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「かもめ」再読

 自分の戯曲がわからなくなったので、「かもめ」を読んだ。「かもめ」は若いころ何度も読んで、舞台も3度か4度見ているが、今回何十年ぶりかで読み直した。
 新しい発見がいくつもあった。
 まず、短いのでびっくりした。舞台というのは映画と違ってリアルタイムで進行するので当然だが、一幕が一日の中の数十分の出来ごとである。一幕、二幕、三幕と、二週間くらいの間のとびとび三日間のそれぞれ数十分を描いて、さてこれから物語が始まる、と思ったら、四幕まで二年間がふっとび、もう終わりである。波乱万丈の二年間は、四幕でトレープレフのセリフのなかで語られるだけ。劇は舞台裏で起こっている。舞台では何も起こらない。
 にもかかわらず、われわれの記憶の中でこの劇がとても長く豊かなものとして存在するのはなぜだろう。
 それはつまり、この作品が読者あるいは観客の空想力を強く刺激して、それぞれの読者=観客の心のなかに、各々その人なりの豊かな世界を作りあげるからではないか。
 と、一口に言っても、作品の何が我々をしてそうさせるのかということはとても一口には言えない。
 ほかにも諸々の発見があったのだが、少し戯曲そのものに踏み込むなかで指摘していくとしよう。

 人物は以下である。
 ソーリン=60歳。司法省に28年在職して、四等官で退職、いまは田舎の領地に退いている。独身。
 アルカージナ=その妹。43歳。女優。トリゴーリンと深い仲。
 トレープレフ=アルカージナの息子。25歳。ソーリンと同居。ニーナに恋。
 シャムラーエフ=ソーリン家の領地の管理人。
 ポリーナ=その妻。ドールンに恋。
 マーシャ=その娘。22歳。トレープレフに恋。
 メドヴェージェンコ=教師。マーシャに求婚。
 ドールン=産科医。55歳。独身。近隣のご婦人方と人生を満喫してきたと思われている。
 トリゴーリン=小説家。独身。40にまだ間があるが、すでに有名人。
 ニーナ=近隣の地主の娘。20歳。亡くなった母親の遺産を父親に奪われ、父親は再婚。トリゴーリンに恋。

 メドヴェージェンコはマーシャに求婚し、マーシャはトレープレフへの報われぬ恋に苦悶し、トレープレフはニーナに恋い焦がれ、ニーナはトリゴーリンにのぼせあがる。そのトリゴーリンはアルカージナと深い関係にある。
 ドールンが「恋だらけだ」と述懐するが、そのとおりで、これは何角関係になるのだろう。さらにその上に、ポリーナはドールンに言い寄っている。
 このなかで事態を比較的冷静に客観的に見ているドールンが、いわば視点人物的=狂言まわし的人物としての位置にある。産科医として地域のご婦人方と常に密接な関係にあって、人生を十分に楽しんだ人と思われている。確かに達観した風情ではあるが、本人にも言い分はある。
 さて、近隣といい地域というが、日本の基準でとらえると間違う。ソーリン家は湖に面しており、お隣さんというのはその湖のあちらこちらに散在している。馬車がなければ行き来できない距離である。メドヴェージェンコはしょっちゅうソーリン家に入り浸っているが、彼の家も6キロ離れている。
 以上はいまさらの発見ではないが、若い頃には端役としか思っていなかった一人一人が今回存在感を持って迫ってきた。
 それとともにこの濃密な人間関係というのは現代日本では描きにくいなという感じがある。だいたい今の日本人は恋をするのか。と、思うのはぼくがいま若い人と交流がないせいかもしれないのだが。

 そういうなかで、特に目に付いたのは、金銭問題がいたる場面に顔を出し、具体的な金額でもって語られていること。
 冒頭からメドヴェージェンコの愚痴で始まる。

メドヴェージェンコ 「なぜです?(考えこんで)わからんですなあ。……あなたは健康だし、お父さんにしたって金持ちじゃないまでも、暮しに不自由はないし。僕なんか、あなたに比べたら、ずっと生活は辛いですよ。月に二十三ルーブリしか貰ってないのに、そのなかから、退職積立金を天引きされるんですからね。それだって僕は、喪服なんか着ませんぜ」
 これはいつも黒い服を着ている陰気なマーシャを責めている場面。物語はここから始まり、この教師はずっと自分たち教師の生活は苦しいという不満ばかりを述べ続ける。
 三幕でトレープレフの自殺未遂のあと、ソーリンがアルカージナに「あの子は一文無しで着たきり雀じゃないか。外套を作ってやって外国にでも行かせてやったらどうか」と言うと、アルカージナは「わたし、お金がありません」と二度までもきっぱりと言いきる。そのソーリンはと言えば、「わたしの恩給は、のこらず支配人が取りあげおって、農作だ牧畜だ蜜蜂だと使いまわす。そこでわたしの金は、元も子もなくなっちまう。蜂は死ぬ、牛もくたばる」という状況。ちなみにロシアの地主の土地というのはこれも日本の基準では考えられない。「桜の園」の農園の広さは千代田区くらいだという。千代田区と言ってもぼくはぴんと来ないが、ともかくソーリンの土地だって、おそらく村ひとつを呑み込むくらいの広さはあるのだろう。その地主に金がない。「桜の園」も元農奴に土地を取り上げられてしまうお話だったが、ロシアの貴族社会が崩壊していく過程を反映しているのだろう。
 さて、ドールンは豊かな老後だろうか。
 第四幕。メドヴェージェンコとマーシャは結婚して赤ちゃんが生まれている。
メドヴェージェンコ 「僕のところは、今じゃ六人家族でしてね(たぶん両親と弟か妹が同居している)。ところが粉は一プード七十コペイカもするんで」
ドールン 「そこでキリキリ舞いになる」
メドヴェージェンコ 「あなたは笑っていればいいでしょう。お金のうなっている人はね」
ドールン 「お金が? 開業して以来三十年、いいかね君、しかも昼も夜も自分が自分のものでない、落ちつかぬ生活をしてきて、蓄めた金がやっと二千だぜ。それもこのあいだ、外国旅行で使ってしまった。僕は一文なしさ」
 まるで貧乏くらべをしているような内容である。全編そういう調子である。しかも具体的な金額が出てくる。百年も前のロシアの貨幣単位だからわからないのだけれど、おそらくそういう具体的な金額は当時の観客を納得させる額なのだろう。
 今回これも強く印象に残った。

 あと、ぼくがトリゴーリンのセリフとして記憶していた「芝居は現実でも駄目、夢でも駄目、夢と現実との間にあるのが芝居です」というセリフはなかった。かわりにトレープレフのセリフにあった。
ニーナ 「あなたの戯曲、なんだか演りにくいわ。生きた人間がいないんだもの」
トレープレフ 「生きた人間か! 人生を描くには、あるがままでもいけない、かくあるべき姿でもいけない。自由な空想にあらわれる形でなくちゃ」
 トレープレフの作品は生きた人間が描けていないとして最後まで批判されるが、このセリフは間違っていない。ただ、正しいことを言うのとそれが書けるかどうかは別問題だ。
 そして、「かもめ」はまさに生きた人間を描くことができた作品である。

 最後にもうひとつ。
 以前「かもめ」を読み直した娘が「トレープレフってまったく印象がなかったけど、主役だったのね」と言った。彼女はニーナだけを追いかけて読んだのだろう。ぼくも最初はニーナにそれほど関心がなく、トレープレフの悲劇だけに入れこんで読んだ。読み直すうちにニーナの存在が大きくなった。
 今回は登場人物すべてが心を打った。そういう作品だ。
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