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京都旅行(6)

 二日目、伏見と宇治から京都駅まで帰ってきた。その日は朝一度バスに乗っただけだったので、堀川通をまっすぐ宿に帰れば2回しか乗らないことになって、600円の一日券を損する。3回乗らないと元が取れない。というみみっちい考えがあって、それで京都駅から河原町通りを行くバスに乗ったのだと思う。あるいは別の日だったかもしれない。二日目のことなのだが、早くも記憶があいまいだ。
 K仏具店に行きたいと妻が言う。英文科の一年先輩で仏具店の跡取り息子がいたのだ。ちなみにぼくの京都の友達はみんな死んだか行方知れずだ。特に親しくしていて倉敷までたびたび会いに来てくれた人はみんな死んでしまった。ほかにも同志社関係、立命関係、日新電機関係、それに同人雑誌関係と、大勢いたのだが、年賀状が来てもぼくが出さなかったりして、そのうち住所もわからなくなってしまった。ぼくは友達を大事にしない人間だったのだと思う。
 定年してからなんとか探し出したいと思って、ネットで探したら、同人誌関係の年下の友達が京都案内の本を何冊か出版しているのを見つけた。彼と連絡が取れればみんなと連絡が取れるはずだと思って、その出版社に手紙を書いた。電話がかかってきて、じつはその著者が行方不明になって、われわれも探しているのですということで、それきりになった。
 妻がK仏具店に着目したのは、その人なら京都に残っているのではないかという発想で、たしかに多少望みがありそうだ。
 ぼくはその仏具店に行ったことがある。仏具店ばかりがずらっと並んでいる通りのなかの一軒だった。ところがその通りが仏光寺通だったか、万寿寺通だったかはっきりしない。
 京都の道は細くてもみんな名前がある。東西通りで誰もが知っているのは、「姉さん六角蛸錦」というやつだ。北から、姉小路、三条、六角通、蛸薬師通、錦、四条という並びになる。京都の最も繁華な地帯である。四条河原町がその中心で、錦は京都市民の台所である。蛸薬師にはミレー書房があって、そこで「民主文学」や「忍者武芸帳影丸伝」を買った。今回バスの中から見ると、その通りがずいぶんにぎやかな通りになっていた。三条は新京極から続くアーケード街だ。
 ほかの道は知らなかったのだが、四条河原町近辺の紙屋で働いたときに、四条から南の通りを自分なりの節まわしで覚えた。これは自分流なので、ほんとうはどう覚えるのか知らない。「しいあやぶったかまつまんごじょう」と覚えた。四条、綾小路、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通、五条である。
 綾小路を少し下がったところの紙問屋で働いて、昼休みには仏光寺に行って鳩を見ていた。仏具店だから仏光寺通かなと思ったのだ。でもなんかおかしい。仏光寺はぼくの働いていたところに近すぎる。そんなところに仏具屋なんかなかった。万寿寺のような気がする。
 万寿寺通は五条の一本上である。五条でバスを降りた。その角はホテルを建築中だ。見るとあちこちにホテルがある。昔はそんなところにホテルはなかったと思う。宿屋街はどこだったか忘れたが、もっとずっと離れたところにあって、その一軒でバイトしていた頃がある。ホテルと名のつくものは京都ホテルとかもっと東山のほうにあったような気がする。
 少し歩くと万寿寺通だ。入っていくと早速あった。仏具店が、ずらっとというにはかなり減った感じはするが、ともかく並んでいる。だが、K仏具店はない。ずっと西へ歩いて行ったが、だんだん仏具店がなくなってしまった。引き返して、一軒で聞いた。「K仏具店は10年前に引っ越した。いま更地になっているところがそうだ。どこへ越したのかは知らない」という返事。もう一度歩いて見ると、たしかに一箇所更地になっていた。
 望みが途絶えた。このKという人はとても地味な人だったが、英会話は達者で、通訳になりたいという望みを持っていた。目立つ活動家ではなかったのだが、コツコツと赤旗を拡大していくようなタイプで、ぼくの金光教の友達とも、Kを通して知り合ったのだ。一度ビラ貼りかなんかで逮捕された。釈放されたときの集会で本気で怒って告発した。この人のそういうところを初めて見た。数年後、かわいらしい奥さんを連れたKとどこかでバッタリ会った。ぼくも妻と一緒だったので、ぼくがKと、妻は奥さんと話した。あとで聞くと、奥さんが「夫はいまでも通訳になりたいという夢を捨てられなくて」とこぼしていたと言った。ぼくはそう覚えているのだが、妻にはもうその記憶がない。そしてそれがどこでだったのか、その場所を思い出せない。どこかの土堤のようなところだったと思うのだが。
 仏具店をあきらめて、そのまま細い道を北に進む。働いていた紙屋を探した。綾小路の少し下がったところ、つまり綾小路と仏光寺の間だ。南北の細い道が何本かある。それを行ったり来たりするのだが、なかなかわからない。そのうち大きな勘違いをしていたことに気づいた。河原町通りというのは鴨川に沿って走っているので、五条から四条のあいだでは斜めに東北を向いている。鴨川が曲がっているからだ。万寿寺通で河原町から一本西を北に向かって綾小路に来てもそれが依然として河原町の隣の通りだと思い込んでいた。それにしては河原町の二本隣には寺町がある筈なのにないなといぶかしく思いながらぐるぐるまわっていて、やっと気づいた。ぼくらの歩いた道は五条から四条に来るにつれてどんどん河原町から遠ざかっていたのだ。ぼくらはたぶん麩屋町を歩いていた。その東が御幸町で、寺町はもうひとつ東だった。そしてぼくの働いていたのは御幸町だった。その店はもうなかったが、おぼしきあたりの家と家の間の狭い路地の入口に、その奥の住民を列記した表示があり、そこにその当時の紙屋の名前があった。あえて路地への侵入は遠慮した。綾小路の角になんとなく覚えのある店がある。ぼくが昼飯を食べた店のようだ。
 四条へ出る。ここまで来たからには錦へ行こうと言うと、錦へは行ったことがないと言う。「そんなことないだろう。一緒に来たじゃないか」「そうかな」二人ともあやふやだ。
 四条を一本上がると錦である。狭い通りだ。もちろん車は入れない。両側は昔ながらの八百屋街である。観光客向けの店なんかない。出町枡形商店街と街の感じは変わらない。ただそれがどこまでもずっと続いているというだけだ。
 ところがそこが観光客だらけで押し合いへし合いしている。例によって西洋人と中国人だ。人波のなかを泳ぐような感じ。観光客が買うようなものは売ってない。ただ彼らはマーケットの雰囲気を味わいたくて来ている。そうなのだ。観光客も名所旧跡だけでは飽き足らないのだ。こういう庶民的な街の雰囲気を味わいたくて来るのだ。迷惑しているのは地元の買い物客と、店の主人たちである。のんきに買い物の出来る雰囲気ではない。
 もちろん我々の時代にはまったくこんなふうではなかった。観光客の来るような場所ではなかった。
 どこまで歩いても続いているので、途中で引き返した。途中にあった店で買いたいものがあったという。ところが引き返しかけると、どうやらぼつぼつ店じまいしている。売れるだけはすでに売り切ったようだ。満更何も買わないわけでもないらしい。目当ての店も閉店していた。四条に戻る。バスに乗って、乗り換えたか、ちょうど曲がるバスがあったのか覚えないが、堀川下長者町に戻った。
 その近辺に堀川商店街があるのは見ていたのだ。夕食は、適当なところで買うか、食べるかすればいいと考えていた。ところが時刻が遅くなったからか、どの店も閉まっている。バスを降りて最初北に向かったが、どうも開いている店がない。反転して南に向かう。下立売まで引き返してやっと八百屋に毛が生えた程度のスーパーを見つけた。例によって弁当とビールを買って宿に戻った。
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