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今村夏子「むらさきのスカートの女」161回芥川賞

 そもそもぼくは日本の小説を(外国の小説も)ほとんど読んでいないし、芥川賞なんか読んだことはないので、それがどういう位置づけであるのかもよくわからない。一覧を見るとごくたまに、読んだ本や、読んだ作家が見える。70年前後はわりと読んでいる。そのあとバッタリご無沙汰して、ほとんど名前も聞いたことのない作家ばかりだが、この10年間は飛び飛びでも読んでいる。
 だいたい「文芸春秋」で読む。単行本より安いし、雑誌を買うことはめったにないので、ついでにほかの記事も読めるという打算だ。でも結局ほかの記事はめったに読まない。
 直木賞は買わない。単行本でしか読めないから。つまり金が掛かるから。しかし最近話を聞くと直木賞のほうが面白いのではないかという気がしてきた。そもそも直木賞をとるのはすでにプロになっている人だ。芥川賞はあくまで新人の登竜門、つまりアマチュアだ。
 面白い話があって、直木賞は受賞しないほうが受賞するよりも長生きする、芥川賞は受賞したほうが受賞しないよりも長生きする。
 どうしてかというと、直木賞は取らなくてもすでに筆で生活できている人で、取ると注文が殺到して過労で死んでしまう。
 芥川賞は生活できない人だから、いつまでも取れないとそれこそ悲惨な生活が続いて精神的にも参ってしまい、早死にする。取ると、何とか生活が成り立ってぼちぼちでも生きていける。のだそうだ。

 さて、「むらさきのスカートの女」である。
 一言で言えば視点にこだわった小説だろう。一人称小説があり、三人称小説がある。ふつうはこのふたとおりだが、いつだったか、二人称小説というのがついに出た。そんな小説はなかったので、ぼくも一度は試してみたがうまくいかなかった。難しいのだ。やってみるとわかる。ところが見事に成功した小説が出て芥川賞を取った。誰のどんな小説だったかは忘れてしまった。
 一人称、三人称は、まあ普通として、二人称がついに出たからこれ以上はあるまいと思っていたら、まったくぼくが予想していなかったものが出た。
 書いてあるのはずっと三人称の人物である。それを一人称の人物が書いているのだが、自分のことは一切書かない。それではこの人物は作品の外にいる人物なのか、あるいはまったく傍観者的立場の人物なのか、というとそうではないのだ。じつはその人物こそが本当の主人公であり、彼女が三人称人物を書くその書きかたでもって、じつは一人称人物が表現されている。書いている対象を書いているのではない。書いているその書き方を見せることで書いている人物を書いているのだ。書かれている人物はじつは何でもない。そういうふうに書いている主体こそが表現されている。どういう色を塗るかということが、その色の選択こそが選択者を表現している。
 これはじつはさまざまに示唆的である。人が自分の本性をさらすのは、彼が他人を表現するその表現の仕方においてではないか。
 作家という職業人は常に他人を書いているのだが、どういう人物をどういうふうに書くかということで、自分の、作家自身の正体をさらしている。
 作家だけではない。これはすべての人間に普遍的なことだ。他人をどう見るかということが、その人の眼を語っている。他人は決して語られない。人が語るのは常に自分自身なのだ。
 文学的な企みというものは、単に奇をてらうわけではない。そこには作家の世界観が表現される。この価値を認めたとき、審査員たちは手を挙げる。
 というのは、日本中に小説を書いている人は読む人より多いくらいいて、プロに負けない水準の人だって大勢いるのだ。だから、何か人と違うものを見つけ出した書き手を選ぶのでなければ、選びようがない。ということなのだろう。
 お仕事小説と呼ばれたりするが、それがいまの若い書き手の一種の流行りだ。昔の日本の小説は、何か偉そうなことを深刻そうに喋る偉そうな主人公が出てきて、愚にもつかぬことで悩んだりする、そんなものが多かったのだが、いま、主人公たちは読者の身近にまで降りてきた。一種のプロレタリア小説の第二期の時代なのである。
 ただ、願わくば、もっと現実と格闘して欲しい。いまのままでは、なんか、物足りないなあ、という状態が続きそうである。
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