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京都旅行(4)

 旅行記も4回目になるのに、初日の出町枡形商店街から話がひとつも前に進んでいない。どうも人に読ませるというよりも、自分自身の備忘録のような、あるいは記憶の確認というような、そんな感じで書いている。たぶん、こんな調子でどこまでも続いていく。でも、「ふくやま文学」の締め切りまで3週間を切ったし、そのうえ町内行事も目白押しで、また中断するかもしれない。
 さて、枡形商店街から外に出て、ここまで来た以上、次の行き先はおのずから糺の森だ。葵橋を渡れば、糺の森に入る。目の前に橋があったので、渡った。欄干に橋の名前がないので、妙だなと思いつつ渡った。渡りながら、上にもうひとつもっと大きな橋があるのが見えた。右手を見ると下にももっと大きな橋がある。橋を渡りきると、その行く手にもまたひとつある。こんなに橋がいくつもあるなんて思っていなかった。
 あとで調べると、そのとき渡ったのは出町橋で、これを渡ると賀茂川と高野川とが合流するデルタに来る。それを直進すれば高野川を河合橋で渡って、出町柳に出る。叡電の乗り場だ。のちに何回か利用することになる。右手の橋は、賀茂川と高野川が合流して鴨川となった最初の橋で、賀茂川大橋である。これは今出川通にあって、それを渡れば百万遍、吉田、京都大学から北白川方面となる。葵橋は左にある。賀茂川沿いに近付いていくと、もはや市電のレールはないが、昔の面影はよみがえった。この橋は北東方面へ斜めの方角を向いてかかっているのだ。ここで河原町通が終わって、下鴨通になる。目の前が家庭裁判所だ。糺の森の入口に家庭裁判所があるというのが奇妙な偶然で、記憶に残っている。いまでも50年前と同じようにあった。
 エッセイに書いたように、糺の森の入口を間違えた。参道の手前の道を参道だと錯覚して入っていき、並行しているはずの小川沿いの小径に出ようとするが、遮断されていて行けない。てっきり閉鎖されたのだと思い込んで歩いていると観光バスが入ってくる。どうもおかしいと思ったら、バスの進入路を歩いていた。参道はその隣にあった。引き返したいという気持ちはあったが、やせがまんで、「次の50年後に来よう」と宣言してそのまま神社に入る。神社はまあ大して興味もないので、そこの横道から下鴨通に出た。
 北大路と下鴨通の交差点を洛北高校と呼ぶのは、市電の停留所の名前がそうなっていたからで、実際の洛北高校はもう少し上がったところにある。当時の学校はどこも出入り自由だった。ぼくは悪友と夜中に忍び込み、教室の黒板に落書きした。「洛北高校に幽霊がいる、落書党という幽霊が……」という出だしで、もちろん読んだばかりの「共産党宣言」のパロディだ。
 ぼくの住所を知らない友達から、「下鴨洛北高校電停下ル西入ル」で手紙が届いた。当時の京都は市電の停留所が住所のようなものだった。
 その先はエッセイどおりなので省略する。ただ、妻か、その友達がぼくのプレハブめがけて石を投げたのがいつだったのかはっきりしない。妻は、それはぼくの誕生日で、隣にコスモスが咲いていたからそれを分けてもらったのだと言うのだが、それだとつじつまが合わない。お隣からコスモスを分けてもらったとすればそれは昼間のはずだ。ところが昼間なら、石を投げる必要はない。玄関で挨拶すれば、そこにはぼくの大伯母か、だれかがいるはずで、そこから入って細長い土間を突っ切れば、中庭へ出て、プレハブはそこにある。
 だからたぶん夜だったのだと思う。とすれば日が違うのだ。夜にコスモスをもらうことはできない。
 その前後から、雨がぱらついてきた。もともと天候不順だった。宿に急ごうということになった。出町枡形で食料を仕入れると言う。下鴨通に戻ってバスに乗った。じきに糺の森のアナウンスがあったので、すぐに降りた。降りてみると葵橋までまだ遠い。降りるのが早すぎて、無駄に歩くのが嫌いな妻がぶつぶつ言い始めた。歩いて葵橋を渡り、枡形商店街に舞い戻った。総菜屋で弁当を買い、その先で缶ビールを買った。ここに戻ってきた以上、確認したいことがあった。そのまま西に進んで寺町に出る。河原町の二本西はどこまで行っても寺町なのだ。寺町を少し今出川方面に進むと、あった。金光教の教会だ。同志社英文科の親友がここに下宿していた。妻もここに来たことがあるという。ここでだっただろうか、岩手の久慈から来ていたもう一人の同級生と、あとバイト先の浪人生たちと、そのころぼくが同人雑誌に書いた「脱出」という短編の批評をしてもらい、ついでに誰かの誕生会をしたような記憶がある。
 この金光教の友達は最近ミステリーのモデルに使わせてもらったが、たぶんもう生きていない。たいへん義理堅い男で、倉敷市水島と甲府と住むところが遠く隔たってからもしばしば訪れてくれた。ところが50歳ころからぼくの生活はめちゃくちゃになっていたので、ぼくの留守に電話があったとき、ぼくは折り返さなかった。それきりになった。たぶん死んだ。後悔しているが、取り返しようがない。
 このときの同人誌もいまは失った。「脱出」も消えた。当時、宝ヶ池で暴走族が暴れて、宝ヶ池サーキットと呼ばれていると聞いて、ぼくは見学に行った。真夜中である。当時の宝ヶ池はほんの田舎だ。田舎道を歩いて行った。若者たちの車が次々と轟音を立てて走ってくる。カーブをスピードを緩めずに走り抜ける。一台が綺麗にひっくり返った。見物衆たちが駆け寄って助け出す。どうやら運転手は無事だった。
 それを小説に書いた。暴走族を主人公に、やり場のない青春の思いとその暴走とを書きたかった。バイト先の浪人生たちには好評だった。民青の学生たちには悪評だった。彼らは英文科のくせに、文学を理解しないとぼくは勝手に思った。その後、この浪人生たちと新たに同人雑誌を始めた。
 別の日、教会に友達を訪ねてきて、近くの喫茶店に行った。するとバイト先の事務員がそこでバイトしていた。「会社には内緒にね」と彼女は言った。その会社とは、淡交社で、それは裏千家の出版社だった。ぼくは浪人生たちとその倉庫で本の積み下ろしをしていた。京都というところは意外に狭いところで、しばしば偶然の出会いがある。
 教会の前で写真を撮って、寺町通を今出川通に出る。河原町今出川まで戻ってもいいのだが、バス停が十字路の信号のどちら側にあるのかはっきりしない。同志社前のバス停がすぐ先だからと言って歩き始める。雨が本降りになってきた。用意していた傘をさす。ところがどこまで行ってもバス停がない。食料とビールを入れた袋をぼくが肩に掛けたり、手に持ったりしていたが、袋が大きめなので手に持つと引きずる。それが気に入らないと妻が取りあげてみると、弁当の汁が袋のなかでこぼれている。雨は降る。バス停はない。弁当はこぼれる。妻がいらいらし始めた。
 スーパーやコンビニで買う弁当に慣れ切っていた。それらは、きっちり包装してあるので、どう引っ繰り返しても漏れることはない。ところが、いまどき珍しい町の八百屋さんなのだから、そこで作った弁当なのだから、まっすぐ持たないとこぼれるのだ。
 なんとか処置して、結局烏丸今出川まで歩いた。後日そこを通ると、同志社前(実際は同志社女子大前)のバス停はあった。よそのバス停がみなそれらしいちょっとした構築物を備えているのに、そのバス停だけ看板のみだったので気づかなかったのだ。雨は降るし、食料はこぼれるしだったせいもあって。
 宿に入るとき、食料を隠さなくていいのか、宿が嫌がるぞと言うと、いいのだ、夕食はついてないのだからいいのだという。ぼくはヘップバーンの映画を思い出した。「いつも二人で」といういくぶん喜劇タッチのこの映画は好きな映画のひとつで、いまは子供も大きくなった夫婦の貧乏時代の旅行の話。高そうなホテルに泊らざるを得なくなって、夕食は高かろうと外で買って隠して持ち込む。うまくいったと安上がりの晩餐を楽しむ。支払いのときに、夕食代は食べても食べなくてもコミですと聞かされ、結局無駄に払わされるという話。この夫婦とぼくらとの違いは、この夫婦は若いときは貧しかったが、やがて裕福になった、ぼくらはずっと貧しいままだという点なのである。
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