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京都旅行(12)

 9月26日、7日目である。と書いて、そうか、あれは9月のことだったのだと改めて驚いている。10月がどこかへ行ってしまった。もう11月である。こういう月日の経つ速さに、そのつど驚いている。きょう出した手紙に、10月の最後の10日間の京都旅行と書いてしまった。そのくらいの感覚しかない。
 岩倉だ。
 京都駅から地下鉄に乗る。今回の旅行で初めて乗る。前回来たときには京都駅―北大路間しかなかった。東西線は二条駅―蹴上間だけだった。今回烏丸線を北の終点まで乗る。北の終点は宝ヶ池国際会館だ。地下鉄はさすがに速い。その代わり地下だから、まったく観光にはならない。ただ移動するだけだ。観光客を地下鉄に誘導すると言っても、少し無理がある感じがする。地下なんか観光したくない。だが、ぼくは乗り物も好きなので、地下鉄も一応は乗ってみたいのだ。福山には地下鉄なんかないし。
 北大路までまっすぐ上がって、そこから東に曲がる。おそらく上賀茂神社あたりをかすめて、松ヶ崎である。松ヶ崎は京都工芸繊維大学のあったところだ。いまは移転したようだ。むかしの京都高等工芸学校である。父の出身校だ。学校を松ヶ崎と呼ぶ習慣があったらしく、両親の会話にしょっちゅう松ヶ崎が出て来た。同窓会報も松ヶ崎という名称で、定期的に送られてきていた。ここの現在の学長は、うちの町内の長老の方の息子さんである。奇妙な偶然で、町内会長をしたときに一度電話でお話しした。そのときにはそんな方とは知らなかった。
 じきに宝ヶ池に着く。地下鉄だから駅も地下だ。だから地理がまったくわからない。みんなが歩いていくほうへとりあえず歩く。かなり歩いて、やっと地上に出た。池をざっと見てそれから岩倉へ行こうと決めていた。地上に出てからもみんなの行くほうへ歩いたのだが、どこに池があるのかさっぱりわからない。人々は国際会議場を目指して歩いているのだ。地図を見る。池はどうも遠いようだ。池はもういい。バス停を探そう。反対方向へ歩いてしまっている。引き返す。バスステーションがあった。地下鉄の停まったところからまっすぐ上がればよかったのだ。もっとも、池を見る気持ちもあったのでうろうろしたのではあるが。
 バスに乗り、実相院で降りる。とりあえず、そこを見学。看板を頼りに、岩倉邸まで引き返す。50年ぶりの岩倉邸だ。同志社に入って最初のクラス会をここでやったのだ。というのはクラス担当が岩倉具視の孫だったので、招待されたのである。言語学の教授だった。授業には一度だけ出た。どの授業もひととおり一度は出たのだ。二度とは出なかった。いま思うと理由はよくわからない。その一度きりの授業が奇妙に記憶に残っている。
 ローマ字論者だった。彼の論説によると、日本語の文法はローマ字にぴったり合っている。五段活用にとって、ローマ字はまさにそのためにあるかのようにぴったりだ。ひらがなは必ずしも適当ではない。日本語の半分は中国語だが、でありながら、発音に中国語の複雑さがない。単純化した中国語なので、同音異語がとてつもなく多い。耳で聞いたのでは意味のわからない言葉が多すぎる。こんな言語は世界中ほかにはない。中国語由来の単語をなるべく大和言葉に戻す。そうすれば同音異語はなくなり、漢字は必要なくなり、ローマ字が最適になる。
 まあ、無理だろうとは思った。中国語をこんなに無分別に輸入してしまったのは、ひとつには日本語では表現できない概念が大量に輸入されたからで、いま英語が氾濫しているのに似ている。工夫すれば日本語にできたのかもしれないが、ひとつには衒学趣味もあったのだろう。これもいまの傾向と似ている。しかし、ぼくの考えるところでは、もう一つ決定的な理由がある。それは、旧来の日本語=大和言葉は、発音にまどろっこしさがあるということだ。日本語は、子音+母音の連続で成り立っていて、これがローマ字がぴったりする理由なのだが、つまり多音節語なのだ。
(英語)school(1音節)=(中国由来の日本語)学校(2音節)=(大和言葉)学び舎(4音節)
 いろいろな単語で試してみるがいい。こういうことだから、日本語は悠長で、日常会話に適さないのである。と、ぼくは結論付けたが、しかし、教授の主張には耳を傾けるべきところがあると思った。日本語で生活し、日本語で人とつながり、日本語でものを考える人間として、日本語のこういう特徴はずっとぼくの頭にあった。
 それはそれとして、同志社英文科は、1学年だけで500人くらいいた。それを男女無関係に、ファミリーネームのアルファベット順にクラス別けする。1クラスが50人くらいいた。そのなかで、ぼくのクラスでは男は7人だけだった。あとは全員女だ。Iの頭文字がほとんどで、Hの残りが何人か混じっていた。石井、石垣、石野、市川、生駒、井上、といった具合である。最初のうちはつるんで行動していたが、じきにそれぞれのクラブ活動のほうへ流れていった。
 そのいちばん初々しい頃のクラス会なのだ。今回再訪してみると、小さな家の小さな部屋だ。いかにも歴史的建造物である。そんな部屋で、地元の高校から来た女の子の提案で、みんなでゲームをやった。片足をつかんでケンケンするような乱暴なゲームで、おいおい、この歴史遺産のなかで我々はそんなことをやったのか、といまさらながら呆れかえった。あのときは老岩倉教授も苦笑いしながら一緒になってケンケンしていた。
 ここで維新の大物たちが会議を持った。誰と誰だったか、正確なところは忘れた。岩倉という名前の由来。岩倉は源氏だが、当時は住むところが通称になる。岩倉というあんな田舎に住むのは気狂いだ、という意味をこめて岩倉と呼ばれたと老教授は説明した。
 叡電の岩倉駅まで歩けるかと受付で尋ねた。道を教えてくれた。むかし、出町柳で待ち合わせて叡電で来たのだから帰れるのだ。それでも田舎道を迷いながら、なんとかたどり着き、叡電に乗った。
 ここまで書いてなんか変だなと考えていて、ふと気がついた。
 9月25日の記事を間違えていた。鞍馬、貴船へ行った日である。その日は朝、コインランドリーの開店を待って大量の洗濯物を持ち込み、一度引き返してまた取りに行ったりした日で、京都へ来たのがすでにかなり遅く、それから鞍馬、貴船を歩いたのだから、詩仙堂へ行く時間などなかった。貴船口からまっすぐ叡電で出町柳まで帰り、そこから同志社女子大、相国寺、成安跡へと行ったのだ。
 詩仙堂へ行ったのは、岩倉からの帰りで、26日、今日なのだ。叡電に2回乗ったので混同した。
 叡電の岩倉駅から乗って、一乗寺で降り、修学院に戻り、また一乗寺まで歩いて詩仙堂へ行き、一乗寺下り松のバス停からバスに乗って、北大路を走ったのである。
 バスは叡電の線路を横切り、高野橋で高野川を渡り、下鴨に入って、洛北高校から、府立大学前、植物園前を通り、北大路大橋で賀茂川を渡り、かくて、烏丸北大路のバスステーションに到着する。
 ここにむかし市電の烏丸車庫があったのだ。いまはバスステーションになっていて、地下へもぐる。地下鉄烏丸駅と同居している。地下へもぐってしまうので、バスから降りたが、方向がまったくわからない。上へあがっても、大きなショッピングモールの内部である。どこに出口があるのか、どこから出たらどこへ出るのか、方角が分からないので右往左往して、ともかく外へ出たが、そこがどこなのかわからない。
 小学生の時、4つ上の姉に連れられてここに来た。京都駅から烏丸車庫まで市電で来て、その横の狭い道をすり抜けると、祖母の家があった。祖母は母の母である。母の父は奉天でソ連軍に銃殺されて亡くなった。母は一人娘で、父と結婚して十日町から福山に来てしまったので、祖母は一人暮らしをしていた。土地は借りた土地で、家は祖父が建てた。一人になったので、下の階を一家に貸し、自分は二階で、おそらく夫の遺族年金と、あとは謡いを教えて暮らしていた。この祖母の姉か妹かが、下鴨でお琴を教えていたのだ。二人は三条あたりの酒屋の娘で、お嬢さん育ちだったが、家業が破産し、どちらも早くに夫をなくして、娘時代に手にした技芸で生き延びてきた。
 50年前京都で暮らしていた時は、そんな場所を探そうとは思わなかった。烏丸車庫近辺は何度も来たのに、一度もその家を探そうとは思わなかった。今回、なんだか、そんな気になってしまった。
 ところが方角が分からない。烏丸車庫の横の細い道といっても、いまはでかいショッピングモールだ。もう一度中に入ったが、ぐるぐるまわって、結局また同じところに出てきた。もういい。ここはたぶん北側へ出たのだ。細い道を歩いてみれば何かを思い出すかもしれないと期待したのだが、そんな道はもうないし、家だってどこにあるのかわからない。新町へ行こうということで歩きはじめる。烏丸から西へ行けば、室町の次が新町だ。途中表札を見ると、板倉町になっている。場所はこのあたりなのだが、思い出すものはない。北区小山上板倉町はぼくらが結婚するまで、ぼくの本籍地だった。番地まで記憶している。それが祖母の家で、我が家は転居が多かったので、そこを本籍にしたのだ。
 新町らしい通りに出た。新町だと思うのだが、表示がない。昔は町の表示がいたるところにあって迷うことがなかった。いまでも中心街には表示があるが、中心を逸れてしまうと、家も建て替えてあるし、表示もなくなっている。
 新町はむかしは賑やかだった。姉と来たとき、そこで夜店をやっているというので、姉の幼友達が誘いに来た。三人で行った。そのおりの様子などもちろん覚えていないのだが、にぎやかなところだったという記憶はある。ところがいまの新町は、いまの大宮同様、シャッター街だ。すぐそばに大きなショッピングモールができたのだから、商店街は消滅する。
 姉の通っていたのが新町小学校だという記憶があって、それを探すが見当たらない。北大路欣也が同級生だったという小学校だ。うろうろして、新町を外れたところに、小学校を見つけた。土地の人がいたので聞いてみる。「これは立命館小学校よ。新町小学校というのはここにはない。今出川のほうにある」という返事。小学校をぐるっとまわって表玄関のほうへ出ると、なるほど私立らしい豪華な小学校だ。
 それで終わりにしてバスで京都駅に帰る。地下鉄烏丸駅があるのだが、すでにバス一日券を使っているので、これを使わねば損だ。烏丸通にはバスはないので、河原町を帰ったのか、堀川を帰ったのかは、もう覚えていない。
 明日はいったん草津を引き上げ、大原に向かう。
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