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清水比庵と「心の貧しい者」

 高梁の社会福祉センターで、清水比庵という明治生まれの歌人についての話を聴いた。1966年に84歳で召人を務めているから、それなりに評価のある歌人なのだろうが、名前を聞くのは初めてだ。短歌のほかに、書も画も達者で、絵を描いて短歌を添える。絵手紙を始めた最初の人で、むしろ、そのほうで名前がとおっているようだ。
 その人の孫が東京から来てしゃべった。孫と言ってもすでに87歳だ。日本石油(たしか、そう聞いた)の常務だとかを務めた人で、癌を二回やり、動脈硬化もあって、身体はぼろぼろだと言いながら、一時間立ちっぱなしで、張りのある声でしゃべる。とてもユーモラスで、聴衆を引き付ける。
 比庵は高梁出身で、岡大から京大を出て司法官となったが、健康がすぐれず、安田銀行に転職、そこも辞めて古河鉱業に行ったが、そこも辞め、日光町(当時)の町長を何期か務めた。単身赴任だった時代があって、そのときに子供や、孫たちにしきりに絵手紙を書いた。町長を退いてからはそういう活動に専念したということだ。
 子供は娘が一人だけだったので、その娘の産んだ五人の孫をとてもかわいがった。その一人が講演者である。当日、講演者(清水固という)は妹、娘、孫娘を引き連れての講演となった。奥さんを二か月前に亡くされたばかりだという。
 比庵の母親が高梁にある順正短大(当時は順正女学校。現在順正学園)の第一期生で、順正女学校を建立した福西志計子とも親しく、比庵も中学校時代に福西家の書生を務めていたという関係もあり、順正短大の校歌(彼らは学歌と呼んでいた)は比庵の作詞である。そういう関係で、順正学園と、それに連なる吉備国際大学のシンポジウムとして企画されたのである。
 じつはそのせいで、当初予定の会場が入りきれないほどに客が来て、うしろの戸を開け放つと、隣の部屋とつながった。吉備国際大学の学生たちが大挙して来たのだ。マレー系の学生たちだ。
 はじめのうち例によってお婆さんばかりかと思っていたら、途中から若いマレー系の男女学生がどんどん入ってきて、会場は一挙に華やかになった。
 妻の大津時代の幼なじみがこの地で短歌をやっている関係で行くことになった。この地の短歌の代表者数人がパネリストとなって講演後の第二部が始まったのだが、コーディネイトを務めた吉備国際大学の教授が一人でしゃべりまくって時間切れとなってしまい、パネラーはほとんどしゃべる時間がなかった。
 この若い教授は「いわゆる」とすぐ口に出す癖があって、「いわゆる」「いわゆる」「いわゆる」と連続して出てきて、それでよけいに時間を無駄にした感じがする。
 妻の友人は高梁とキリスト教の関係から、(本人、同志社大学出身だから)、新島襄の短歌について語ったのだが、もっとたっぷり時間をあげてほしかった。
 最後にコーディネイターの提案で、偶然シンポの聴衆として来ていた高梁教会の牧師が飛び入りでしゃべった。これはよかった。これだけはコーディネーターのお手柄だった。
 この人には、むかし会って、高梁教会で話を聞いた。その折は、新島襄の日本脱出の経過を調べていて、博士論文を書いているということで、熱心に話してくれた。ちょうど、京都旅行記でもふれた伏見の又従姉弟が来ていたときで、この人もクリスチャンで同志社女子大だから、高梁に連れて行って、妻の友人の紹介で教会を訪ねたのだ。
 牧師の話は、「心の貧しいものは幸いである」という聖句に関連したものだった。比庵がこれを書画にして、それを高梁教会に飾ってある。もともと福西志計子がクリスチャンだし、比庵の母もクリスチャンだった。妻鶴代は母すゑの兄の娘(比庵とは従兄妹どうし)だが、これもクリスチャンである。この笹田家というのは岡山県北の有漢という村の豪商だったらしい。比庵自身も洗礼は受けたのだが、それはクリスチャンでなければ結婚を許さないと鶴代の母に言われたからで、本人は教会にも通わず、キリスト教に興味はないのだろうと思われていた。ところが比庵晩年の随想に、「心の貧しいものは幸いである。これこそ、私の芸術の核心である」という趣旨の文章があるのだという。つまり、心が貧しいからこそ、何かを求める、それが芸術なのだということらしい。比庵とその芸術と「心の貧しい者」とがぴったり重なって、この日最後の収穫がこの若い牧師によって与えられた。
 この聖句は、むかし烏丸今出川に烏丸通をはさんで新しく建った同志社学生会館(いまはもうない)の一階大食堂の壁の高いところに大きな字で英語で掲げられていた。いっときその聖句の解釈をめぐってこのブログでもやりとりがあったし、ぼくの「失われた夜のために」というへたくそな小説の中でもかなり重要な言葉にしたつもりである。
 さて、もう少し続きを。
 比庵の墓所は笠岡にあるそうだ。笠岡は県境をはさんで隣の市で、自転車でちょっと走れば笠岡である。比庵の妹の嫁ぎ先が笠岡で、戦争中に疎開したこともあったようだ。笠岡の干拓地を望む古城山にも比庵の石碑があるという。
 そして、清水固の講演に戻る。講演の最後、比庵が、齢とってから「くれない」を愛したということで、「くれない」という語の出てくる短歌をいくつも紹介した。それを見て驚いた。福山に帰って以来何度も散歩に行く春日池公園にある石碑の短歌が、登場したのだ。その石碑はわが坪生村の出身でかなり有名な書家らしい桑田笹舟という人の筆跡を刻んでいるのだが、短歌の作者名がない。誰だろうと思っていたら、比庵だったのだ。二人は親しかったらしい。

 あさひいま のぼらむとして くれなゐに ひがしなかばを そめぼかしたり
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