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日本共産党への質問状

 5年前に書いた文章を公表する。たった5年だが、いま読み返すとかなり未熟で、現在の見解と食い違う点も多い。だが基調は変わらない。これを公表しようと思ったのは、近頃書いた「共産党論」が不調に終わったことへの欲求不満をひきずっているせいで文学への切り替えがうまくできないでいるからだ。
 最初からあんなもの書かねばよかったと思うが、公表してしまった以上もう遅い。これ以上政治に時間をとられないために、過去の文章を公表して終わりにしようというわけである。
 これを書いたのは、20年以上も前に離党届を出しているぼくのところへ、石井ひとみさんが訪ねてきてまだ受理していないと言ったので、復党できない理由をまとめてみようと試みたのである。そういう趣旨の文章である。
 この文章だけではぼく自身納得できない気がして、続けてこの数倍書き、いずれも県党に渡した。それをすべて公表するかどうかはまた考えたい。
 長い文章なのでたぶん誰も読まないだろう。それはそれでぼくの心の区切りがつけばいい。
 一部、個人的活動経過を述べた個所がある。自分の未熟さと無能さを白状したような文章で、この部分だけは削除したいと思ったが、それも現実の一端として残した。いいかっこをする気はない。一人の無能な元党員の告白録だ。


         日本共産党への質問状
                             石崎 徹

    まえがき

 日本共産党に対する僕の疑問を、口頭で説明し、僕の抱いているイメージのとおりに受けとってもらうことに、久しい間、大きな困難を感じてきた。
 まず第一に、それは僕の口下手のせいである。
 だが、一方、それが永い間、イメージのままで、論理化されることなしに過ぎてきた、という事情もある。僕はまだこのイメージを、まともな形で、人に語ったこともなければ、文章化したこともない。
その上に、もうひとつの理由がある。
 それは、僕の疑問が、ひとつひとつ、ばらばらのものとしては、何の意味も持ちえず、相互に密接にからみあった総体として、初めてそれなりの意味を有するものであるにもかかわらず、もし僕が口頭でこれを説明しようとすれば、まずどれかひとつの疑問から始めざるを得ず、ところが始めたとたんに、その疑問は個別の疑問として受けとめられ、それに対するあらかじめ用意された回答が、僕の予期したとおりの形で提示され、こうして、個別のものとして受けとめられた疑問と、その用意された回答とが続いていくうちに、疑問はますます、ばらばらにされてしまい、時間は無意味に過ぎ去っていき、それらの複雑なからまりあいと、そのからまりあいの中から浮かび上がってくるはずの総体とは、それが提示されるべき時間的余裕も失い、そして、これらの時間的経過のうちに、完全に無意味化されてしまうに違いないという恐れを禁じえないからである。
 したがって、ここに、(どこまでできるか心もとないが)、僕の抱いているイメージをできるだけ文章化してみよう。文章の利点とは、文脈のつながり具合を途中で妨害されることなく、最後まで貫徹することができ、しかるのち、とりあえずの総体的イメージをもって、語られたひとつひとつをふりかえって吟味しなおすことができるという点である。
 始めるにあたって、ひとつ断っておかねばならないのは、僕が永年、日本共産党の見解や活動にほとんど触れずにきたせいで、僕の共産党理解のいくつかが、すでに古いかもしれない、という点である。その点に関しては個別に修正していただきたい。ただ、僕の浅薄な見聞の範囲内で言わせてもらうなら、総体としての日本共産党の姿は、昔とあまり変わっていない、というのが僕の印象である。

  Ⅰ ソ連の体制について

 1、ソ連の崩壊とその評価、その他

 どこから始めても同じことだが、とりあえず、どこかから始めねばならない。
 綱領第三章第八節「指導部が誤った道を進んだ結果」という部分をとっかかりとしよう。(「新しい道をめざして」13ページ)
 ここで語られているのは、その結果形成されたところの「ソ連覇権主義という巨悪」の「崩壊」であり、この崩壊は、「世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」
 この点に関する限り、僕の認識は日本共産党と一致する。にもかかわらず僕が疑問を持つのは、この崩壊が、基本的にはソ連国民の潜在的願望と、それを体現した反体制的知識人たち(サハロフ、ソルジェニチン、メドベージェフ兄弟ら)の批判や抵抗を背景にしたものであるとはいえ、この崩壊を、誰も予測し得なかったほど、こんなにも早く、こんなにも平和な秩序のうちに成功させた最大の功労者が、ゴルバチョフとエリツィンであったことは明白であるのに、日本共産党の彼らへの評価があまりにも低いことである。
 これはロシア革命に匹敵するだけの偉大な革命であった。彼らがいなければ、事態はもっと永びき、どれほど大きな犠牲と混乱とをともなったか知れない。時は熟していたとはいえ、権力者と、それに群がる利権集団は、自らの特権をやすやすと手放すものではなく、また彼らの影響下にあるところの国民の意識変革は簡単なことではない。最高権力の座に上りつめたゴルバチョフが、上から始めた改革が、やがて彼の思惑をも乗り越えて、エリツィンの手で、いささか乱暴な形で決着を見たが、全体的に見て、これほど大きな変化を、これほどスムーズに成し遂げえたことは、驚くべきことである。
 にもかかわらず、日本共産党は、ゴルバチョフとエリツィンとを評価しない。
 そればかりか、ゴルバチョフの、あのすでに名前さえ思い出せない前任者(チェルネンコといったか? 確信がない)を高く持ち上げて見せた。すでに腐っていた体制を永びかせようとしただけのあの無能な人物を、である。
 エリツィンが最高会議ビルを砲撃して決着させた、あのクーデター騒ぎのとき、(あの首謀者の名前ももはや思い出せないが、ロシア最高会議議長であったか)、上田耕一郎は、「彼が多少まともな役割を果たしうる人物ではないかと期待していたが、期待はずれだった」と正直に述べた。
 当時の日本共産党幹部の歴史おんちぶり、情報不足ぶりはかくの如しだ。僕だってそんな期待は持たなかった。
 ルーマニアのチャウシェスクに対する評価だってそうだ。ルーマニアが、ソ連にも中国にも追随しない自主独立路線だという、ただその一点だけで、彼を持ち上げてみせた、あの見識のなさ。
 いまふたたび、チャベスを持ち上げてみせたりする、あまりに軽々しい評価の仕方に、過去を繰り返さねばよいが、という懸念を感じざるを得ない。
 しかし、ここで語ったことは、言ってみればことのついでであり、おまけのようなことがらである。もっと決定的に大事な問題がここにはある。
「指導部が誤った道を進んだ結果」という個所がそれである。

 2、ロシア革命

 ここでの真の問題は、「なぜ、一般党員は誤った道を進んだ指導部を追放できなかったのか」そして、「なぜ国民はそのような党に権力を与えたのか」という形で提出されねばならない。ここには、この党の組織体系の危うさがはっきり現れているし、そのような組織に権力を委ねたロシア社会の前近代性がはっきりと現れている。
 現在の日本共産党の組織体系と非常によく似たところのあるこの組織体系の、具体的な内容にわたる批判は後述するとしよう。
 当時のソ連における独裁体制が、共産党の言うように組織原則の乱暴な蹂躙というよりも、むしろ蹂躙されやすい組織体系の必然であるというべきであるという点についても、そのときに述べよう。
 ここで何よりも明白なことは、あの組織体系も、その党に権力をゆだねたという現実も、当時のロシアの社会状況の、きわめて適切な反映であったろうということである。
 ことは百年近い昔の話であり、しかもほとんどヨーロッパとはいえないような辺境で起こったことがらである。農奴制大地主制度の下で、大地主=貴族の権益を背景とするツァーが、その官僚機構を使って独裁支配していた社会状況の下で、貴族と一部中間層のヨーロッパ的教養と、圧倒的国民の文盲状態との格差はすさまじいものであり、当時の日本の庶民の状況と比べてさえ、はるかに遅れた社会であったといえよう。このような社会のもとで権力の座についたボルシェビキが、民主的な組織でなかったといって批判することは馬鹿げたことだ。社会はまだ民主主義を成立させうるだけ成熟してはいなかった。ツァーの独裁に変わる別の独裁、社会を一歩前進させる独裁が要求されていたのであり、それにふさわしい組織としてスターリンの組織、そして、この組織を率いるにふさわしい人物としてスターリンが、歴史によって選ばれたというべきだろう。
 当時のロシアの状況は、旧権益層が各地で反革命軍を率いており、また世界中の強国がこのただ一国をつぶすために、軍を動員して襲いかかるという、この絶体絶命の状況の下で、一国の主権を守る他のどんな方法がありえただろう。
 この中で多くの悲劇が起こり、たくさんの人が死んだ。だからといって、ロシア革命が起こらねばよかったということにはならない。後れて来た大国が、社会を一歩前進させるための、かなりの程度にやむを得ざる選択であったろうと思われる。
 またロシア革命の世界史的評価という点で言うならば、僕の評価は日本共産党のそれと、だいたい一致する。ロシア革命は、労働者の政権を樹立させることはできなかったが、革命の当事者でさえ、自分たちは労働者を代表していると錯覚するほどに、マルクス主義的、社会主義的衣を重厚にまとっていたために、それは世界の労働者、社会主義者を励まし、資本主義権力の側に、資本主義的改良を迫るきわめて有効な圧力となったのである。
 その点で、ロシア革命はフランス革命と大変似かよっているといってよい。
 しかしそのことが逆に世界の社会主義運動にひずみをもたらしてきたのも事実だし、また反社会主義の宣伝にも大きな役割を果たしたのだった。
 第二次世界大戦について、ファシズムの形成過程について、ここで経過をたどる余裕も能力もない。ただ結果的にソ連はこの戦いで重要な一翼を担った、とだけ述べておこう。
 
 3、戦後資本主義とソ連の役割

 戦後の世界史にソ連が果たした役割について、まだ誰も正当な評価を与えていないように思われる。冷戦は、資本主義先進国がいままでのように勝手気ままに世界を分割支配するわけにはいかない状況を生み出した。第一次大戦後、敗戦国ドイツに、天文学的と呼ばれた賠償金を課した戦勝国は、第二次大戦後には、ほとんど一人勝ちしたアメリカの巨大な生産力でもって、敵味方問わずヨーロッパとアジアの復興に乗り出した。新たに現れたソ連、そして「社会主義」という共通の敵に対して、もはや資本主義国どうしが争ってはいられない状況が生まれたのである。
 資本主義は、ただ自分一個の利益のためにのみ行動するために、必然的に全体の利益を損ない、まわりまわって、自分一個の利益さえ台無しにしてしまう。コストダウン競争―賃下げ競争―需要の減退―市場の収縮―不況―企業収益の減退―資本収益の減退という構造である。資本家は、この構造が分かっていても、資本家どうしの競争のために、この構造から逃れられない。だが、ソ連の登場は、資本家を目覚めさせた。わがまま放題やっていたのでは、社会主義にすべて食われてしまって元も子も失うという危機感が、他国の経済の復興、社会主義的政策の導入、そして植民地の解放といった方向へと彼らを向かわせる要因の大きなひとつとなる。それらはつまり、この大きな流れの中で、労働者や、被植民地住民の主体的な運動が励まされた、という意味を含めて、そうなのである。
 ここでは戦後資本主義史を展開するだけの余裕はないので、かなり単純化した表現をしたが、コストダウンのもうひとつの側面、機械化や新たな生産システムの発明による生産性の向上といった要素(これは重要な要素で、後にこの問題を取り上げることになると思うが)、といった面を考慮しても、なおかつ需要という要素は決定的な要素であり、そして、この需要は、いうならば社会主義が生み出した。ソ連の登場と、それに多大の影響を受けた、労働運動、社会主義運動の活発化、植民地の戦い、そして資本家側の譲歩が、第二次大戦後において、資本主義経済を救い、これを飛躍的に発展させたところの、片面の、欠くべからざる要素となったのである。
 ここにはまた、後に検討してみるべき、面白いテーマが横たわっている。社会主義運動は資本主義の救世主であり、社会主義運動が進むほど、資本主義は発達する、という逆説が成立しうる可能性という問題である。

 4、ソ連社会主義とは何か

 ソ連社会主義とは何だったのか。一般に言葉というものは、社会的慣用によって意味づけされるものであるから、あれは社会主義ではない、と言ってみたところで何の意味もない。西側世界と違う体制がそこに生まれ、本人たちがそれを社会主義であると言い、外の世界の人々も、右から左まで、それが社会主義であると主張していた時代がある。いろんな意味で使われたこの言葉に厳密な定義づけをしようとする試みは、迷路に入り込む危険がある。しかしとりあえず物事を分かりやすくするためには、とりあえずという限定の上で、一定の分類をやってみる必要はある。
 一般に、ソ連の体制は、国家社会主義であると呼ばれてきた。ヒットラーの党ナチは、国家社会主義党の略であるが、確かに似たところもあるし、またヒットラーの体制よりは、そう名づけるにふさわしい社会だともいえよう。生産手段が、社会的所有にならずに、国家所有になってしまった、にもかかわらず、これを社会的所有であると強弁し、人々に信じこませてきた。この国家の権力装置である共産党は、最初から最後まで、人民の意思を体現した党ではなかった。この党の性格については後述したいが、党官僚が権力を握る体制という意味で、官僚社会主義とも呼ばれてきた。
 だが、我々は一歩踏み込んで、この体制をエンゲルスの分類に当てはめてみよう。「空想から科学へ」のなかで、エンゲルスはさまざまな共産主義の分類を行っている。その中に封建的共産主義というのがある。一般に、マルクス、エンゲルスは、誰が権力を握るかということを重視し、封建勢力が権力を握って、上から実行する共産主義は、資本主義以前の古い体制への逆行であって、反動である、と定義していた。資本主義に対する批判者として現れた、マルクス、エンゲルスは、実は資本主義の歴史的価値の肯定的評価者であって、これを評価しようとしない種々の社会主義に対する批判者でもあった。国家社会主義の権力的性格を認識するには、この封建的共産主義、ないし社会主義という分類はふさわしいといえるだろう。
 だが、もう一歩進もう。国家社会主義は、国家資本主義とどう違うのか。もちろんさまざまな違いはある。一般に日本の戦前の資本主義に似たもの、あるいは戦後、ヨーロッパおよび日本の植民地から独立した東アジア、東南アジアの諸国がとった、開発独裁と呼ばれる体制が、この分類に入る。資本家の経済的活動は、外資の活動も含めて、大幅な自由を認められているが、国家は軍事力でもってその上に超越し、政治的自由は決して認めない、という体制である。
 この体制は、後れて来た国が、急速に資本主義経済を発展させようとするときに、いわばやむを得ず採らざるを得なかった体制であるといえよう。この体制は国民を無慈悲に弾圧し、虐殺した。しかし、振り返れば、ヨーロッパとアメリカにおいても、初期資本主義の時代から、戦後の一定時期までも、同様のことは行われてきた。ただ先進国は、植民地を持つことが可能であったので、そこからの過酷な収奪で、一歩先んじることができたのに対し、遅れてきた国々は自国民から収奪するしかなかったこと、そして、先進国がすでに過去のこととすることのできたことに対し、現在のこととして、先進国との比較でその非民主性を批判されねばならなかった。
 こうしてみると、国家資本主義ないし開発独裁と呼ばれるものと、国家社会主義ないし封建的社会主義と呼ばれるものとの間には、かなり原則的な、あるいは歴史的な近似性があるというべきである。
 ここで、いったんソ連の問題を離れよう。ただし、この問題を論じる中で、宿題として残した部分が、日本共産党のあり方を論じるさいに重要な意味を持ってくる。本来はそちらを主として論じるつもりであったが、その歴史的背景としてのソ連のおかれた位置を示す必要から、思いがけず、この章が長くなってしまった。後述するとして残した部分、ソ連共産党の組織体系や、ソ連共産党の性格という問題は、別の問題を論じる中で言及することになるかもしれないし、また別個の項目として一章を設けることになるかもしれない。

  Ⅱ 中国について

 中国について、綱領は次のように述べる。
「資本主義から離脱したいくつかの国々で」「社会主義をめざす新しい探求が開始され」「二十一世紀の世界史の重要な流れの一つになろうとしている」(「新しい日本をめざして」14ページ)
 この部分は僕の歴史観とまったく正反対である。すでに述べてきた文脈の続きとして述べるならば、中国はいま国家社会主義から、国家資本主義へと移行する段階にある、と言うことができる。
 確かに綱領は慎重に言葉を選んでいる。中国は社会主義国ではなく、「資本主義から離脱した国」である。そして「社会主義をめざす新しい探求が開始され」ている国である……云々云々。
 しかしながら、ここで述べられているのは、中国の指導者たちの主観的願望であるに過ぎない。「社会主義をめざす新しい探求」は、現実の社会形態として「探求」されているわけではなく、一部研究者たちが、頭の中で、「探求」しているだけである。「資本主義から離脱」とは、どのような経済的社会的関係のことを指して言っているのか、まったく明らかではない。「二十一世紀の」「重要な流れの一つになろうとしている」のは、中国の経済的地位とそれに必然的に付随する政治的影響力であって、何らかの新しい社会、経済形態が、そこに生まれようとしているわけではない。
 非常にはっきりしているのは、中国がいま、経済的にも、社会的にも、そして政治的にも、かつて開発独裁と呼ばれた東アジア、東南アジアの国々と瓜二つであるということである。違っているのは、国家権力を握っているのが、社会主義を標榜する党の官僚であるという点だけである。そしてこの点で、中国はソ連の国家社会主義にも似ている。いわば国家社会主義と国家資本主義との混合体であるといってよい。それは確かに今までになかった試みであるかもしれないが、後進国が資本主義経済を確立するための方策の一つとして生み出されたものに過ぎず、資本主義以後の体制として人類史に何らかの貢献をするような意味での新しい体制では決してない。
 この国では、国民は依然として無権利状態に置かれている。法はいま世界の法を参考としつつ全人代が急ピッチで作成を進めてはいる。その努力は多とする。だが法を守りうる社会状態にない。地元ボス=党官僚が、好き勝手に法を蹂躙し、人民は、中央に訴えるか、暴動を起こすしか手がない。中央が彼らの訴えを聞くも聞かぬも、大岡越前守さまの御心次第というありさま。そして暴動は武力で抑えられ、人権活動家たちは牢獄につながれる。
 これはつまり、封建的社会主義と呼ばれるものであって、資本主義以前の体制なのである。資本主義のあとに来る新しい体制などではない。
 しかし、ここでもう一度振り返るならば、先に述べたように、ヨーロッパ、アメリカにおいても、その資本主義体制の初期にあっては、権力が銃で人民を虐殺することは当たり前に行われていたことなのであって、戦後においてさえ、国内での赤狩りや、あるいは植民地での虐殺、そしていまに至るも、イラク、アフガンでの虐殺行為が続いており、一般に後進国における人権状態について、先進国国民が発言する際には、それなりの歴史への理解が必要である。

  Ⅲ 資本主義と「自由と民主主義」

 1、資本主義生産力の発展

 綱領はこう述べる。「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった」(「新しい日本をめざして」13ページ)
 これも僕の歴史認識とは相容れない。
 一九一七年はまだ資本主義の黎明期に過ぎず、その後の九〇年間で資本主義は飛躍的な発展を遂げ、それとともに、その社会的政治的形態をも大きく変えてきた。
 また、さすがに綱領では触れていないが、「資本主義の限界」ということがさかんに言われる。綱領では、「ルールなき資本主義」から、「ルールある経済社会」とのみうたわれ、社会主義はまだ先の話としてしか展望されていないにもかかわらず、ここに資本主義の限界という話が出てくるのは変な話である。
 マルクスの時代には、資本主義はまだ始まったばかりであったといってよい。それは西ヨーロッパのごくせまい地域の話で、世界同時革命といっても、せいぜいその範囲の話であった。
 彼の資本主義分析は卓越していたが、前に述べたように、社会主義運動の発展、そして綱領にも掲げる、ロシア革命の結果、資本主義は変貌し始めた。資本の最大利潤を求める資本主義は、いかに安く作って、いかに大量に売るかを最大目標とする。コストダウン、すなわち賃下げと、機械化と、生産システムの改良、新しい商品の開発、そして市場の獲得をめぐって、資本家たちは競争を繰り広げる。植民地ははじめ市場の獲得をめざしたものだが、同時にそれは新しい商品の獲得や、生産効率化のための資源の獲得、そしてやがては、安価な労働力の獲得へと動いていく。
 一方、この競争は、必然的に労働者の教育水準の向上、いわゆる中間層の発生をともなわざるを得ない。この中間層は新たな需要の担い手ともなり、また政治的社会的発言力をも強めていく。アメリカは奴隷解放の後、未熟な労働者をより効率的に労働システムに取り入れるための、ベルトコンベアーによる大量生産システムを開発し、工業製品のコストダウンの実現、大量輸送機械の普及、こうして、資本主義の生産力が飛躍的に巨大化する一方、圧倒的な低賃金労働者を前にして市場は行き詰まり、戦争へと突入するわけだが、第一次大戦と第二次大戦のあいだ、労働運動、社会主義運動の高まり、中間層の出現といった要因から、マルクスがブルジョワ民主主義と呼んだものが、その定義を乗り越え始めた。
 これは大事な点だと思う。ここでは経済的な変化と社会的政治的変化とを並行して述べているので趣旨が分かりにくいかもしれないが、もともとこれらは結びつかざるを得ない。生産力の増大は、生産関係を変え、社会システムを変え、政治を変える。マルクスの言ったとおりのことが、資本主義の枠内で起こったといってよい。もちろんこれは社会主義運動の成果であり、ロシア革命の成果である。
 第二次大戦後は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの、植民地、半植民地の解放、独立によって、また先に述べたように、冷戦と、さまざまな社会的運動との高揚によって、また一方では新しい技術やシステムの開発によって、資本主義はさらに未曾有の発展を遂げる。もはやそれはマルクスの時代の西ヨーロッパだけのせまい地域の話ではなくなり、世界的な資本主義の時代に突入する。この先鞭をつけたのが日本であり、続いて、ニーズとかニクスとか呼ばれた東アジアの国と地域、すなわち香港、韓国、台湾、そして、東南アジアから、シンガポール、マレーシア、タイが続く。
 そしてさらに、中国、インド、ブラジル、ロシアのブリクスと呼ばれる巨大国家がここに参入してくる。
 この勢いは今後、中南米全体から、東南アジア、南アジア、西アジア、そしてイスラム諸国から、アフリカまで、文字通り地球的規模で拡がっていくだろう。
 つまり、資本主義は、いまも、さまざまな矛盾を抱えながら、あるいはそれを克服し、あるいは新たな矛盾を生み出しながら、次々と巨大に発展していきつつあるシステムなのであって、限界を迎えているシステムではない。
 ここで繰り返し言っておきたいのは、このシステムの発展を支えているのが、さまざまな社会運動、とりわけ社会主義的な諸運動そのものなのであるということである。

 2、自由と民主主義

 ここいらから、そろそろ、本題に入ってくる。
 前の章ですでにふれたように、資本主義の巨大な生産力は、社会を変化させ、政治を変化させる。もはやブルジョワ民主主義は、その名前を乗り越える。マルクスの時代には確かにそれはブルジョワ独裁と同義語であった。ブルジョワが、前の時代の王権や、封建諸勢力の支配から逃れ、また、自分たちの競争が、あまりにも無秩序となって自滅してしまわないために、さまざまな法と政治の制度を作り上げ、これをあたかも全国民を代表している制度であるかのように見せかけ、これによって、労働者を縛り付け、自分たちの利益を追求していくための制度であった。
 しかし、永い歴史的過程を経て、少なくとも先進資本主義国と呼ばれる国の国内においては、民主主義はすでにブルジョワだけのものではなくなっている。これらの国々にあっては、政府はもはや一般国民の世論を無視したり、法を乱暴に蹂躙し、人権を勝手気ままに侵害したりすることは困難になってきている。
 ここでは権力は多元化してきている。資産家がおり、経営者たちがおり、彼らと結びついた政治家たちがいる。ところがこの政治家たちは選挙の洗礼を受けねばならないので、有権者たちの世論を無視できない。そして広範な中間層、成熟した市民社会が、権力に対し、法に従うことを強制する。そこには、新聞や、各種メディア、出版、法律家、学者、いわゆる文化人、労働組合や、さまざまな市民運動、法を気ままに無視はできない官僚層、そして政党と、選挙によって選ばれる議員たちがいる。
 この、相当程度に成熟した民主主義は、もはや、簡単には後戻りできない。しかし、ここで明確にしておかねばならないことがある。それはこの民主主義は資本主義の属性ではないということである。現に資本主義は永い間、こういった水準の民主主義とは無縁であったし、いまもなお、こういった水準に達している国は、資本主義国家のごく一部に過ぎず、世界の大部分を占める国々(資本主義を名乗ろうが、社会主義を名乗ろうが、実態は資本主義なのだが)は、まだ前近代的な、半封建的な、水準にとどまっている。
 遅れた経済のもとで、民主主義を云々すること自体が、むなしい。民主主義が、多数者による統治を意味する以上、統治する能力を持つ多数者が生まれること、社会の生産力が、その水準に達することを必須条件とせざるを得ない。しかしまたその生産力を資本主義は自ら生み出すことができない。需要の壁が、資本主義経済にとって、常に桎梏となる。この需要の壁を打ち破るのは、その社会の社会主義運動、少なくとも社会主義的な運動なのだ。
 この章で述べたかったことは、日本社会の民主主義の成熟度がすでにかなり高度なものに達しているということであり、このことは日本で政治活動しようとする政党の組織形態はどのようなものであらねばならないかという、この論考のそもそもの本テーマへと直結していく問題なのであるが、そこへ行く前に解決しておくべきいくつかの課題を先に取り上げたいと思う。

  Ⅳ 現代資本主義のいくつかの問題
 
 1、イラク、アフガン、そしてイスラエル
 
資本主義はいまや全地球規模の体制となった。そして、共産党の言うところのルールなき資本主義が問題となっている。
 常に無秩序に利益を求めていくのは、資本主義のまさに属性といってよいだろう。
 この点では第一にアメリカの産軍複合体のまさに無秩序な利潤追求が世界の平和を脅かし続けているという問題がある。独立戦争以後、アメリカが自国を他国によって攻撃されたのは、真珠湾だけであった。この点、三千名近い犠牲を出した9.11が、アメリカ国民に与えた衝撃は分かる。だが、いわゆる反テロ戦争が、むしろテロ奨励戦争になってしまったのは明らかで、ただ、それ以後七年間、本国は攻撃されていないということを成果と宣伝して、すでにテロの犠牲者を越える兵士の死者を出したばかりか、アメリカと同盟軍が殺した無実の人々の数は膨大なものに上がっている。この戦争はイラクとアフガンを混乱させ、さらにパキスタンをも巻き込もうとしている。この戦争で得をしたのはアメリカの軍需産業と、石油産業である。
 このテロの根源にあるのはイスラム社会のキリスト教社会と比較しての全体的貧しさと、アラブ産油国の独裁王政に象徴されるアラブ社会全体の独裁体制、それを後押ししているのがアメリカであるという事実、そしてそこに骨のように突き刺さるイスラエルによる絶え間ない殺人行為がある。
 そもそもこのテロの実行犯は、サウジアラビア人とエジプト人を主体としていて、いずれも中間層に生まれて、ドイツに留学し、ヨーロッパと自国との経済格差、社会格差を見聞し、自国の閉塞状況の根源としての独裁体制、そしてこれを支えているアメリカの力をそがねば、自国の社会状況を変革することはできないという、彼らなりのやむにやまれぬ思い、そして、イスラエルの殺人行為とこれまたこれを可能にしているアメリカのイスラエル支援という事実とへの怒りが、職業的テロリストともいうべきビン・ラディンに利用された結果の行為である。
 かつてアメリカは自国では民主主義を標榜しながら、世界中の独裁国家を支援し、革命が起こるとクーデターを起こさせて、これを阻止し、何万人も虐殺し、かくてそれらの国におけるアメリカ資本の利権を守り抜いてきた。だがベトナムでの敗北後、この路線はかなり行きづまった。あたかも後進国が経済的に力をつけ、民主主義への要求が高まる時期と一致して、韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、タイ、そして中南米各国で軍事独裁政権が倒れ、新しい道を歩み始めた。それはまたアメリカの経済的利益が、もはや古い支配体制と相容れなくなってきた結果でもあった。
 だがアラブでは、国王による独裁体制が依然としてアメリカの石油利権を守る砦である。
 そしてイスラエルは、アラブに打ち込んだ楔であって、またアメリカ国内のユダヤ票を失わないためにも譲れない一線なのだ。
 このアメリカ資本の戦争路線は、世界の平和への一義的な脅威であり、まず解決されねばならない問題であろう。

 2、グローバル資本主義 

 資本主義が世界を覆った結果、先進資本主義国の内部に深刻な問題が生じている。産業空洞化である。
 かつてイギリスの繊維産業の機械化は世界の市場を席巻し、ためにインドの繊維産業はつぶれてしまった。これがガンジーのインド独立運動の原動力となった。すなわち衣類はインドで作るよりもイギリスで作ったほうが安かったのである。これは等価交換が成立していた時代、労働の価値がどの国でも同じで、機械化に成功したところが安くなるという時代の話である。いまや生活必需品の価格と、それに連動してくる賃金とは、先進国と後進国とで大きな格差が生じ、後進国の労働生産性がたとえ先進国より低くても、賃金の圧倒的格差によって、先進国に勝ってしまうという状況が生まれた。しかもそこに外資が進出して最新式の生産システムを立ち上げる。こうして先進国労働者は自ら賃下げに甘んずるか、さもなくば失業するという憂き目にあう。
 また税の問題がある。この間先進国は所得税の累進率を下げ、金持ちを優遇するとともに、法人所得税も大幅に下げてきた。その分は消費税と、年金、福祉、医療、教育、その他もろもろのサービスに関する予算の削減によってまかなうことになる。この政策の根拠として彼らがあげるのは、法人と金持ちの税金を下げなければ、法人と金持ちとが国外に逃げてしまう、あるいは資産を国外に移してしまうということである。
 もちろんこれは彼らが贅沢な生活を維持したいがための論でもあるのだが、事実彼らはそれを実行に移している。
 こうして、資本主義の抱える問題は、もはや国内だけでは解決できないところに来ている。
 資本家たちは国民に対しては、やれ天皇だ、靖国だ、愛国心だ、道徳教育だというくせに、彼ら自身そんなものはとっくに捨て去ってしまっている。儲かればいいのだ。贅沢な暮らしができればいいのだ。そのためには彼らは国境をやすやすと越える。
 こういった政策が実行され始めたのは、サッチャーからレーガンを通して、日本では中曽根に始まり小泉竹中によって完成されるわけだが、そもそもの始まりは、日本が製品輸出国として台頭したことにあった。戦後しばらくの間、日本製品は安かろう悪かろうといわれ、安いが品質が悪いので、ヨーロッパ、アメリカでは勝負にならず、アジアと中南米をおもな輸出先としていたが、高度成長期を通して急速に品質の面でも追いつき追い越し、こうして、福祉社会を築きつつあったヨーロッパを墜落させ、イギリス病と呼ばれた中でサッチャーが国民生活を日本なみに引き下げることによって競争力を回復しようとした。回りまわって日本の番が来たのだ。中国の圧倒的に安い賃金の前に日本経済はおぼれかけている。
 長い目で見れば、後進国が成長し、需要が拡大すれば、世界経済全体がよくなる。だが、いまを生きるわれわれはそんな悠長なことは言ってられない。それに、コスト切下げ競争は、後進国にとっても、国内需要に貢献しない。
 いまや、「万国の労働者団結せよ」という標語が生き返るときなのだ。資本家の競争に労働者が飲み込まれてしまっては、需要はいよいよ落ち込み、経済はまわらなくなり、資本家にとってさえ、いい結果にはならない。だが、資本家はそれが分かっていても競争から逃れられない。これを打破するのは労働者が国際的に団結して賃上げを勝ち取ることしかないのだ。
 政治は、どの党が政権の座につくかといったことによってではなく、現実の力関係によってしか動いていかないだろう。この点、労働者の組織が壊滅状態にある日本の現状は、非常にお寒い限りだといえる。

  Ⅴ ソ連、中国の共産党について

 不破哲三は、その北京訪問記の中で、次のように述べる。
「いま中国には六千五百万をこえる党員がいると聞いたが、これは本当に大きな力だ。もしこの人たちが、それぞれ二十人の国民の心をとらえる活動をしたとすれば、算術計算だが、その影響は十三億の中国国民全体に広がるじゃないか」(「北京の5日間」48ページ)
 ここには不破哲三の、あまりにも大きな、情報の欠落、歴史への無知、その思考方法の根本的欠陥が、いかにも如実に表現されていて、ちょっと背筋が寒くなる思いがする。
 六千五百万の党員とは何か。その一部は地方ボスである。彼らは、その地の利益を代表したりもするが、往々にして、その地の特権階級の利権の守り手であり、そして何よりも自分自身と、家族、親族の利権の守護者である。地方において人民の正当な不満を弾圧するのはいつも彼らだ。また一部は野心に満ちた企業家たちである。彼らは中国資本主義の発展に寄与する重要な存在ではあるが、党に所属するのは便宜のためであって、いかなる理想のためでもない。また違う種類の野心家たちもいる。党組織を利用して出世の機会をうかがう輩だ。彼らは時には地方ボスを利用し、時には彼らを批判して見せるが、それはすべてより中央に近いところへと自分の地位を上げていきたいからだ。これらとは別の普通の大部分の党員たちは、上から下までのあらゆる段階で、選ばれたものとしての種々の務め(上から与えられる責務と、下から期待される役割)との間でバランスを取りながら、何とか人よりは少しましな生活をしようとしている。もちろん理想家たちもいる。古くさいマルクス主義者もいれば、毛沢東主義者も、そして党は変わらねばならないと考えているものも、多少はいるだろう。
 要するに日本における自民党とその後援会だと思ったら、当たらずといえども遠からずである。
 日本の自民党は、確かに金を企業と資産家から得ているが、票は有権者から獲得せねばならないので、票を集めてくれる利権集団のために働き、また選挙区の要望に無関心ではいられない。
 いわゆる社会主義国の政権党の党員たちが果たしているのも、似たような役割だといってよい。
 スターリン時代のソ連にはたった百万の党員しかいなかった、と不破哲三は言う。それがソ連の変質の重要な一因だと、彼はいう。それはスターリン時代の話だ。ソ連社会主義が成熟したブレジネフの時代には、いまの中国と同じように社会のすみずみに党員がいて、それぞれの集団のそれぞれのレベルのリーダーとして、上の方針を下に下ろし、下の不満を取り上げて、上に訴えるという役割を果たしていた。これが、さまざまな欠陥にもかかわらず、あの体制が半世紀以上にわたって続きえた重要な一因なのだ。
 だが、個別の不満を個別に大岡越前守さまに訴えるようなやり方で、社会が変わるわけではない。それはガス抜きに過ぎず、民主主義は機能していますというプロパガンダに過ぎない。
 必要なのは、これらの不満が個別の駆け込みや投書のような形ではなく、全国的に組織され、組織的に調整され、理論的な裏づけを与えられ、確固とした組織的な力として登場することだ。日本ではそのために野党があり、また種々の運動体がある。しかし事実上結社の自由もなく、労働組合さえ存在しないと同然のかの国では、不満は暴力的な暴動の形でしか表現されえないのだ。
 不破哲三のものの考え方の致命的な欠陥は、結局のところ党員を上意下達の手段としてしか考えていないことであり、異論は一つ一つ個別に説得すればよい、取り入れるべきものは取り入れればよい、だが、異論が党内で組織化され、組織的に調整され、理論的な裏づけを与えられ、確固とした組織的な力として登場するならば、すなわちそれは分派だ、党を破壊するもとだ。そのような活動をやりたいのなら、日本には結社の自由があるのだから、党の外にもうひとつの党を作りなさい、ということなのだろう。
 このような党が量的に圧倒的な力で一国を支配するというのは恐ろしいことである。大岡越前流のやり方でしか異論を訴える場所がない国家。すなわち封建国家だ。それゆえソ連は崩壊し、それとともにソ連共産党も崩壊した。それは共産党流の組織のあり方が、新しいロシアの社会で支持されなかったからだ。
 中国はきわどい、いくつものほころびを見せながら、いまのところ何とかやっている。圧倒的な後進地域を抱えるこの大国で、民主主義の担い手たちが育ってくるには、まだ時期が熟していない。経済はまだ紆余曲折を重ねるだろうし、成熟したといえるのがいつになるのか、それまでいまの体制がもって、うまく軟着陸するのか、それともそれ以前に爆発してばらばらになってしまうのか、まったく予断を許さない。ともかくも、この国の体制が危ない綱渡りであるのは確かである。

  Ⅵ 日本共産党の組織形態

 本論に入る。
 言いたいことは、いままでに書いてきた内容から推察されるとおり、日本共産党の組織形態のありようについてである。この問題をひととおり述べ終わった後に、党の運動のあり方や、政治戦略の問題、そして、政策に関する若干の異論、そして、最後に、社会主義とは何かという問題について、もう一度検討してみたいと思う。
 結論から言うと、日本共産党の組織形態は、すでに時代遅れである。それは非合法時代の組織形態であって、民主主義のいまの日本のレベルの、国民の感覚から決定的にずれている。
 そしてそれが、総体的な政策や活動の優秀さにもかかわらず、共産党がどうしても伸びることのできない、一番大きな要因となっている。
 共産党は常に種々の反共攻撃を口実にする。ソ連の崩壊や、天安門事件を口実にする。そういう口実で正当化している限り、この党に将来はない。なぜなら、反共攻撃がなくなる日は永遠に来ないからであり、それはもし党が大きくなれば、なればなっただけ激しくなるのは眼に見えており、それに負けない組織と運動とを国民の眼に示さない限り、党はいつでもまた後退を始める。

 1、民主集中制

 日本共産党の組織形態は次のようになっている。
 
委員長――常任幹部会員――幹部会員――中央委員――――――党大会代議員
  書記局長――――書記局員         都道府県委員―――都道府県党会議代議員
                          地区委員―――――地区党会議代議員
                             支部委員―――――支部総会          
     
 一般党員が属するのは支部であり、各支部は自分たちの中から、地区党会議の代議員を選挙する。地区党会議は各支部から集まった代議員によって構成され、地区委員と、都道府県党会議の代議員を選挙する。この代議員たちが、都道府県党会議の場で、都道府県委員と党大会代議員を選挙する。
 こうして何段階もの選挙を経て集まってきた代議員たちによって党大会が開かれる。党大会は、中央委員を選挙する。中央委員は、幹部会員と、委員長と、書記局長とを選ぶ。幹部会員は、常任幹部会員と書記局員とを選ぶ。
 日常の中央党務は、常任幹部会の指導のもとに、書記局が行い、地方の党務は、都道府県委員会、地区委員会が行う。
 なるほど選挙の体裁は整っている。しかし、すべて間接選挙である。そしてこれが曲者なのだ。
 代議員選挙は立候補して、選挙運動をして、多数を獲得する努力をした後に行うわけではない。選挙運動期間というものはない。一日からせいぜい数日の会議の期間に、推薦を求め、資格が審査され、選挙が行われる。ばらばらの支部から集まった代議員たちは、どの代議員が、上部党会議の代議員として、自分たちの意見を代表してくれるか、ほとんど知る機会がない。自分の推薦した候補の見解を広めることもできない。
党員は、党の会議で、どんな意見でも述べることができ、意見の違いを理由に排除されることはない。つまり、自分の所属する会議の場でであって、よその支部や、よその地区へ出て行って、多数派工作ができるわけではない。
 彼らが選挙し、選挙される、各レベルの代議員も党委員も、定数が厳密に決まっているわけではない。投票は各候補者についてそれぞれ行われるのであって、信任が多ければとおり、不信任が多ければ落ちる。決して信任の多寡を競うものではなく、多寡によっては決まらない。
 その結果どうなるか。異論を持った代議員が党大会まで選挙を勝ちあがってくるということはほとんど不可能か、たとえあってもごくわずかということになる。
 ここでの問題点を整理する。
① 党員が党首、党幹部を選ぶ選挙、および党大会代議員を選ぶ選挙は、いずれも何段階もの間接選挙であ る。
② 選挙期間も選挙運動もない。
③ 委員長、書記局長以外には定数がなく、投票の多寡を競うのでなく、個別の信任投票である。
④ 自らの属する党会議の外で、異論を述べることは許されない。
 最後のひとつには例外がある。党員は党の機関に対しては意見を述べることができる。つまり、大岡越前 守だ。
 これが民主集中制と呼ばれる共産党独特の組織であり、スターリンの組織も、ブレジネフの組織も、そしていまの中国共産党の組織も、例外なく採っている組織であり、百年変わらない組織なのだ。
 非合法の時代、共産党員であるというだけで、投獄され、殺された時代、権力のスパイが入りこみ、党を壊滅させようとした時代、反革命勢力との内乱状態であったり、他国の干渉戦争下にあった時代には、これはやむをえない組織形態でもあれば、理想的な組織でもあった。その時代にはこの組織の原則はもっと厳しいものだった。
 だが、いまの日本では、このような組織はもはや機能しない。

 2、組織のあり方に関する、弁証法的考察

 どのような組織が停滞し、どんな組織なら、前進しうるかという観点に立って、考えてみよう。
 外の世界が激しい変化にさらされているとき、この変化に対応できない組織は衰退する。だが、組織というものは一度出来上がると、そこには保守的な力が働き、外の世界とのギャップを敏感に感じ取って、組織の改革を指向するのは、まず少数者から始まる。すなわち正に対する反である。この反が生まれてこないような組織は遠からず壊滅する。組織の優劣は、この反が組織内で縦横に活躍できる場を持っているかどうかによって決まる。
 ひとつの国家というものを考えてみれば、強力な独裁下にある国家は、その独裁が、その国家の発展段階に適合していた間は力を発揮しただろうが、ある段階に達すると、それはもはや国家の生産力にとっての桎梏となり、永い停滞に陥るか、さもなくば、そこに何らかの反勢力が生まれて、これを打ち砕く。
 反対勢力というのは、最初は常に小さい力だ。民主主義がうまく機能していれば、この小さな力がやがて世論の支持を得て、多数者になる。そのためには野党が制約なく活動できる社会でなければならない。
 党という組織にとっても、この原理は同じことである。
 異論を持つのは最初は少数者だ。この少数者に活躍の場がない組織は、少数者が自らあきらめて離党することによって、ますます異論の存在しない党になり、いずれ滅ぶ。少数者に活動の場を与えねばならない。少数者が党内で、人々を説得し、党内世論の支持を得て多数者になる道を作ってやらねばならない。
 僕がここで言っているのは、党内分派を認めなさいということなのだ。あらゆる意見が、政策に関し、運動論に関し、国際問題に関し、あるいは、将来の社会形態に関し、どのような場所でも闊達に述べられ、述べられるだけでなく、賛同者を募って、あらゆる説得活動をし、こうした複数の意見を集めた連合体としての党に変身すること、これなくして共産党の未来はない。

 3、民主集中制のどこが問題か

 いま分かりやすくするために、ひとつの地区に10の支部、それぞれの支部に10人の党員がいるとしよう。この10人の中には一人ずつ中央の方針に反対するものがいる。つまり、支部の中にも、地区全体にも、1割の反対者がいる。今この各支部から、地区党会議代議員をそれぞれ一人ずつ選ぶとする。9対1であるから、常識的に考えれば、どの支部からも反対者は選ばれない。地区党会議に集まった10人は、いずれも中央支持派である。
 だがある支部に説得力を持った反対派と、賛同する支部員たちがいて、一人だけ反対派が選ばれてきたとしよう。すなわち地区党会議においての勢力分布は9対1である。このような地区が県内に10あるとしよう。そして選挙の結果10人の県党会議代議員が選ばれる。これも常識的には中央支持派で固められる。
 だがここでも例外があったとしよう。ひとつの地区が反対派を選んだ。県党会議でも9対1になった。仮に県の数を10として、党大会代議員を10人とすれば、これも中央支持派で固まるのが普通である。
 しかし、ひとつの県は反対派を選んだとしよう。党大会でも、やはり9対1になった。
 党大会は党内世論を確実に反映した。
 しかし本当にそうであろうか。
 党大会に一人の反対派がいるためには、ひとつの県に6人の反対派がいなければならない。一つの県に6人の反対派がいるためには、6つの地区にそれぞれ6人、合計36人の反対派がいなければならない。そのためには、36の支部に、合計、216人の反対派を必要とする。一方、残る784の支部に、それぞれ4人の反対派がいたとしても、この3136人の意見は党大会には反映されない。党を構成する1万人の党員のうち、3352人が反対派である場合にも、党大会では1割しか反対派がいないことになってしまうのである。
 ここではあえて極端な例を挙げた。しかし、これが民主集中制の本質であり、幾段にも重なった間接選挙の本質であるのは明らかである。
 しかし、問題はこれだけにとどまらない。反対派はいずれにせよ、各支部、各地区、各県の少数派である。彼らができるのは、それぞれ所属する党組織内での議論か、もしくは党の各機関への直訴である。党組織を横断する議論は禁じられている。反対派は、派を構成できない。彼らは孤立した個人である。多数派は彼らの意見を調整し、論理づけることができる。だが少数派は、孤立しているので、彼らの意見の一致点と相違点とを話し合って調整するということもできないし、しかるべき論理づけもできない。彼らは結局いつまでも少数派にとどまり、あげく党に絶望して離党するしかない。かくて党はイエスマンだけで構成されることになり、党発展の原動力たる内部矛盾を失ってしまうのである。
 日本共産党が発展できないのは、弁証法的必然である。
 
 4、70年前後の党はどこへ行ったのか。

 かつて、宮本顕治という優れた指導者がいて、ソ連派も中国派も切り、自主独立路線を確立した。ここまでの党路線は、当時の状況においてみる限り、時宜を得ていた。しかし、党はここで止まってしまった。宮本顕治が優れすぎていて、そこから発展できなくなった。民主集中制が邪魔をして、異論が出なくなり、イエスマンの党になった。あの頃の党は、党内にまだ多くの異論を抱え、それぞれが自分のやり方で組織を作ってみようとする創造性を残していたと思う。だが民主集中制は、彼らに活動の場を与えない。こうして党は一色に染まり、創造性と活力とを失った。多くの独自性を持った党員と党支持者が絶望して党を離れていった。党はいかなる路線を歩んだのか。

  Ⅶ 日本共産党の運動方針とその問題点

 1、運動方針
 
 党の活動の重点は、次第に、主としてふたつ、強いてあげれば三つに絞られていった。主としては、赤旗拡大と選挙、付録として学習である。

① 赤旗拡大
 赤旗拡大には、三つの意義があった。マスメディアに抗して党の政策を伝えること、人々とつながること、そして、党の活動資金を得ること。
 しかしマイナス面は四つあった。赤旗の押し売りを世間が嫌がったこと、赤旗をとる気のない人が党を離れたこと、口頭で人々を説得することが軽視されたこと、そして、赤旗拡大に忙しすぎて、他の活動が次第におろそかになっていったこと。
② 選挙
 選挙はもちろん大事である。民主社会においてはこれ以外に政権獲得の道はない。問題なのは、選挙と赤旗拡大で党員が忙殺され、他の活動がマンネリ化し、一部の固定客だけのものとなってしまったことである。
③ 学習
 この言葉をもういい加減、党から追放して欲しいと思う。学習という言葉はパブロフの学習を思い出す。犬に一定の合図を与えたあと餌を与えることを繰返すと、やがて犬は合図だけで唾を湧出させるようになる。学習という言葉は、動物学上、本能に対比するものとして用いられる。本能にないものをあとから身につける。この学習能力の優れたものほど、人間に近い能力を持つということになる。人間は、体験や教育によって学習することで、本能以外の判断力を持つことになる。だが留意すべし。学習は意図的に与えることができる。洗脳がそれである。それはかえって人間の判断力を誤らせる。
 学習という言葉は犬にさせられてしまうような響きを持つ。人間に盲目的に従属させられる犬に。
 それでなくとも、学習という言葉には、啓蒙主義の臭いがぷんぷんする。貧しくて教育の機会を得られなかった人々に、真理を知っている誰かが教えてやるという思い上がりが臭うのだ。
 学習とは、「これが正しい。だからこれを学べ」という意味である。
 こんなことはもう情報社会の現代に通用しない。必要なのは学習ではなく議論であり、それによってお互いが新たな認識に到達することである。すなわち弁証法だ。

 2、運動方針の問題点

 もちろん党にはさまざまな活動があろう。議員活動もあれば、国際活動、理論活動、さまざまな大衆活動があるだろう。だが、一般党員のレベルで見る限り、赤旗拡大と選挙に忙殺されて、他の活動が、同好者のみの趣味の会に過ぎなくなってしまったのが実態である。これが党員が増えない一番の理由である。創造的活動が生まれないのだ。党活動がマニュアル化されてしまっているのだ。
 
 3、若干の個人的経験(水島に来てから以後の活動に絞って)

 僕が水島で試みた活動が何度も失敗してきた経過に、先ごろ少し触れた。そのときにも述べたとおり、基本的には僕自身の能力不足であった。しかし僕は自分の能力不足を自覚していたからこそ、県党の援助を求めたのだ。さもなければ僕は党とは無関係に一人で活動しただろう。
 最初は労働組合結成を試みた。同志を集め、県党に援助を依頼した。僕は僕の能力の不足している部分を県党に埋めて欲しかった。詳しいやりとりはもう30年も前のことなので覚えていない。印象に残っているのは、横山君と僕とが、常に対立するしかなかったということだ。それはつまり、横山君をとおして、県党は僕の必要とした援助を与える代わりに、僕のやり方に何かと干渉するほうに熱心だったからなのだ。
 この試みは、やり始めてまもなく僕が4か月の九州出張となり、帰ってきたときにはほとんど壊滅しており、有力メンバーの一人が心臓病で亡くなり、もう一人が横浜転勤となるに及んで、最終的につぶれてしまった。
 しかし、そのあとすぐ僕は2回目の活動を試みた。党員がいなければ組合は作れないという横山君の助言がもっともだと思ったので、ぼくはすぐ党員獲得に向かい、かなりの党員を作り、そのうち有名無実の党員を除いた数名で、党支部を結成した。岡田さんの自宅を借りて、毎週党会議を持った。支部名は確か「火の鳥」だったと思う。(「火の鳥」ははじめ居住支部の中に生まれ、そのことに限界を感じた僕が独立させた)。ここでも横山君の果たした役割は印象悪い。
 党員はいずれも20代前半の若者ばかりであって、党に初めて接触したメンバーである。党のことも、社会主義のことも何も知らない。ぼくは経済の仕組みや、人間の歴史を一から教えていく必要があると思っていた。だが、横山君が要求したのは、党員である以上赤旗をとれだとか、党の決定を学習しろということだった。彼らは会社に対する不満から、僕についてきたに過ぎない。赤旗どころか一般紙さえ読まない彼らに、乏しい給料から赤旗を購読せよといっても、肯んずるはずがない。こうして、もはや来てくれないほうがましな援助者のために、僕らの支部は次第にちぐはぐになっていき、やがてもっとも熱心だった一人が会社を辞めると、それが支部の崩壊になってしまった。
 この経過にはひとつの事件があった。この頃「まがね」に参加した僕が同誌上に「朝」という短編を発表すると、それが赤旗文化欄で紹介された。川鉄の内部暴露というべきその小説は保安課の目に留まり、僕は会社から、君津出張を言い渡され、1週間ほどで帰ってくると、君津に転勤するか、さもなくば業務命令拒否によって解雇だといわれた。僕は闘うつもりで弁護士に相談に行ったりしたが、弁護士の反応も好ましいものではなかった。そうこうするうち、上司が動いて、僕の解雇を撤回させた。これらの経過の内実を、僕は事務所にいた党の秘密支持者から、あとになって聞いた。それによると、川鉄保安課から指示があり、石崎は少なくとも川鉄社員と接触できない職場にとどめおけといわれたらしい。
 解雇撤回という結末が、なんとなく僕らの高ぶっていた気持ちを次第になえさせてしまったように思う。この直後にもっとも熱心だった党員が会社を辞めてしまい、それを契機に組織はつぶれてしまった。
 もうひとつの事件もあった。ちょうどオイルショックのときで、会社は人減らしを図っていた。有漢町界隈から送迎バスで通っていた大勢の社員がいっせいに解雇通知されていた。「火の鳥」が結成されたのには、こういう背景もあった。党員になったのはいずれも対象外の若者ばかりであったが、なんとなく不安な気持ちが、僕のほうへと引き寄せたのだろう。僕らは有漢町の対象者たちを組織すべく、その中のボス的立場の人と話し合いを持ったり、個別の説得に出向いたり、解雇の選別基準を労務担当者に尋ねに行って、抗議したりした。
 だから、僕自身に解雇通知が来たとき、裏の事情を知らないうちは、この一連の行動が原因だと思っていた。その頃の僕はまだ大変に未熟で、若者を組織したり、正式の抗議を申し込んだりはできても、年かさの人たちと本当に腹を割った話し合いが出来るような社会性を持っていなかった。僕らの有漢オルグは失敗し、解雇は予定通り為された。
 このことも、ぼくらの支部に無力感を与えてしまったのだろうと思う。
 だから、横山君一人を悪者にする気はない。彼もまた未熟な若者の一人に過ぎなかった。ただ僕が感じたのは、党は結局そのときその党員が本当に必要としている援助を与えることよりも、馬鹿の一つ覚えにも似たマニュアルを押し付けることに熱心で、必要とされるスピードでことが動いていかず、結局はすべてを台無しにしてしまうということである。これは1県委員や、1中間機関の能力の問題であろうか。僕に言わせれば、イエスマンを育て、イエスマンしか育てない中央集権制の必然的結果なのだ。
 こうした経緯のあとで、僕は川鉄支部に参加し、そこでは、2名だけだったが、党員を作った。
 ここでは鴨川氏が担当者だった。あるときの大会決定を僕は批判し、批判意見が出たということを上部に報告してくれといった。鴨川氏は、批判があるなら、直接中央に訴えればよいと答えた。僕はそれでは中間機関が何の意味もない、上意下達だけの機関では民主主義ではない、と述べた。
 さらに、確かこのときも綱領の一部改正が行われたときで、僕は新しい綱領は一歩前進だが、時代の趨勢から言えばはるかに遅れたものだと思っていた。このとき僕が指摘したのは綱領の内容よりも、なぜ昨日まで綱領を一字一句肯定していた人が、今日になると一転して違う綱領の支持者になるのか、ということだった。改革が上からしか来ない。方針が180度変わっても皆いっせいに右へならえする。これは綱領の内容よりも大事なことだ。たまたまそのときの改革が前進であったとしても、それはつまり封建制下における前進、大岡越前やゴルバチョフ流の前進であって、いつでもファシズムそのものとなりうる性質のものだ。綱領の、上からの修正が支持されるためには、今の綱領では不満だと言う声が、一般党員の間から上がっていなければならないし、無条件で支持していた人たちが、1日で態度を変えるようでは、その見識を疑わざるを得ない。これはただ単に当該党員の能力の問題だろうか。党員をそのように教育してしまう組織の欠陥ではないのだろうか。
 川鉄支部での活動は川鉄社宅への「鉄火」の配布がおもなもので、僕が入党してもらった年上のわが社員も、よく協力してくれた。この人がいてくれたら、僕は活動を続けていたかもしれない。ところが彼は、本来冷静な人のように見えたのに、いきなり会社とけんかして退職してしまった。
 ここらで僕は限界を感じた。僕が党に本当に賛成できるなら、僕はもっとやりやすかっただろう。ところが僕は党に不満だらけで、批判をいっぱい持っているのに、これを分かちあえる人もなく、こつこつと作る組織は次々と崩壊していく。文学という人生目標からあまりにもかけ離れて時間を無駄にしているという想いから、僕は離党することにした。

 4、結論  労働運動、市民運動の問題

 話がかなり脱線してしまった。このほかに僕は同志社と立命とほとんど連続して在籍したふたつの大学、それに日新電機の3箇所で活動の経験があり、それぞれに語るべき物語がかなりあるが、ここでは述べない。
 結論はすでに述べてきたとおり、硬直した組織が、創造的活動の展開を妨害し、創造的党員を駆逐しているということである。民主集中制をやめない限り、党のこの欠点は改善されないだろう。
 とりわけ強調したいのは、労働運動と市民運動とを活性化させていく課題である。先に述べたように、たとえ議会で多数をとっても、それだけでは世の中は変わらない。富めるものと貧しいものとの力関係だけが社会を変える。選挙はその結果として現れてくるものであって、それだけに一生懸命になっても基本的な前進がない。そのときそのときで増えたり減ったりするだけである。
 なお、労働運動と市民運動の中で、党が影響力を失うに至った経過には、反省すべきことが山のようにあると思うが、本質的な点はただ一点、党の前衛意識、啓蒙主義的態度、正しいのは我々だ、みんな、我々について来いという態度、運動の中にいる党員に対して、所属する運動体の決定よりも党の決定を優先させるようなことをやってきた過去、これが根本問題なのだ。これゆえに共産党員は組織の中で嫌われ、共産党の色がついた組織には人が寄ってこない。運動体の中にいる党員は、逆に運動体の要求を党に突きつけ、運動体を代表して、党と交渉し、党に変更を迫っていく存在でなければならない。運動体を背景として、独立した力を持って、党中央と堂々と渡り合っていけるような、そのような組織形態が必要なのだ。これは民主集中制のもとでは絶対に不可能である。
 僕は詳しい経過を知らないし、すでに記憶もあいまいだが、たとえば、総評の中で共産党員と社会党員とが、結局共闘できなかったのはなぜなのか。
 原水禁運動は何故いまだに分裂しているのか。
 ヨーロッパで核兵器反対運動が空前の盛り上がりをみせ、これがゴルバチョフとレーガンへの大きな圧力となったとき、肝心の日本の平和運動は混迷のきわみにあった。
 古在由重、小田実、鶴見俊輔らとの問題は(いまではもう内容も覚えないが)、当時の僕には納得できるものではなかった。
 党の側の事情はいろいろあっただろう。しかし党にはこういう問題が多すぎ、そして、結果として、労働運動は壊滅し、市民運動の中では、すでに往時の影響力を持っていない。

  Ⅷ 資本主義論 社会主義論

 1、資本主義、社会主義とは何か

 資本主義とは何か。株主が企業の所有権を持つ制度である。したがって、株主は、経営と雇用に関するあらゆる決定権を独占的に持っている。その発生の初期において、資本家の権利は、王権や封建諸勢力によって、著しく制限されていた。これを打ち砕いたのがフランス革命であり、自由、平等、博愛がスローガンとなった。ところがじきに明らかになったように、このスローガンは資本家だけのものであって、労働者と植民地住民は酷使され、弾圧され、虐殺された。
 社会主義とは、これを改革しようとする一連の理論と運動である。なかでもマルクスは、この改革は理想主義者によっては成し遂げられない、虐げられた人々が暴力によって勝ち取るしかないのだと説いた。基本的にはその事情は今でも変わらない。現実は力関係によってしか動かない。現実はおとぎばなしではない。しかし、すでに述べてきたように、資本主義の数百年に及ぶ歴史の中で、力は必ずしもむきだしの暴力を意味しなくなり、あらゆる社会的強制力が、これに変わるようになった。
 一方、マルクス社会主義は、生産手段の社会化を唱えた。企業の私有をやめて、働くものがこれを所有する。そうすれば社会の分裂は回避され、理想社会が生まれる。しかし、ソ連の体制はそうならなかった。それは、先に述べたソ連共産党の欠陥だけによるのではない。
 共産党は労働者の政党である。したがって、共産党が政権を握った国家は労働者の国家である。したがって、その国家が所有する企業は労働者の所有する企業である。という三段論法はそもそも共産党が労働者の政党ではなかったことによって、最初から成り立たない論法だったのだが、そのことだけがこの体制の失敗なのではない。
「企業の社会的所有の具体的形態は、そのことが課題に上ったときに、その時代の人々が創意工夫によって生み出すだろう」(資料が手元になくなったので、正確な引用ができない)こういう意味の記述が、綱領か、もしくは綱領改正の解説文の中にあった。これは僕の意見と一致する。企業の社会的所有というお題目は、スターリンもレーニンも、マルクスさえも考え及ばなかったほどに複雑な問題であって、政権が変わった、さあ今日からやるぞという風に手軽にやれることでもなければ、いまの時点で言えば、それこそおとぎばなしといっていいような種類の概念なのだ。
 社会的所有とはもちろん国有化ではない。国有化は国家資本主義であって、労働者が所有するわけではない。だが社会的所有という言葉自体が曲者でもある。社会全体の利益のためにという名目で、労働者の利益が無視されることだって、ありうるだろう。それが開発独裁であり、国家社会主義だ。ここで言う社会的所有はそのようなものと無縁でなければならないだろう。
 しかし、労働者が所有すればそれでいいのかという問題は、もっと複雑な問題である。経済の活力、競争力、という問題があるからだ。そして、いわゆる社会主義国家の失敗はこれを最大の原因としていた。
 テレビの討論番組で、「資本主義の限界が来た。じゃあ、社会主義はこれをどう解決するのか」と問われた志位和夫は、「資本が勝手気ままにやれないような社会的ルールを作るのだ」と答えた。これが正解であるが、問いに答えたことにはなっていない。質問者ははぐらかされたような思いがしただろう。資本主義が限界ならば、社会主義になればどう変わるのかと質問者は問うたのだからだ。
 しかし、この答えは正しいのである。まちがっているのは質問なのだ。資本主義は限界を迎えてはいない。限界に来たのは「ルールなき資本主義」なのである。だから、資本主義のルールを復活し、もしくは改めて作ることが課題になっているのであって、資本主義を廃止することが課題なのではない。
 しかし、また一方、社会主義とはそもそもそのようなものなのだとも言うべきなのだ。
 ソ連や中国の存在から、社会主義とは体制であるという思いこみが、特に日本では強い。日本ではマルクス主義以外の社会主義があまり目立たない存在だったので、歴史的にさまざまな社会主義が共存してきたヨーロッパとは少し趣きが違う。もちろんマルクスは偉大な理論家だが、体制の問題については、かなり甘い認識もあったようだし、それに彼自身それは将来のことだと言っている。時代はすでに150年を経過した。体制の問題は一から考えなす必要があるが、いまはそれ自身が課題とはなっていない。
 社会主義は、ルールなき資本主義にルールを与えるための運動なのだ。

 2、ルールなき資本主義

「ケインズは終った」といわれた頃から、世界はおかしくなった。知ったかぶりがとくとくとそう言うのを何十年も前に聞いた。ケインズ解説書を読んだばかりで、また中学時代からルーズベルトのニューディール政策には関心を持っていたので、もっともまともで良心的な資本主義経済学者とケインズを評価していた僕には納得できなかった。やがて新自由主義経済学(ニューエコノミクス)だとか、新古典主義経済学だとか、サプライサイズ経済学だとか、そのうちサッチャーリズムとかレーガノミクスとか、小さな政府とか呼ばれて、中曽根時代に一世を風靡した。
 その内実は時計を百年逆戻りさせたに過ぎなかった。資本主義に対するあらゆる規制を取っ払って、弱肉強食のカビの生えた経済学を復興させようとし、実際にそうしたのだ。先に述べたようにここで最も罪深い役割を演じたのはわが日本である。日本の低賃金が欧米の経済を成り立たなくさせ、ジャパンアズナンバー1が欧米の労働者を直撃した。ソ連東欧の崩壊で、もはや社会主義者に気を使う必要がなくなったことがそれを加速させた。
 やがてマネー経済が世界を覆い、新しくない新古典派経済学は極端まで暴走した。ホリエモンのような小さな馬鹿が賞賛され、もう少し大きなウオール街の馬鹿ないしペテン師が、有能であるかのごとく錯覚された。そしてその時代は終った。
 今このひどい世界を、少しでも自分に有利に収束させようとして、さまざまな画策が為されている。ふたたび弱者が犠牲にされ、富める者だけがいい目を見ようとしている。結局はそうなるだろうが、共産党の出番ではある。

  Ⅸ 多元的社会

 話題を変える。進行中のことがらについては僕のテーマから少し外れる。結局のところ社会はどのようでなければならないかということについて述べたい。
 もうずいぶん昔になるが、不破哲三と田口富久冶の論争があった。あるところまで僕は二人の論争を追いかけていた。ついに読むのをやめたのは、二人の論争がかみ合っていないと感じたからだ。田口富久冶の多元的社会主義論は、かなり理想主義的で現実離れしたところもあったが、現実の社会主義社会の抱える問題から出発し、また資本主義的デモクラシーの到達点をも見据えて、既存の共産主義的国家論の問題点を突いた、非常にまじめな提言であったと思う。
 対する不破哲三の反論は、僕には揚げ足取りにしか見えなかった。人類にとって重要な問題を一緒に考えようという姿勢が見られず、ただねちねちとマルクスを引用して、論敵をいかに打破するかということだけを考えているように見えた。
 田口富久冶の論の要点は、資本主義がその歴史の中で多元化してきたにもかかわらず、社会主義は多元化しなかった。多元化しなければ、社会主義はそれだけのものに終るだろうということだった。そして彼の言うとおりになった。僕は僕のものの考え方が、この田口富久冶の多元的社会主義論から大きな影響を受けたことを否定しない。
 民主主義社会というものを考える際に、その社会の権力が多元化しているということは最も重要なことだ。
 しかし問題はそこにとどまらない。経済というものを考える際にも、経済を動かすのが、一方だけの力であるというのはかなり危ういことであるように思える。一方に競争原理がある。これを無視しては経済は発展しない。しかし他方これを規制する力がある。この力が弱ければ弱肉強食になり、結局経済は成り立たない。
 ここに社会主義の役割があると思う。
 ひるがえって考えれば、共産党の組織はどのような組織であるべきかというこの論考の初期のテーマにとっても、これは重要な考え方である。共産党もまた多元化しなければならない。一元的な民主集中制ではなく、多元的な組織形態を考えていかねばならないのである。

  おわりに

 政策上の問題点、あるいは選挙戦術や議会活動上の戦略戦術の問題点についても、言いたいことは山ほどあった。しかしこの調子で書いていったのではいつまでたっても終わりそうにないので、この辺でそろそろやめにする。
 断っておきたいが、これが所詮野次馬の提言に過ぎないことを僕は自覚している。僕自身企業の末端で小さな責任を負うものの一人として、さまざま批判に直面し、お前は野次馬だ、評論家だ、と言い返してきた。当事者には、そう簡単にいかないことが山ほどある。やれると思うならお前がやってみろ、やれないなら黙っとけと僕は毎日のように言っている。自分では何ひとつやる気がないくせに批判だけはする人間を僕は好きじゃない。批判くらいは誰だってできるが、現実は簡単じゃないからだ。
 だから僕は、不十分な中で一生懸命やっている人をいつだって尊敬している。社会を現実に動かすのは、あれこれの理論好きではなく、結局は現実に闘っている人々なのだということを僕は知っている。
 ゴルバチョフがソ連共産党の最高地位に上り詰めるには、ずいぶんと妥協もし、手も真黒に汚してきただろうと僕は思う。
 AMDAの菅波茂が僕の高校の同窓で、しかも同学年だということを僕は永いこと知らず、最近になって知ったが、若い頃、タイ国境地域での彼らの活動を、ポルポトを利していると批判した文書を送ったことがあった。反論してきたのは菅波ではなく、その内容はポルポトを擁護するようなものであって、僕は幻滅したが、いまになってみると、AMDAは確かに問題はあったが、しかし立派に社会貢献している。世の中を動かすのは口で批判する人ではなく、たとえ間違いだらけであっても、とにかく行動する人なのだ。
 それゆえ僕も共産党に対する外部からの批判者になりたくなかった。僕は党に対してはいつも批判を述べても、党外の友人たちからは、あいつはコチコチの共産党だと思われるぐらいに党を擁護してきた。僕は党内にあって党を変革していきたかったのだ。
 しかし、その役割はもうほかの人にゆだねたい。僕にはほかにやりたいことがあり、芸術方面で、人生最後の戦いを挑みたい。いまさらたいしたことはできそうもないが、少なくともそれに向かって、人生最後のときを過ごしたと納得できなければ、僕は死んでも死にきれない。
 これがぼくの結論であり、これは変わることがありません。
                       2008年11月3日
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コメント
372: by デボーリンの墓守 on 2014/10/05 at 10:52:32 (コメント編集)

いろいろ反論したい点があるのですが、とりあえずあなたの誤解について指摘しておきます。

>一般に、ソ連の体制は、国家社会主義であると呼ばれてきた。ヒットラーの党ナチは、国家社会主義党の略であるが、確かに似たところもあるし、またヒットラーの体制よりは、そう名づけるにふさわしい社会だともいえよう。

「国家社会主義」という場合、ソ連やその衛星国の体制を指す場合の「国家」はStateであり、ナチズムの「国家社会主義」の「国家」はNationです。ナチズムの「国家社会主義」はNationalsozialismusです。ナチズムの思想はアーリア民族主義ですから、「国家社会主義」ではなく「民族社会主義」と訳すべきだったと思われます。「国民社会主義」という訳語も見たことがあります。

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