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京都旅行(10)

 三人の子供のなかで一番口の悪い二番目の子が、ぼくらの旅立つとき、自分自身の新婚旅行のときに流行っていた成田離婚にひっかけて、「京都離婚にならないように行っといで」と言った。最近あまり聞かない言葉で、なんだか懐かしい感じがする。
 けんかはしない。妻が一方的に怒って、ぼくは「はい、はい」と言っておとなしくしているので、けんかにならない。ただし、京都は懐かしい思い出だけではない。切れば血の出るようなこともいっぱいあったので、彼女の記憶が過度にそっちにいかないように、用心がいる。
 草津の二日目、この日だけは京都へは行かない。妻の幼なじみが石山で待っている。仮にRさんとしよう。Rさんはぼくらと同じ年だが、聡明な美人で、若々しいのだが、気持ちの上ではお姉さんのような感じがする。
 彼らは、清水比庵の項で書いた高梁のHさんを含めた三人、琵琶湖のすぐ目の前に住んでいた。Hさんだけが一つ年上で、同志社に行き、学友と結婚して高梁に来た。Rさんはいま石山に住んでいる。
 石山駅で降りて迎えを待った。石山駅は国鉄と京阪と、駅がつながっている。京阪は石山寺まで行くので、駅前でカーブして建物の間に消えていく。高架ではない。地面を走る。駅の目の前に踏切があって、信号で制御されながら車や人が行き交っている。なんだか危なっかしい。
 高級車でお迎えに来た。「高級車じゃないわよ」と言うが、われわれが軽にしか乗らないので、普通車はみんな高級車に見える。瀬田川に沿って、石山寺をめざす。この瀬田川が宇治川だ。琵琶湖に注ぐ川は多いが、流れ出る川は瀬田川だけである。流れは速い。
 妻たち三人は子供のとき、この石山まで習字を習いに来たのだという。おかげで二人は達筆になったが、妻だけはぼくと同じで悪筆のままだ。父親の転勤が多く、習い事がすべて中途半端になったそうだ。
 石山寺は、Rさんたちにとっては町内の寺なのだという。子ども神輿が寺の急な階段を駆け上がる。Rさんたちは保護者としてその世話をする。歴史の真っただなかで生活しているわけだ。
 石山寺は言わずと知れた源氏物語由縁の寺である。紫式部がここで源氏物語の着想を得たという。ずっと上がって行くと源氏物語の記念館があった。そこに紫式部直筆の写経がある。着想を得たお礼に、写経して残したのだそうだ。達筆である。源氏物語自体は直筆は残っていない。先日の朝日の記事によると、下書きと、清書と二通りの直筆があったのだが、下書きは藤原道長が式部の部屋に忍び込んで盗み出し、娘の彰子に与えたのだという。彰子は一条天皇の中宮で、式部はその人に仕えていた。このときすでに未亡人で、道長の女と書いてある系図も見たことがある。たぶんそういう噂もあったのだ。清書のほうは、書家に写してもらうために渡してそのまま返ってこなかった。その写本から、さらにさまざまな人が写して現代に伝わっている。
 一条天皇の皇后定子に仕えた清少納言と、宮中に二つのサロンができてライバル関係だった。それは日本史の奇跡のような時代である。
 ぼくはじつは原文でも口語訳でも通しては読めていない。死ぬまでには読みたいと思っているが、望みがかなうかどうか。筋書きは、かなり詳しいものを中学生のときに読んだ。そのときからずっと読みたいとは思っていた。54帖あるなかで、帚木の巻だけは、いちばん短くて読みやすいといわれていたので、原文で読んだ。例の「雨夜の品定め」である。若い源氏とその妻の兄で親友の頭中将と、もう一人身分の低い年かさの男と、三人で、雨の夜、宮中で宿直しながら、退屈まぎれにどんな女がいいかという話を始める。という話をぼくが披露したら、Rさんが男というものはどうしようもないという表情で苦笑いした。
 与謝野晶子の現代語訳が文庫で出ていて、何冊もあったのだが、最初の数冊は読んだ。随所に短歌が出てくる。決め場面というところを短歌で決める。これが煩わしくて、結局読み続けられなかった。
 宇治十帖の悲恋物語は特に好きだったが、いまではあらすじも忘れてしまった。誰かが宇治川に飛びこんだはずだが、それが浮舟だったか、それとも宇治八の宮の姉妹のうちの一人だったか、それすらもう覚えない。
 紫式部は石山寺にこもって小説の想を練った。そのとき瀬田川に浮かぶ月の影を見て、「今宵は十五夜なりけり」と書き出したのだという。これが須磨の巻の書き出しである。須磨の巻から書き出したという伝説がある。そんなことはないとぼくは思う。須磨の巻は源氏が敵方の女にちょっかいを出してやばいことになり、京都を逃れて明石、須磨に引っ込み、そこで明石の上と巡り合う(転んでもただでは起きない男で、どこででも女をひっかけるのだ)というシーンで、これは源氏物語の一番要の発端からずれ過ぎている。
 Rさんが石山寺を町内の寺としながら、源氏物語をあまりご存じない様子なので、ついついそういう蘊蓄をしてしまう。うるさい男だと思われたかもしれない。知っていることをしゃべらずには気がすまない人間なのだ。
 石山で書き始めながら、十五夜はなぜ須磨なのか、瀬田でよいではないかという疑問が提起された。そんなことはぼくは知らない。交通機関のない時代に、式部はどこまで行ったのか、須磨、明石にも行ったのかと問いかけてくるが、そんなこともぼくは知らない。ただ、式部の父親は福井の知事だったころがあり、女性はカナ文字しか習わなかった時代に娘に漢文を教えた人物だ。式部もたしか娘時代を福井で過ごしているはずだ、というこれはぼくのうろ覚え。あんな不便な時代だが、人々は意外と行動的だったのだ。
 石山を堪能したら、浜大津まで出る。琵琶湖の目の前で食事する。Rさんが豪勢な食事をおごってくれた。その日はちょうどぼくの誕生日だった。誕生日がもうあまりうれしくない年齢なのだが。
 それから膳所へ行った。ここが妻たちの故郷である。膳所城跡に出る。琵琶湖に突き出した正方形の平べったい土地で、公園になっている。ところがどうも記憶と違う。あとで聞くと、目の前の橋が瀬田橋ではない。新しくできた橋で、昔はなかったのだ。その橋のせいで、印象がまるで違ってしまった。瀬田橋はもっとずっと南の石山だから、かなり遠回りになる。この橋で大津と草津が近くなったということらしい。
「今日は石崎さんには関係のない場所ばかりで、退屈だったでしょう」とRさんが言う。「いや、ぼくも膳所城には来たのです」「誰と来たの。いまのうちに全部白状しておきなさい」と言われた。冗談じゃない。妻と来たのだ。ほかに来る人なんかいない。ところが妻はすっかり忘れている。
 膳所の彼女の育った家にはむかし来た。その真ん前にあるパブテストの教会にも来た。クリスマスにも来た。彼女もそれは覚えているが、膳所城のことは覚えていない。
 石山駅への帰り道すがら、膳所界隈を走る。「ここは何々ちゃんの家。ここは何々ちゃんの家」と妻がその度指摘する。
「それはみんな小学校時代の友達か」「そうよ」「よくそんなのを覚えているな。おれはもう誰も覚えていない」「あ、でもこれはみんな成績が良かった人たちだから記憶に残ってる」「そうか、おれは自分がいちばんだったから覚える相手がいないんだ」そこでRさんがすかさず、「あ、うちの人と一緒。自分以外はみんな馬鹿、阿保、間抜けと思ってる」と批判した。ぼくはぐうの音も出なかった。かわいい顔して厳しいことを言う人なのだ。
 また、「ここにピアノを習いに来た。ここにはバレーを習いに来た。バレーボールではないよ」と言う。何でも習ったが、習字と一緒で、転勤転勤で中途半端になったらしい。
 琵琶湖は彼女たちの遊び場だった。そこで泳ぎも覚え、ボートにも乗った。ある日、Rさんと二人で沖へ向かって漕いだ。いつの間にか日が暮れ、家の方角が分からなくなった。どうしようと、途方に暮れていると、ふと、教会の屋根の十字架が見えた。それを目掛けて懸命に漕いで、やっと帰り着いた。帰りつくと近所中が集って大騒ぎになっていた。
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