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秋吉知弘「まんまんちゃん」(19年度民主文学新人賞)

1. こなれた文章、よどみなく読める。
2. 大げさなフレーズや持ってまわった言いまわしがない。素直に書いている。日本語の使い方が的確である。
3. それでいて、うつの症状が自然に読みとれる。
4. ストーリーの進展につれて、登場人物を一人ずつ丁寧に描写している。過不足がない。

 と思って、22ページまで読んできたら、23ページでいきなり文調が変わった。(ここはあえて文体と言わず、文調と言わせてもらう)

 舞台は大阪西成の療養型病院。老人を対象にした施設のようだ。主人公は一年前からそこで介護的業務に従事している40歳近い男性。アルバイトである。うつの症状が長く続いていて、心身に限界がある。数年前に結婚し、もうすぐ2歳になる子供がいる。
 前半の10ページは、職場、保育園、家庭のあいだを動きまわりながら、対人関係の劣等感をかかえて、自分に対しても他人に対しても極度に緊張し苛立つ主人公、とりわけ、音に対して苛立つ場面など、さりげない書きかたでありながら、秀逸なものを感じさせた。特に音の使い方は、ラストで音がなごやかに変わることも含めて、うまい。
 ところが23ページで登場した人物が作品の雰囲気をがらりと変えてしまう。
 橋本功、80歳。食堂の入口に60歳の看護師長が毎日違う花を生ける花瓶の横で、<いつも同じ場所でこの時間に><車椅子に乗って新聞を広げている> 極端に無口で何を聞かれても<忘れたな>としか言わない。(17~18ページ)
 こうして前半部分ですでに登場した無口で目立たない橋本さんなのだが、23ページ以後、突然おしゃべりに変身する。独演である。ここから主人公が交替する感じ。
 その内容は子供のときの長崎での被爆体験、そこで祖母を見殺しにするしかなかった記憶である。
 その陳述は十分読ませる力を持っているのだが、話の展開が唐突だ。22ページまでの10ページにわたる前半部分で<私>を通して展開されてきた小説世界が、いきなり違う世界へ飛んでいく感じである。その10ページは<私>によって綴られていきながら、抑制された筆使いで、<私>の姿が客観的に読者に伝わってきて、高い文学性を感じさせた。
 ところが、23ページから、まず橋本の長広舌、そのあと、橋本と<私>の対話、そして家庭生活の描写(ここはすぐれている)を混ぜながらの妻との対話、橋本の死、看護師長との対話と続く。
 ここでふたつの疑問が浮かぶ。
1. <私>の<うつ>は、結局この小説の主要モチーフではなかったのか。後半でそれがすっかり消滅してしまうので、はぐらかされたような感じがしてしまう。前半と後半とのバランスがとれていない。二つに分断されている。
2. 橋本の演説はなぜ唐突だと感じるか。
① たしかに作者は伏線を張ってはいる。次の部分がそうである。
 <患者は高齢者ばかりなので、認知症の症状で出来事の記憶をなくしてしまう人はいる。しかしそうした場合、行為そのものの記憶がなく「知らない」や「そんなことしてない」と答えることが多いが、橋本さんの場合は明らかに答えを拒否しているように感じられた>(18ページ)
 ここで読者は橋本さんについてある程度は身構える。だがあれほどの独壇場を予想はできない。
 もちろん作者はしばしば読者を上手にだます。上手にだまされると読者もなるほどと思う。しかしこの場合はたぶん成功していない。拙いだましかただ。
 というのは上記引用部分が、単に言葉だからだ。<私>の受けた印象を書いたに過ぎない。<私>をそう感じさせた橋本の態度をこそ描写せねばならなかった。そのようにして読者にヒントを与えつつ、<私>自体はむしろだまされたままでいるのが、いっそう小説的であろう。
 <答えを拒否しているように感じられた> なぜ感じたのか。
 つまり、橋本を<私>の言葉で説明するのではなく、読者の目の前に描き出さねばならなかった。後半で主人公を演じる人物なのだから、もっとちゃんと描いておくべきだった。
② 橋本の演説を聴く人々が描かれていない。
 橋本のセリフが宙に浮いている。その場所には、老人たちがおり、看護士や介護士がおり、そして<私>がいる。
 これはひとつのシーンなのだ。その場にいる人々は橋本の演説を聴くために集まっているのではない。場違いな場で橋本が唐突にしゃべり始め、当然戸惑いがある。人々のその反応を書けていない。聴衆が唐突だと感じている表情を書けていないから、読者が彼らになりかわって唐突だと感じてしまうのである。聴衆の表情が書けていれば、橋本の演説がいかに唐突であっても読者は納得する。
 映画なら、カメラが演説者から聴衆のほうに移動して、その表情を写しとるところである。映像がないのだから、それを文章で書かねばならない。
③ ラストで<私>の家庭で夫婦がこのテーマを語り合う場面は、ありきたりだ。この夫婦でなければ語りあえない内容とはなっていない。

 いいものをいっぱい持っている作品である。前半は特に文学的だし、家庭生活の描写など、全編通してとてもいい。<私>が不慣れな家事と育児にてんてこまいする姿、食事の準備なども念入りに書かれていて、生活感を充分に出している。こういう部分を手抜きしないのがほんとうの作家だ。
 ただちょっと、子供の描き方である。よい場面もたくさんあるのだが、二歳にならない子のおしゃべりがなんとなくそれらしくない。もちろん、歩いたり、しゃべったりには個人差が激しい。しかし、その個人差も含めて、読者を納得させる描き方がいるのではないか。
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