FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
無名人
新潟の同姓同名はまったくの他人
以上

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

森鴎外「阿部一族」

 10年ほど前に、「世間体」に関する本を2冊読んだ。
 1冊は、日本の古い文学から近世の文学までずっとたどって、日本人にとっての世間体の位置を文学を通して象っていこうとする試みであり、この著者の専門がドイツ文学だったかドイツ中世史だったかのが、意外だった。もう1冊は、日本の農村生活をルポして、日本人にとって世間体がいかに重要なものであるかを具体的に見るというところから出発していた。これは終わりまで読めてない。
 どちらも興味深かったのだが、日本の研究だけでは、それが日本に特有な現象なのだと結論付けるには足りないような気がした。著者の論旨に反対だというのではない。むしろ同じような考えを持っていて、それを確認するために読んだのだが、確認しきれないという印象を受けた。
 今回、「阿部一族」を読んで衝撃だったのは、この小説の全ページを、「世間体」が埋め尽くしていたからだ。
 これは、「世間体」に乗っ取られたような小説である。ここには「世間体」以外のものは何もない。日本という国はここまで「世間体」に支配された国だったのか。
 先にあげた著者が「阿部一族」に言及していたかどうかは記憶にない。しかし、いずれにせよ、解説や引用を読むことと、直接読むということは全然違う。自分が何も読めていないということを思い知らされた。
 日本人論として、昔から気になっていた「菊と刀」も結局買ってさえいない。新渡戸稲造の「武士道」は、いま見たら50ページで中断している。
 幕末生まれのキリスト教徒新渡戸の執筆動機は、日本にはキリスト教がないのに、なぜ日本人は道徳的なのかと問われてその解答を武士道に求めたことからだ。カリフォルニアでの病気療養中の38歳、英語で書いて諸国語に翻訳された。日清戦争の直後である。岩波文庫版は矢内原忠雄の日本語訳。これも冒頭しか読んでいないのでこれ以上何も言えないが、いま「阿部一族」を読み終えてみると、「武士道」とは「世間体」のことだったのか、という思いを制しきれない。

 徳川家光の時代である。島原の乱からほど遠からぬ時期。細川忠利が死ぬ。肥後熊本城主である。忠利から特に目を掛けられていた者たちが殉死する。18名に及んだ。
 まずこのことに驚いた。殉死は古墳時代の話だと思っていた。埴輪を身代わりに埋めることで殉死の風習はなくなったのだと思っていた。ぼくの歴史認識たるやその程度のものなのだ。
 ところで、殉死には当の死にゆく人のお許しが必要である。許可なく殉死すれば主命に背くことになる。だが、主君のそば近く仕えた人は殉死のお願いをして当然であると「世間」が考えているので、たとい嫌でもお願いせねばならない。お願いしなければ、主君の死後どういう目にあうかわからない。主君の傍に仕えるということは、主君とともに死ぬということが決定づけられている。
 そこで鴎外は忠利になりかわって、忠利の心の中を書く(これをやられるとぼくなんかは、ああ、古い小説だ、と思ってしまうのだが、実際古い小説なんだから仕方がない)。
 忠利はこう考える。「この忠実な家来に死んでほしくはない。生きてわが子の治世を助けてほしい。だが、自分が死んでしまえば、『世間』がそれを許さないだろう。殉死の許可を与えないということは、この者にとっては残酷な未来を与えることになってしまう」
 忠利がそう考えたかどうかは誰にも分からない。わからないことを作者は書かなくてよいのだが、昔の小説は書くのだ。
 こうして18名は殿の許可をもらって殉死した。その18人の遺族はみな手厚く報いられた。ところが一人、許可をもらえなかった男がいた。阿部弥一右衛門通信、1100石である。早くから忠利のそば近く仕え、島原の乱制圧でも手柄を立て、息子たちともどもそれなりの報奨に与っていた。当然殉死するものと誰もが思い、本人もずっと許可を求め続けた。だが忠利は許可しない。
 なぜ許可しないのか。ここから先はたぶん作者の創作であろうが、ここはよく出来た創作である。
 ただ、作者はここに至るまでに、殉死した18人ひとりひとりについて詳述している。その先祖、出仕に至る経過、石高、後継者、殉死の許可を得るいきさつ、切腹した場所、それにまつわる話、介錯人、じつに事細かで、詳しい。それなりに資料は残っていたのだろう。いま読むと少し煩わしくも感じるのだが、それがあるので、その先は創作部分だろうと思いながらもかなり自然に読んでいける。
 なぜ許可しないのか。
 阿部弥一右衛門は出来過ぎた人間であった。命じられなくても先々へと仕事をこなす。それがみな当を得ている。当を得ているので叱れない。叱れないが、癪である。同輩からは敬して遠ざけられる。誰とも親密になれない。そういう人間で、忠利にとっても煙たい存在であった。で、許可しなかった。と、作者は書いている。たぶん創作だと思うが、そういう不幸な人間はいそうな感じで、納得感がある。
 許可なく殉死すれば主命違背である。死にたいが、許してもらえない。だからやむなく生き残った。
 さて、「世間」はそれを許さない。命が惜しいのだろうと噂する。城中では人々は目を合わせないようにして、陰で噂している。その噂が耳に漏れ聞こえてくる。ついにそれに耐えきれず、「誰が命が惜しいものか、見てみよ」とばかりに、切腹して果てた。息子たちは、内心むしろほっとする。これで「世間」も収まるだろうと考える。
 ところが、「世間」は収まらない。なおも騒ぎ立てる。阿部は主命に背いた。あの切腹は自己勝手な切腹である、と。切腹しなければしないと言って責め、すればしたと言って責める。どうあっても「世間」というやつは批判せねば気が済まないのだ。やがて、殉死者の遺族たちへの対応が決定される。18名の遺族に対しては手厚い報奨がなされた。だが、阿部家へは違った。1100石は当然長男権兵衛が継承すべきだが、大勢いる弟たちに分割された。兄弟を合わせればもらう石高に違いはない。だが、1100石の名門の一族という誉れはなくなってしまう。阿部家の当主権兵衛は、弟たちと同じ小身に過ぎなくなった。
 忠利の一周忌に問題が勃発する。阿部の当主権兵衛は、焼香したあと、小刀を抜いて自分の髷を切り、その場に置いて立ち去ろうとする。ただちに捕縛され、縛り首となる。切腹なら、武士の面目は守られる。縛り首はもっとも侮蔑的な刑罰である。
 阿部一族は本家に結集して立てこもる。子供たちは先に自分たちで殺し、女たちは自殺する。男たちは武装して一矢まみえんと待ち構える。
 ここから先は討伐隊の描写になる。攻め込んだ人々について、また詳しく一人ずつ紹介する。誰が先陣を切り、誰が誰を殺し、誰に殺され、誰は臆病だったとか、その後の報奨まで記している。

 さて、鴎外が書いたとおりを要約したが、じつはかなり異論があるらしい。
 この本の種本は、阿部の隣人だった柄本又七郎の「阿部茶事談」である。そして、松本清張が次のように言っているのだそうだ。
「この本は柄本の本を現代語に翻訳しただけで、森鴎外の考えは少しも入っていない。それなのに国文学者たちは森の思想について云々している」らしい。
「らしい」としか言えない。ネット情報で、確認していないから。
 そしてさらにネットは次のように言う。
 殉死の許可を出すのは、死にゆく主君ではなくて、跡を継いだ主君である。そして、跡を継いだ光尚は「殉死はまかりならん」と言って禁止していた。にもかかわらず19名が殉死したが、阿部も他の18名と同じ日に切腹しており、「命が惜しいらしい」と噂される余地がない。1100石を分割したというが、実際には一時的に末子に分けたが、すぐに元に戻されている。阿部家の長男権兵衛が髷を切って縛り首になったのは事実だが、その原因は小説とは異なるのではないか。
 そこで推測として書かれているのは、島原の乱後、細川家の財政はひっ迫した。それを背景にした藩政上の不満が原因ではないかと。
「阿部茶事談」の著者柄本又七郎は阿部家の隣人で、弥一右衛門の次男弥五兵衛(縛り首になった権兵衛の弟)とは特に親しくしていた。だが、いざ討ち入りのときになると、あらかじめ切っておいた境の柵から一番乗りして、弥五兵衛と槍合わせをして打ち取った。そういう事情のもとで書いている。
 親しく冗談を言い合う仲であったが、追討の主命が下った以上はそれに従う。日ごろどちらがより上手な槍の使い手かと冗談を言い合っていたので、それを試すチャンスである。正々堂々と戦って親友を他人の手に渡さなかった。自分の手で死なせてやり、加えて一番乗りの手柄ともなった。
 と、ここに書いたとおりではないが、そういう趣旨の書き方をしている。そういう手柄話なのだ。だが、松本清張の言うように森鴎外が柄本の文脈を変えていないとすれば、柄本としては阿部一族を悪者としては書きたくなかった。あくまでもその事情に同情する内容で書いたということになろう。相手が引き立つほど自分も引き立つ。正邪の問題ではないのだ。武士の名分の問題なのだ。
 小説が事実と違っているのが、柄本のせいなのか、鴎外のせいなのかはおくとして、ネットが指摘したような大きな違いがあるのだとしたら、「世間体」の問題も少し考えなおさねばならなくなる。
 余談になるが、武士が命を懸けて戦うのは、報奨目当てである。戦国時代には、戦って勝てば、領地が増えた。だが日本中の土地がすでに分けられてしまい、これ以上分けようのない時代に起こった島原の乱では、武士は戦い損である。命を懸けたが、もらえる土地がない。細川家は出費だけかさんで、もらえるものがなく、戦った者たちにやるものがない。
 経済というものは現状維持というわけにはいかない。武士の家には大勢の子供たちがいる。武士の数は増え続けるが、与えるものは増えない。そこでいろんな問題が起きてくる。当然の帰結だろう。阿部一族問題も、そういうことがからんでいるらしい。
 それが事実だとしたら、それはそれでよい。だが、小説は残る。小説が事実と違っていても、そういう小説が書かれたという事実は残る。しかもそれが森鴎外の考えではなく、徳川家光の時代の一人の武士の考えで書かれたのだとしたら、その時代の武士の考え方を反映している。
 ほんとうは「阿部茶事談」を読んで確認すべきだが、とりあえずは、書かれたことが、柄本の考えだろうが鴎外の考えだろうが、やはりそこに日本的なものの考え方が反映されているという事実は残る。

 ヨーロッパにはキリスト教があるので、ヨーロッパ人にとって道徳の問題とは、神と人との一対一の問題である。ところがキリスト教的な絶対神を持たない日本人にとっては道徳とは「世間体」である、ということは広く言われている。ぼくが読んだ2冊の本が書いていたのもそういうことだ。ただほんとうにそうなのかという確信が持てなかった。「武士道」を読もうとしたのもそのせいである。それが読めていないままなので、すぐには断定しかねるとしても、「阿部一族」を読んだ感想としては、「武士道とは世間体のことだったのか」という思いが強い。
 事実がどうであったかは別にして、この小説の登場人物たちの行動原理は一から十まで「人にどう思われるか」ということなのである。「なにが正義なのか」という思考方法はみじんもない。ただ他人の思惑だけを気にしている。
 われわれも人生の途上で、日常的にそういう言葉を浴びせられてきた。いわく、
「人に笑われるようなことはするな」
「後ろ指を差されるようなことはするな」
「世間に申し訳が立たない」
「世間が許さない」
 太宰治は、「世間が許さない」と言われたときに、「世間とは誰のことか。おまえのことじゃないか。おまえが許さないのじゃないか」と言ったが、「阿部一族」の登場人物たちは、一人として「世間」を疑おうとしない。
 もっとも、ラストに来て全滅覚悟の反攻に立ち上がった阿部一族は「世間」の理不尽さに対して抗議をしているようにも受け取れる。
 おそらく国文学者たちが問題にしたのはその点なのだろう。そこに森鴎外の思想があるのかないのか、松本清張は、ない、と考えたのだろう。
 作品全体のイメージから言えば、森鴎外が「武士道」を批判して書いたと見ることは難しい。むしろ「武士道」そのものを書いた。阿部一族が死を覚悟して戦うのも「武士道」であり、それもまた「世間」がこういう場合に期待することなのだ。結果的に鴎外の書いた「武士道」は「世間体」と同じものだった。そのことに気づいていたかどうか不明だが、少なくともそこに批判の意図は読みとれない。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す