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高原さんに――デカルトから

 高原さんのコメントをすべて承認したが、内容を理解できたというわけでもない。そもそもいただいた本を読めていないので、コメントに対して答えることもできないし、これ以上引き延ばしても意味がない。とりあえず公開しておけば、ひょっとして興味を持たれる方もいるかもしれない、という意味である。
 読めない言いわけを、一言だけ言わせてもらう。
「先人の業績を引き継ぐのではなく、いちから始めるのだ」と高原さんは言う。じっさい、ご本をめくってみればそのとおりで、そこにわかりにくさの50%がある。依拠すべき出発点が何もないのだ。まず高原さんの定義に黙って従っていくしかない。高原さんがそう定義したのだから、異議を申しようがない。すべてを高原語で読んでいくことになる。
 いちから始めるというのは、デカルトのやり方だ。デカルトは、あやふやな基礎の上に建物を建ててもしかたがない、という理由で、それまでの哲学者の業績を無視して、まず絶対確実なものはなにか、というところから始める。そして、すべてを疑ってみる。その結果、絶対に疑うことのできないものにぶつかる。
 それはいま「疑っている」という事実である。こうして絶対に確実なものが見つかった。それは主観の存在であろう。そこからの彼の論理には、いまの我々からみるとかなり抜けがあるのだが、とりあえず、彼の論理で客観の存在にも到達する。神の存在にも到達するのだが、それはそれとして、客観的存在が主観の外に存在することを認めたことで、自然科学を有効ならしめた。
 その歴史的意義は大きい。コギト・エルゴ・スム=われ思う。ゆえに我あり。を見出していく論理過程は、いま思い出してもほれぼれする。その後の哲学は多かれ少なかれその基礎の上に展開されたというべきだろう。
 だが、それは江戸時代初めころの話である。
 それからいろんな哲学者がいろいろとものごとを追求してきたわけで、この21世紀の世界において、「いちから始める」はないだろう。読者はどこから始めればいいのか。デカルトにならって学んできたすべてを捨て去って、経験してきたすべても捨て去って、ひたすら高原語の世界に埋没せよということなのか。しかもそれがどこに進んでいくのかも不明であるというのに?
 デカルトは少なくとも考察のテーマを最初に明らかにした。「絶対に疑い得ないものが存在するだろうか?」というクエッションであり、いまからこの問いに向かって進んでいくぞ、という宣言から始める。考察の目的を最初に明確にしている。
 そこに至る過程は、すべての哲学的業績をいったん消去しているので、すべて日常語である。言葉を定義したりしない。明快なわかりやすい言葉で語る。
「いちから始める」というのはつまりそのようなことであろう。「いちから始め」ているはずのことが、いきなり個人的な言葉の定義から始まっては、それは「いちから始めて」はいない。すでにだいぶ先まで行ってしまっている。著者が読者をほったらかして、一人で先まで行ってしまい、「さあ、ここから始めるぞ。ここがいちだぞ」と言っているのだ。それがどういう地点であるのか、読者にはわからない。

 哲学をほとんど読めていないので、これ以上言う気はないが、サルトルとカミュの例だけ挙げておこう。
 サルトルの「存在と無」は、じつは「緒論」の部分だけしか読んでいない。しかし少なくともその部分は非常にわかりやすかった。というのは、先人たちの業績の評価と、その不足部分の指摘から始まるからである。順を追って一人一人取りあげていく。かってに言葉を定義したりしない。理解不能の言いまわしなどかけらもない。きわめて日常的な言葉で、先人たちのいわば入門書のような体裁をなしている。もちろんそれはサルトルの理解による、サルトルのいまからの論理展開に必要な知識を与えるための概説なのだが。
 高原さんの書物にぜひ欲しいと思うのは、こういう「緒論」である。先人たちがどこまで来たか。高原さんはその何に不満なのか。その不満の解決を目指して、とりあえずどこから出発しようとしているのか。そういうことを書いた部分が巻頭に欲しいのだ。
 その「緒論」が人をけむにまくようなものではなく、わかりやすい日常語で書かれることを望みたい。

 カミュの「シジフォスの神話」は、もちろんエッセイであって、哲学書ではない。そこにも哲学の先人たちがずらりと顔を並べているが、専門家たちに言わせると、カミュはだいぶ間違えている。かなりいい加減なことを書いている、ということになるそうだが、ぼくがそれらの先人たちを読んでいないので、評価のしようがない。
 だが、少なくとも、カミュが何を言いたいのかということは十二分に伝わった。カミュが解釈を間違えているとしても、間違えた解釈にせよその解釈にもとづいて展開されていく論理のすじみちはたいへん分かりやすく、結論もわかりやすかった。

「書く」のは読んでもらうためである。さもなければひとりごとだ。
 マルクスの若い自分の独り言を後世の人々が出版したので、その解釈をめぐってあれこれ言われているが、ひとりごとはひとりごとだ。そのことをこころすべきだろう。
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83:石崎「ふつうの人」について by 高原利生 on 2019/10/15 at 19:13:50 (コメント編集)

いつも支配層が、教育とマスメディアによって常識、生き方を注入しているにも関わらず、石崎さんも幾分か正しい。
だが、ある時代の主観と客観の内容は、人が何を対象化して扱っていたかに表れる。主観と客観をどう意識していようが、科学は客観化された認識の体系である。
主観と客観は、道具と言語成立で初期形態ができ、物々交換、文化・文明の成立、産業革命での変遷がある。今回、論理学を作り、今後の見方、行動の仕方である生き方の案を作った。出発点が事実である。
石崎ブログ「高原さんに――デカルトから」で「不満の解決を目指して、とりあえずどこから出発しようとしているのか」「しかもそれがどこに進んでいくのかも不明であるというのに?」「そういうことを書いた部分が巻頭に欲しいのだ」と言われる。これは悪の美文の二例目である。
それはお渡しした本だけでなく巻頭の「概要」にも書いてある。出発点も目的も全体の構成も結論もかいてある(逆にそれしか書いてない)。今後分かりやすく書くようには務める。「概要」はたった10ページなので、書いてあるかどうかくらいは確認してから文にしてほしかった。

82:ふつうの人 by 石崎徹 on 2019/10/15 at 13:48:50 (コメント編集)

 ふつうの21世紀人の多くがこの問題について未だにあいまいなのです。アメリカ人の半数以上が進化論を否定しています。日本でもしばしばそういう人たちに出会いました。
 日本人の多くが生まれ変わりを信じています。この点ではアメリカ人とあまり変わりません。
 客観と主観が明確に区別できていません。
 問題はそこに留まりません。客観の把握は主観を通してしかできない。そこには無限に複雑な問題があります。
 大部分のふつうの人たちがそういう問題についてあいまいなままに済ませており、すべてについて不明確にしか認識できていません。

81:石崎「主観と客観」についてのコメント by 高原利生 on 2019/10/14 at 23:36:19 (コメント編集)

「哲学者の見方よりフツウの人の見方が重要」
前回、
『デカルトが「客観的存在が主観の外に存在することを認めたことで、自然科学を有効ならしめた」(石崎)というのは違う」「客観と主観の分離は道具や言葉を作った時から始まっている』と書いた。
哲学者ではないので「未完成の哲学ノート」でもフツウの人の常識が大事だという前提で書いている。
同書概要の4節で、四千年前の文化・文明の成立期には、自然科学はあったと書いている。自然科学は「客観的存在が主観の外に存在することを認め」ないと成立しない。文化・文明の成立期に、客観と主観のあり方も大きく変わった。この時初めて、一人一人が宗教や行政組織などに組み入れられたからである。
それにデカルトの影響は長い間西ヨーロッパに限られ、それも当時の一部の哲学者や自然科学者にしか影響していない。
デカルトをこんなに高く評価する人は初めてである。違っていれば誤らないといけないかもしれないが、石崎さんには自分に分かりやすく書いてある本の内容を一般化しすぎる傾向があるような気がする。マルクスはもっと一般化してもいい内容を一般化しなかった。

74:主観と客観 by 石崎徹 on 2019/10/13 at 09:58:54 (コメント編集)

 もちろん、唯物論も自然科学もギリシャの時代からありましたが、それでも、観念こそが実在であって事物はその現象に過ぎない、即ち観念の影であるという考え方は、プラトン以来、西洋の思想の根本にずっとひっかかっていたと思います。事物を観念から完全に独立させたのはデカルトの功績です。

72:「高原さんに――デカルトから」へのコメント2 by 高原利生 on 2019/10/12 at 22:11:09 (コメント編集)

大事なことを忘れていた。高原にこのように書いたらどうかという石崎さんの忠告はありがたく頂戴します。現にその後改版した概要の原稿を石崎さんにお送りしている(平松さんにも)。今、さらに改良している。今回の批判も、どうしてこのような批判が出るのかを考えるので有益だった。忠告は一層励みになる。ありがとうございます。

ついでにデカルトについて一言。デカルトが「客観的存在が主観の外に存在することを認めたことで、自然科学を有効ならしめた」というのは少し違うのではないか。客観と主観の分離は道具や言葉を作った時から始まっている。哲学者もアリストテレスまで遡る。
デカルトが近代合理主義の祖といわれかつ非難もされてきたのは、石崎さんが批判していた「単位を組み合わせて全体を作る」考え方だと思う。
概要で、今回、高原が(63:「高原氏への若干の疑問」6 へのコメントでも)三つを実現したと書いているが、多分、サルトルの全体化の実現方法にもなっている。

71:「高原さんに――デカルトから」へのコメント by 高原利生 on 2019/10/12 at 17:47:40 (コメント編集)

・高原は、事実については定義などしていない。『64:「高原氏への若干の疑問」コメントまとめ』で過去の総括をしたのだと書いた。

・「52:「高原氏への若干の疑問」2へのコメント」で、高原は「何かをするやり方に過去や現在のものの修正とゼロベースで作る二つがある」と書いた。
石崎さんは「高原さんに――デカルトから」で『「先人の業績を引き継ぐのではなく、いちから始めるのだ」と高原さんは言う」と書かれた。
高原の「過去の総括」である事実は「先人の業績を引き継」ぎ同時に今の意味を含んでいる点と、事実の「定義」とやらが違う。高原の「やり方」「作り方」についてと、石崎さんの言っている「内容」についてが混乱した。高原の最初の説明不足をお詫びする。
・石崎さんは続いて「高原さんがそう定義したのだから、異議を申しようがない。すべてを高原語で読んでいくことになる」と書かれた。これについては当然、書いた人の意味で読んでいくしかなかろう。

・「経哲草稿」については『63:「高原氏への若干の疑問」6 へのコメント』参照。デカルトや昔の哲学者の読み方については触れる字数がない。

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