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高原氏への若干の疑問

(このブログでは箇条書きがうまく反映されないことを忘れていました。ぼくのパソコン上で訂正しても、他の機器ではやはりもっと見にくくなるだけと思うので、このままいきます)
(20日から30日までブログもメールも一切確認できませんので、ご了解ください)

 高原さんから「未完成の哲学ノート」と題するぶあつい本が送られてきた。半年前に初版が来たのだが、それに重ねて、最近第四版が届いた。
 初版と四版との相違点もわからないままだが、いずれにしても極めて難渋で、またとても長く、とうぶん読めそうもないので、いただいた御礼を送信するさいに、その旨に加えて、「ダイジェストがないか」と打診した。
 すると、「この部分を読んでください」ということで、本のなかから抜粋したと思われる文書がメール添付で届いた。しかしそれも相応に長く難渋なので、読めずにいたところ、平松さんがその文書への疑問点を朱書きしたものが手元にも来た。さらにそれへの高原さんの返答が今度は青書きで来た。
 それらを通読すると、高原さんに対する疑問点がいくつか浮かんできた。それをここに走り書きする。ただし、高原文書中、「生き方」と題した部分はとうめん関心を持てない部分なので読んでいない。
 高原―平松交換文書は未発表のものであるが、ここに記すのはそれをヒントに浮かんできた高原説そのものへの疑問であり、「未完成の哲学ノート」を読めていないながら、高原さん自身によるそのダイジェストに対する疑問なので、一応公開文書への疑問として自ブログで公開する。
 高原説を確認しようと思われる方は、「未完成の哲学ノート」が出版されているので、高原さんまで注文してください。連絡先はこのブログの「メールフォーム」に問い合わせてください。
 さて、高原さんにお願いするが、ここに書くことがまったくの見当違いであると思われたら、無視してください。もし反論を書こうと思われたら、それをこのブログへのコメント形式で書くのなら、ブログコメントという性格を考慮されて、要点を手短に、わかりやすく書いてください。長くわかりにくいものは公開せず削除します。
 短くわかりやすく書けないのであれば、ご自分の責任のところで公開するか、メール添付で個人的に送ってください。(ただ、読めないでしょうけど)。

1. 「つまり、事実を存在と関係(運動)の全体ととらえることは、機能と構造としてとらえることである。世界は機能と構造の集合である」
① かなり混乱した叙述です。
② 「事実」「存在」「世界」はあなたにとってそれぞれどういうことを意味していますか。
③ こういう問いに対するあなたの答えはたぶん以下のように繰り返しになるだろうと推測できます。
④ すなわち、「事実とは存在と関係の全体」であり、「世界は機能と構造の集合」であり、「存在とは、関係との全体性によって事実となるものである」
⑤ 閉じられた輪のなかでのみ定義されてしまうような予感があります。
⑥ 「事実」が何を意味するのかよくわかりませんが、それが「存在」と「関係」の「全体」であると定義されているのを読むと、「存在」と「関係」とがそれぞれ別のものとして区別されているように見えます。形而上学的な思考方法が顕著です。
⑦ じっさいには、「存在」は「関係」そのものです。「関係」のないところにはいかなる「存在」もあり得ません。「存在」こそが「関係」としてとらえられる必要があります。
⑧ ところがそのあとで「世界」が出てくる。この「世界」を「存在」と同義語としてとらえると、「存在」はここでは「関係」と一体のものとして考察されているようにも読めます。
⑨ 「事実」「存在」「世界」はこの文脈中では同義語のようにも見えます。
⑩ ひとつのセンテンスの前と後ろとで、言うことが矛盾しているのです。
⑪ 「機能」の問題は次のところで。

2. 「存在を、一時的に固定的にとらえられる実在の 物理的なまたは生物的等の もの と固定的観念とする」
① ここでも工学系の表現方法(通常の文章表現ではないもので表現しようとする)が現れています。(半角スペースの使用による表現)この問題はあとで書きます。
② 「存在」とは「物質」と「観念」である。ということを青で確認しています。そのうえで「常識」では「観念を存在とは呼ばないだろう」と付言しています。
③ これはデカルトの二元論そのままです。
④ デカルトの二元論には大きな意義がありました。
⑤ プラトンでは、「観念」こそが「実在」であり、「物質」はこの「観念=実在」が作り出した影に過ぎない。即ちそれは「現象」であるということでした。
⑥ デカルトはそれを否定して、「物質」は「観念」がなくてもそれ独自で存在しうると主張し、これによって現代合理主義の祖となり、ヨーロッパの自然科学の開花に寄与したのです。
⑦ だが、彼は「観念」もまた「物質」がなくても存在しうると主張し、神の存在を証明しました。
⑧ だが、現在、われわれが知っているのは、「観念」は「物質」なしには「存在」し得ないということです。「観念」はたしかに「在る」が、それを「存在」と呼ぶかどうかは「存在」の定義によるでしょう。
⑨ 「観念」は即ち「意識」です。それは生物の「機能」から発展しました。「機能」はもとは物質的、物理的な反応です。これが例えば植物にあっては、「根が水を求めて伸びていく」「花は太陽のあるほうに顔を向ける」という機能を生み出します。即ち「感覚」によって得られたものが「生存」に有利な反応へと繋がります。
⑩ 動物にあっては、感覚と行動とを結ぶ回路はより複雑高度になり、ひとつの意識へと発達してきます。
⑪ 人間の意識=観念は、その最高段階です。
⑫ それは18世紀フランス唯物論が理解したものとはまったく違うということをマルクスが鋭く指摘しました。
⑬ 意識は肝臓から胆汁が出てくるように脳から滲みだしてくるものではない。
⑭ それは主体と外界との関係性だ。それは単なる外界の反映ではない。
⑮ 意識は生きた主体であり、生きている。
⑯ それはもはや単に「機能」と呼んでふさわしいものではなくなりました。
⑰ しかし、なおかつそれは「物質的存在」に依拠しており、それなしでは成立できないものである以上、二元論の主張者としてのデカルトの役割は終わり、それがもはや「常識」を構成しなくなったことはやむを得ないでしょう。

3.  いまとりあえず、この2点が高原さんへの疑問です。それはつまり、高原さんの「存在論」がどうしても納得できないということです。ここが推論の出発点ですので、ここを納得させてもらえない限り、その続きを付いていくのはたいへん困難です。
4. 「生き方」に執着されていますが、「生き方」とはすなわち「説教」であり「宗教」です。「哲学」的文脈の中で論じることには違和感があります。簡単に言えば、「人の生き方はほっといてくれ」ということです。
5.  今回読ませていただいた部分は文章のみでしたが、ご本を全体的に見ると、図による表現が随所にある。ぼくの個人的な感覚ですが、これを工学系の表現法と感じてしまいます。それは文章にも感じるのです。パワーポイントを使ってのプレゼンテーションという感じが強い。何らかの型枠に当てはめて物事を分類し、かつ、つなぎ合わせて、ひとつの完成された構造体として説明しよう、という意図を強く感じます。即ち文章表現だけで現実の複雑さを表現しようとする努力が行われていません。
 ぼくは個人的にこういうものは受け入れがたいのです。
6.  どこかで、「経哲手稿」に触れておられましたね。どこにあったのか思い出せませんが、ぼくはそれを読んで、「発表する意図もない若い時代のノートが、論理の飛躍に充ちた不完全なメモに過ぎないことに、なぜ気づかないのだろう」と思ってしまいました。
 これはまた機会があれば今度書きます。
 今回の「未完成の哲学ノート」は出版されたのだから、「ノート」といっても、もちろん場合が違いますよね。
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126:管理人のみ閲覧できます by on 2020/01/20 at 12:13:43

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125:「コメントで触れた四版の改版がネットに載っている」 by 高原利生 on 2020/01/20 at 12:09:37 (コメント編集)

 コメントで触れている「未完成の哲学ノート (MyISBN - デザインエッグ社)」 四版は改版されていて、
http://www.ogjc.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2019Papers/Takahara-Papers2019/Takahara-Papers2018-19-200105.htm
から全文が読める。
 [50]が「永久に未完成の哲学ノート」第一部:人類史総括、哲学(世界観、方法)と人類の生き方提示。
 [51]が「永久に未完成の哲学ノート」第二部:ポスト資本主義への過渡期の提案。
 [54]がこの二年間に大きく進んだ点。石崎さんとのやりとりで進歩した点をまとめた。

 大きくは四版から大して変わっていない。
 高原の提案は、日本のリベラル、左派の考え方、態度、認識と行動の現状、の多くの面で正反対の内容になった。

85:「高原氏への若干の疑問」1までのコメント by 高原利生 on 2019/10/17 at 19:14:34 (コメント編集)

「事実、存在と関係」
「未完成の哲学ノート」四版の概要について、平松民平さんと数回やり取りし石崎さんにもCCで送りました。四版のp28-31などの短い断片も送りました。
まず石崎さんの1の頭の文です。「つまり」以降は前の文を補足説明しているので、その前の文も読まないと理解不能でしょう。
前の文は次のとおりです。平松さんの指摘で修正し、次はその修正後の文。(四版p8は修正前)
事実を、あるものの全て、すなわち客観的世界と人の観念に、ある 存在、関係(運動)の全体とする。
事実を、
 ・どこにあるかという点から客観的世界と人の観念の二つの「場所」にあるととらえること、
 ・要素の点から、存在、関係(運動)の二つととらえること、を述べています。
存在、関係(運動)は、存在と関係が独立している場合、存在であり運動である場合、存在と運動が相互転換する場合があります(四版にはまだ入ってない)。
以下、石崎さんの番号の順にコメントを述べます。
「未完成の哲学ノート」は、AMAZONにアクセスし、高原利生で検索すると本の表紙が出てきます。表紙をクリックすると説明が出ます。本屋に注文することもできます。

68:管理人のみ閲覧できます by on 2019/10/12 at 05:18:19

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67:「高原氏への若干の疑問」5 へのコメント by 高原利生 on 2019/10/12 at 05:12:17 (コメント編集)

「思考の枠組み」
思考は、本来複数の関連を扱う必要があるので、一直線の言語(四版p19-20)には向かない。
今回、資本論の優れた展開をされている平松民平さんから、出版予定の本の優れた共著原稿をいただきました。併せてアイディアや生活のコツの啓蒙資料をいただきました。図が素晴らしい。僕はパワーポイントが不得手なのであまり使っていないのですが、本当はもっと使いたいのです。
「何らかの型枠に当てはめて物事を分類し、かつ、つなぎ合わせて、ひとつの完成された構造体として説明しよう、という意図」(石崎)は価値を実現する思考ではそのとおりなのです。これは設計と同じ構造です。感想の断片を言うのではないのです。
全体構造、要素を作る枠組みは、事実と価値観によって変わり、扱う物事毎に時間をかけて今までと違う内容ができます。これらの全体の意味が機能です。これらを抜けの無いよう網羅的に正確に作ることを目指しています。他にどういう論理的思考があるのでしょうか?今回、論理学、世界観などをこのように作りました。感性、芸術は重要ですが本では扱っていません。

66:「高原氏への若干の疑問」4へのコメント by 高原利生 on 2019/10/12 at 05:09:24 (コメント編集)

「生き方」
哲学を、単に事実がどういうものであるかを把握する世界観と、事実を認識し働きかける論理(学)ととらえています。世界観が価値観を決め、論理(学)が方法を作り、さらにそれらが感じ方、態度、常識を作り生き方になります。それが認識、行動に直結します。これは全ての人に共通で、ほとんど「哲学の把握≒常識≒生き方」です(四版p9-10)。
「マルクス主義」の哲学は、唯物弁証法とか弁証法的唯物論でくくられ、世界観が唯物論、論理が弁証法です。世界観+論理が哲学という把握は正しいと思います。
石崎さんは前にも「生き方は説教、宗教だ。ほっておいてくれ」(宗教については四版p86,96,111等参照)と言われていました。
これは、「支配層が教育とマスメディアによって『正しい』常識、生き方を作り、人はそれに従う」ということはなく、各人が自立してバラバラに生きているのが『正しい』社会だ、という前提があれば成り立ち得ます。

64:「高原氏への若干の疑問」コメントまとめ by 高原利生 on 2019/10/11 at 19:04:21 (コメント編集)

「定義でなく,歴史の総括の発見仮説」
論理学や世界観の検討をするので、まず、事実を厳密にとらえる必要があった。
何かを説明するには、そのものの本質を述べそれの内容の論理的網羅を行うしかない。事実の他にも、多様であいまいな用語を、意味を限定して使っていることがある。限定と言っても、用語を「今までの意味の拡張になっている」ようにする一般化である。定義でなく発見の記述に近く仮説である。それが他から「分からない」と言われれば当然説明し納得してもらう。
それができないと、石崎さんの1や2に反論するように今までの論争に一々決着をつけるか(これは部分的に本でやっている)、石崎さんの「高原さんへの質問 言葉の定義について」のように、「現実というものはそんなに簡単に説明できるものでもなければ、断定できるものでもなく、定義づけられるものでもなく、名付けられるものでもない」というような壮絶無惨な美文になる。今は、現実を認識し変えるために、近似モデルの仮説を立てながら真実に近づき、変更を続けていかなければならない。この作業を各人が続ける必要のある時代である。そうさせない作られた常識を変えなければならない。

63:「高原氏への若干の疑問」6 へのコメント by 高原利生 on 2019/10/11 at 18:56:35 (コメント編集)

「未完のノート」
未完の「経哲手稿」(引用:四版p42,92,117,122)は論理的な文章の草稿で、思考が産まれつつある姿が分かります。
デカルトが中断した網羅思考の完成、マルクス(四版p45,84,95)が中断した対象化と一体化の統一、弁証法論理(の歴史や体系)の完成、パースが作れなかったabductionの完成、の三つが今回行った中心です。
「経哲手稿」「精神指導の規則」は未完のノートです。問題は意識されて始まり、論理の過程を経て結論が出る。「結論より論理、状態より過程が良い」というのが仮説です(四版p63,67,102,136)。求める過程に意味があること、未完のノートに意味があることは重なります。この説明が、マルクス、エンゲルスの「共産主義とは理想の状態でなくそれに向かって努力する運動」です(四版p37)。完成した本は思考の搾りかすです。
石崎さんのお説教、宗教(の三つの意味について四版p86)と言い提案を受け付けない生き方が信じがたい。
四版の最後の現実批判の章は最近のリベラル、左派批判が多いです。立憲君主制廃止なども提案しているので、皆から総スカンでしょう。

54:「高原氏への若干の疑問」3 へのコメント by 高原利生 on 2019/10/01 at 22:28:50 (コメント編集)

「事実とは何か」
事実は、ゼロベースでできるだけ単純に考えると「要素」の網羅;存在と関係(運動)、と「どこにあるかについて」の網羅で、網羅されるか?という大きな問題が残っています。他も全て未完です。そのため「未完成の哲学ノート」です。
事実を「どこにあるかについて」は、客観的事実と観念の中の像と分けるので、空間的には一つの客観的事実と主体の像が、お互いに含みあっている入れ子が主体の数毎にできます。
構造は扱う事実(オブジェクト)の要素と要素間の関係です。このオブジェクトはより大きなオブジェクトの要素です。入れ子という相手を含む構造や、再帰的に自分に戻ってくる表現は、事実がそういう構造をしているので当然出てきます。入れ子は重要な構造です。(四版p47-49等)
結果的に、事実についてだけは「新実在論」と同じようなものになりました。マルクス・ガブリエルはポストモダンの「旗手」の一人とされます。中島新さんの、マルクスガブリエルの解説が国際哲学研究5号 2016 に載っており、ネットで読めます。10ページちょっとです。こっちなら同じことが1文ですむよ、ということです。

52:「高原氏への若干の疑問」2へのコメント by 高原利生 on 2019/10/01 at 13:23:59 (コメント編集)

「高原『未完成の哲学』の内容」
何かをするやり方に過去や現在のものの修正とゼロベースで作る二つがある。
論理学、世界観、常識をゼロベースで考え直すことが高原の目的です。幸いなことに、それができつつある。退職以来本を読まない主義にしたこと、デカルト、マルクス、パースが求めて達成できなかったことを求めたことと、歴史と論理の一致(レーニン)(四版p37,73,77,123)があるからだろうと思います。
過去の哲学の欠点はあるので、物質と観念の関係はお送りした(四版p28-31 9月17日)で整理し直しました。今回マルクスの評価もしました(四版p95)。
扱う全体は、事実→(事実から扱うものを切り取った)オブジェクト→論理学と世界観→生き方→現実批判⇔認識と行動の順になるので事実が最初にきます。
今回の「本」は、論理学(後に宇宙論理学も)、世界観、生き方、現実批判を順にそれぞれを30ページずつで書こうとしました。高原の「未完成の哲学ノート」でほぼ全体像が作れました。前書き(四版p18)に意図が書いてあります。

51:工学的表現について by 平松民平 on 2019/10/01 at 05:00:32 (コメント編集)

「文章表現だけで現実の複雑さを表現しようとする努力が行われていません」
私はここに半分納得、半分違和感があります。
*自己の感性フィルターでろ過、加工した文表現を他者と共有する場合、フィルターを透明にして論理を伝えたい場合、文字的表現か工学的表現か、は表現する対象、目的次第と思う。
*論理関係を説明したい場合、例えば接続詞で繋げられるのは、隣接文の間の、1次元上での関係だけですが、現実世界は隣接の間の関係、直線的関係に還元できない、2,3次元的な広がりを持っている。
これを文的な言語で正確に表現すると多量な文字と複雑な接続詞を要する。
*例えば、資本論などは図で表現すればスッキリ把握できる事柄を数ページ以上の文で語っている。
価値、剰余価値、価値形態論の難解さの半分はここからきているのではないか。
*例えば、多層的な事柄の説明に、隣接層間だけの説明では全体の中での各層の論理的位置づけなど、を文で表現するのは長文を要する。
*図に限らないですが、文字言語による表現は万能性はあります、図形も、文字による表現は可能で「縦3cm横2cmの濃い青色の四角」と説明することもできるでしょうから。

50:「高原氏への若干の疑問」201909 1までのコメント by 高原利生 on 2019/09/30 at 19:31:27 (コメント編集)

「事実と存在の関係」
「未完成の哲学ノート」四版(以下単に四版)の10ページのダイジェストである概要について、平松民平さんと数回やり取りし、石崎徹さんにもその都度CCで送りました。四版のp28-31などの短い断片も送りました。
まず1の頭の文です。「つまり」以降は前の文を補足説明しているので、その前の文も読まないと理解不能でしょう。
前の文は次のとおりです。平松さんの指摘で修正し、次はその修正後の文。(四版p8は修正前)
事実を、あるものの全て、すなわち客観的世界と人の観念に、ある 存在、関係(運動)の全体とする。
事実を、
どこにあるかという点から客観的世界と人の観念の二つの「場所」にあるととらえること、
要素の点から、存在、関係(運動)の二つととらえること
を述べています。
存在、関係(運動)は、二つの存在が関係する場合、存在であり運動である場合、存在と運動が相互転換する場合があります(四版にはない)。
以下1-6の順に述べます。
本は、AMAZONにアクセスし、高原利生で検索すると本の表紙が出てきます。表紙のクリックで説明が出ます。本屋に注文すること可。

49: by 高原利生 on 2019/09/20 at 08:23:27 (コメント編集)

旅に出られるそうなのでとりあえず二点だけ

・まず事実について
事実を、あるものの全て、すなわち客観的世界と人の観念に、ある存在、関係(運動)の全体とする。
存在を「固定的にとらえられる実在の もの と固定的観念」とした上で、事実を、1.存在、2.関係(=運動)、の二つととらえ、かつ事実を1.客観的事実と2.人などの観念の中の像とする。

・「未完成の哲学ノート」はAMAZONで高原利生を検索すると出てきます。AMAZONで買うか、本屋に注文してください。

「未完成の哲学ノート(2019年2月): 矛盾モデル,根源的網羅思考と世界観、生き方とポスト資本主義 (MyISBN - デザインエッグ社)
高原利生 |

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