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京都旅行(8)

 4日目。下長者町にはすでに3泊したので、今日は草津に行く日である。でも、チェックインは夕方だし、草津に行っても何もないということで、それまで京都で過ごすことにする。チェックアウトして、荷物は預けた。北野天神へ行ってみようということで話が決まった。
 北野天神は何度か行っている。ただ気になることが新たにあった。「失われた夜のために」のモデルとしたのは鷹峯のアパートだった。そこは北大路西大路から坂を延々と登った高台で、もっと上がれば光悦寺がある。本阿弥光悦の地所あとが寺になったもので、吉川英治の「宮本武蔵」にもたしか出てきた。アパートは二階の部屋だったので、屋根屋根の向こうに、はるか坂下の京都の街がよく見え、夜など街の灯かりが空の星と一体になってきれいだった。
 アパ-トの前の道は両側に家が密集しているのだが、裏にまわると山の中という感じになる。広い荒れた河原があって、流れのはやい川が流れている。川向こうは山だった。山を背景に高額そうな料亭風の建物が一軒あり、その建物の前だけ河原が整っていた。この川の名前を知らなかった。
 ところが坂を北大路まで下りてきて、西大路の方角に少し行くと、密集した建物の間の深いところを流れてきて北大路の地下にもぐり込む川があった。都市の地下を流れる川というなんだか暗黒街的な雰囲気がした。その川が紙屋川なのだ。たぶんどこかに名前が書いてあったのだろう。地理的に見てそれがアパートの裏を流れる川と同じものだと気づいてよさそうなもので、ただ、ぼくの記憶のなかでだけ結びついていなかったのかもしれない。二つの川の雰囲気があまりに違ったので。山中の川と、都市の川。
 つい最近、その川が北野天神まで流れてきて天神川になるのだという記事を読んだ。しかし、ぼくは北野天神には何度か行っているのに、そんな川を見た記憶がなかった。それでこの機会にぜひ確認したいと思ったのだ。
 下長者町のバス停でバスを待つ。ちょうど前の日に清明神社には行かずに中立売で曲がってしまったと同じバスが来た。今日はこのバスがちょうどいい。これに乗れば乗り換えなしだ。堀川中立売で曲がって、大宮中立売を通って、千本中立売、そこから千本通をずっと上がって行く。千中はどうやらいまはパチンコ屋街となっているようだ。そういえば昔もパチンコ屋があった。
 千本今出川で今出川通に曲がり、上七軒を通って北野天神前に出る。前にも書いたが、この千本通は途中まで山陰本線と並行しており、二条駅もその通り近くにある。平安京の中心街、朱雀大路なのだ。九条まで下がれば羅生門で、その東西にあったのが、東寺と西寺だ。
 妻はガイドブックのお汁粉屋を確認している。道路を渡って天神に入っていく。記憶にあるよりも広い感じがする。いたるところ牛の像だ。正月にここに来たとき、妻は上の子を身籠っていた。牛の頭をなぜた手で、自分の頭をなぜようとするので、自分の頭じゃないだろう、お腹だろうと言ったら、お腹をなぜた。おかげで賢い子が生まれた、と親ばかで思っている。
 菅原道真についてはいまさら言うまでもないだろうがおさらいしておくと、宇多天皇に引き立てられて醍醐天皇の時代に右大臣に上がったが、左大臣藤原時平に謀られ、大宰府に流され、そこで死ぬ。ところが、それも諸説あるようで、宇多上皇と醍醐天皇との対立、異例の出世への周囲の妬み、政治改革への不満などがあったようだ。
 天神、天満宮と言えば、梅と牛である。梅は当然として、牛はなぜなのか。今回ざっと見たが、諸説あるなかに、ぼくが覚えている説がない。ぼくの記憶にあったのはこんな説だ。道真と言えばもちろん雷である。道真の死後、都に雷が頻繁に落ちて、御所も焼け、死人も出た。これは道真が怒り狂って雷になって復讐したのだと言われている。ところで雷が落ちると豊作になるという。雷の電気作用で、空気中の窒素が農地に溶け込む。窒素は植物を育てる。というわけで、道真は農業の神である。だから牛なのだ。
 ぼくは若いときからそう信じていた。ところがいま、そういう説がどこにも見当たらない。どこから取りこんだ話だったのだろうか。
 牛の頭をなぜていると老夫婦がいて、その夫とぼくの妻のあいだで話が弾んで、相手の奥さんはとっくに行ってしまったのに、おじいさんの話はどこまでも続いていく。終わりがない。妻が相手をするので向こうは喜んでいつまでも話し続ける。奥さんはいなくなってしまった。頃合いを見てぼくが「ありがとうございました」と言って打ち切った。おじいさんも納得して去っていった。
 さて、肝心の天神川である。それを探しに来たのだ。神社の西のほうをうろうろする。一部建物の修復作業があるようで、工事関係者が集まっている。その先にたしかに川はあるようだが、閉め切られていて出ることができない。ずっと北の方へ行ってみる。神社の北側へ出た。西へ歩くと川があった。川があり橋が架かっている。ところがそれだけで、川に沿って歩くことができない。しかたがないので、そのまま橋を渡った。平野神社に出た。ここは北野神社の賑わいようとは対照的にほとんど客がおらず、ひっそりしていた。しかしいま地図を見るとこの神社は西大路に面している。ぼくらは平野神社の裏だけを見たのかもしれない。桜の名所だということで、平安京の当初からあるかなり大事な神社のようだ。桓武天皇の母方の神社だという。桓武天皇の母親は朝鮮の王家の子孫だ。
 今出川まで引き返して、むかし、コロッケ屋のあった通りを探す。何本か通りがあって、どの通りだったかよくわからない。そのうちの一本に見当をつけて入っていくと、あった。コロッケ屋の看板が出ている。店は閉まっていて、休んでいるだけか、廃業したのかわからない。
 ここに、少し年下だが、いちばん親しくした友人がいたのだ。
 ぼくの同志社生活が限界に来て、とりあえずバイトしていた。鷹峯にいた頃で、淡交社という出版社の倉庫で働いた。裏千家の出版社だった。堀川通の今出川と北大路の中間あたりにあった。のちにビルを建てたが、最初は小さな事務所とそのそばに倉庫があった。
 仕事は本の積み下ろしである。本を出荷する。かわりに返本がどっと返ってくる。トラックがくるたびに、バイト生たちがずらっと並んで、本を投げてリレーする。ぼくはボール投げもやったことがなかったので、最初は落としてばかりいた。落とすと本は駄目になる。数冊重ねて投げてよこした本を素早くキャッチしてただちに次の人へ投げねばならない。毎日がそんなことの繰り返し。ふつうのトラックなら量は知れているが、国鉄コンテナが出まわりだしたころで、これがくると気が遠くなった。投げても投げても本はなくならない。売れなくなってきた本は廃棄処分にする。古本屋に出回れば荷崩れするから、廃品回収というわけにはいかない。表紙と裏表紙を握ってふたつに破るのだ。朝から夕方まで破るのが仕事だったりする。
 ここに、大学受験に失敗した浪人生たちがバイトしていた。嵯峨高校の卒業生たちだった。のちに京都案内の本を出版しながら行方不明になってしまったT、東京の演劇学校に行って嫁さんを連れて帰ってきたU、この男は比叡山で修行して坊さんになった、クラシック喫茶の経営者の息子で、横浜の消防の音楽隊に入ったS、そのほかにもいろいろいたが、そのうち、Tが面白い人物を紹介すると言い出した。それがコロッケ屋のKだった。彼は嵯峨高校ではなく、そのころ野球で有名だった平安高校で、本人は柔道をやっていた。いま龍谷大学付属になっている。
 ニーチェばかり読んで近眼になってしまった男という触れ込みで、会うと、サルトルの話を持出した。じつはぼくはまだサルトルを読んでいなかった。
 父親はすでに死んでいたが、もともと二号さんだった。母親がコロッケ屋をやってそこそこ稼いでいた。「サラリーマンなんかやるよりもずっと儲かるのに、本人がやる気がなくて」とお母さんは嘆いていた。でも、いくつか勤めたあと、結局跡を継いだ。たちまち能力を発揮した。立命の女子学生たちを雇って、コロッケを売りまくった。「あの子たちと自分と、どっちがどっちに搾取されているのかわからねえ」とぼやいてはいたが、若い女の子を店に立たせたのは正解だったのだろう。
 そのうち株の売買を始めた。これも相当稼いだ。バブルの直前だった。バブルが始まると、「これは異常だ。自分は手を出さない」と言った。
 そのうちコロッケ屋を伯父さんに譲って、母親と二人マンションのようなところに引っ越した。母親が齢をとってきて、病院探しに苦労したりしていた。「キリスト教系の病院で失敗した。共産党系の病院が正解だった」と言ったりした。そのころまで、まだときどきお互いに行き来があった。そのころになると何をして暮らしているのかよくわからなかった。ずっと社会主義を批判していたが、1989年から91年にかけてソ連が崩壊してしまうと、急に元気がなくなった。好敵手を失ってがっかりしているような感じで、寄こす手紙が悲観的になっていった。そして突然死亡の知らせが坊主になったUから届いた。あるいはTからだったかもしれない。母親と二人とも死んでいた。かなり経ってから発見された。ぼくらは集まってUが法衣に着替えて経を読んだ。本格的な経だった。話を聞くと、Kはてんかんだったのだという。ぼくはまったく知らなかった。
 こののち、ぼくは京都の友人たちとやりとりをしなくなり、やがて連絡先もわからなくなった。
 さて、コロッケ屋を見つけたので、満足して停留所まで戻り、そのそばのお汁粉屋に入った。何を食べたかよく覚えていない。お汁粉ではない。ぜんざいでもなかった。お団子を食べたような気がする。お団子屋だったのかもしれない。
 このころになると、昼食が気にならなくなった。腹が減らないのだ。宿で食べる朝食が、バイキング形式で、宿料とコミだから、いくら食べてもタダだ。そこでだんだん図々しくなってきて、ともかく食べる。どんどん食べる。日ごろ朝食はほとんど食べないのを、無制限に食べるので、毎日かなり歩くにもかかわらず、腹が減らない。形ばかりに少し口に入れるだけ。
 店を出るとその同じ停留所から金閣寺に向かった。その気ではなかったのだが、妻が行ったことがないと言い出したのだ。「嘘だろう。一緒に行ったじゃないか」というのだが、じつは二人ともあやふやだ。銀閣寺とその周辺は何度も行った。金閣寺は案外行ってないのかもしれない。なにかのおりに一度は行ったはずなのだが。
 北野から金閣寺はすぐそばだ。客は多い。中国人が特に多い。カメラの好ポイントを独占していつまでも譲ろうとしない。割り込もうとしたら、にらまれた。「わたしたちが中国に観光に来たような気がしてきた」と妻が言った。聴こえてくるのが中国語ばかりだから。
 金閣を出るとまたバスに乗って、北大路大宮で降りる。大徳寺は何度も行っているのでパスする。何度もと言うが、学生時代はただ大徳寺の敷地をうろうろしたというだけなのだ。特に鷹峯に越してからは、大徳寺の寺内を近道のようにして通り抜けていた。寺内にいくつもの坊があって、そのそれぞれに庭があるのだが、それぞれに拝観料がいるので、一度も入らなかった。のちに旅行で来たときに初めて金を払って、いくつかの庭を観た。
 今回立ち寄ったのは、妻の学生時代の下宿を探すためだ。大宮通をずっと上がったところというのはぼくも覚えている。京都もほとんど外れの場所だが、大宮通はかつては賑やかだった。どこまで行っても住宅が密集しているので、買物のための店は必要なのだ。ところが今回火が消えたようである。京都の街にも変化が押し寄せている。車社会になり、人々は大型店に行くようになり、商店街はどこも消えていく。途中にかつて「タカラブネ」という洋菓子屋兼喫茶店があった。妻はここでバイトしていて、図々しくもここでクリスマス兼自分の誕生日会を開催したのだ。ぼくも呼ばれたが、あちこちの大学の男どもが集っていた。
 その店ももうない。青春は終わった。いや、ずっと前からもう終わっている。
 どんどん北に向かって歩いていく。この辺りじゃないかというところを西に入っていくが、大徳寺の壁にぶつかる。もっと上だと言いながら、結局諦めた。
 宿に戻って預けていた荷物を受けとり、京都駅に出て、草津行に乗った。
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