しばらく河原を歩く。どこか(たぶん丸太町)で河原町に戻り、バスに乗った。
 こんどは四条で降りる。もう一箇所、行きたいところがあると言う。四条通の河原町と鴨川のあいだに、高瀬川が流れていて、そこに沿っているのが木屋町だ。先斗町はもうひとつ先の、鴨川のすぐそばの通りである。今回行くことはなかったが、とても細い通りに飲み屋が連なっている。過去にもそんなところで飲んだことはない。ただ歩いてみただけだ。その町筋には横道が何本もあって、それぞれに「抜けられます」「抜けられません」という趣旨の看板がある。(具体的な表現は忘れた)。行き止まりの道か、それとも木屋町方面へ抜けられるかという案内なのだ。
 木屋町では一度、かつての同人誌仲間と飲み食いした。倉敷に来て間なしに再訪したときのことで、例のコロッケ屋や、まだ坊さんになる前(たぶん)の坊さんや、立命の夜間に通い始めていたNもいたかもしれない。妻もいた。コロッケ屋がカラオケにはまっていたころで、彼はぼくの妻とのデュオで、裕次郎を歌った。ニーチェがカラオケをやるようになるとは思いも及ばなかった。まだカラオケが一般的ではなかったころで、坊さんが苦笑いしていたのを思い出す。この店とコロッケ屋をモデルに、「平井真」を書いた。未完成に終わったが。
 今回、妻がぼくを導いたのは、別の場所である。いま話した通りはいずれも、四条通から北へ入っていく通りだが、妻は信号を渡って四条の南側の歩道を歩いていく。そしてやはり木屋町筋に来ると、それを南に曲がる。ぼくには記憶のない通りだ。
 日新電機に五郎さんという、少し大人びた人がいた。苗字は忘れた。みんなから五郎さんと呼ばれていた。何歳くらいだったのか、ぼくは年上の人の年齢に興味を持たなかったので、そのころから知らなかった。「大人びた」というのは年寄り臭いという意味ではない。若々しいのだが、大人の雰囲気があるということだ。
 ぼくらが阪急沿線の長岡天神のアパートで暮らしたころ、その人は同じ町に、ささやかだが戸建ての家を持って夫婦で住んでいた。親しくしてもらった。奥さんは立命の史学科卒で、北山茂夫の教え子だった。そのころぼくも北山茂夫をかなり夢中になって読んでいた。
 その五郎さんから、この近辺の居酒屋ふうの店でご馳走になったことがあるのだという。初めて聞く話だ。「たぶん、ここ」と言った店はもう違う店になっていた。
 ぼくの人生は間違いだらけだが、そのときも、彼女をつらい目にあわせていた。五郎さんはそれを思いやってくれたのだ。
 そういえば五郎さんの家は自宅だったのだから、長岡天神へ行けば会えたのかもしれない。50年経っているのでもう無理だろうけど、もっと早く気付けばよかった。以前10数年か20年くらい前に、長岡天神を訪れると、ぼくらのアパートがまだ生き残っていた。そのときにでも気づくこともできたのだ。
 だが、そのころはまだ、京都時代の友達の誰とも会う方法を失ってしまう日が来るとは想像できなかった。
 ぼくは友達を大事にはしなかったのに、彼らはみな、われわれが行き詰まったときに手を差し伸べてくれた。それなのに、ちゃんと別れもしないうちにみな死んでしまい、生きているだろう人たちとも連絡がとれない。
 これが50年間だ。次の50年はもうない。後悔だらけの50年だが、でも、たしかにそれはわれわれの50年だ。誰のものでもない。
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