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平松氏の論考への石崎の指摘と、平松氏の反論 Ⅰ

 先日公開した以下の文章に、平松氏が反論を寄せられたので、拙文に付け加えて再掲する。
 拙文の各部分に対応するかたちで書いておられるので、そのまま発表する。
 赤字部分が平松氏による文章である。
 なお、全体が長くなるので、章ごとに区切って掲載する。

平松 民平 「非物質的代謝による生産=情報財の生産について」
     ――マルクスを現代に、現代を社会主義につなぐ一助に――
    (「マルクスと21世紀社会」社会主義理論学会編 本の泉社 2017年)
                                     
   上記論考について若干の疑問を記す
                                石崎  徹
           目次
 I. はじめに                    
 II. 本論                      
 III. 情報産業                   
 IV. 情報の質の違い               
 V. 製造業産業と情報産業の違い       
 VI. 労働価値説は覆されたか          
 VII. 資本主義的所有は無効化するのか。   
 VIII. 産業分布を何によって計るか   
 IX. まとめ   

I.  本論に入る前に、主筋ではないだろうが、主筋に微妙に関連し、また相互に関連しているところの二つの箇所について述べる。

① サービス労働について 38ページ
② エントロピー増減について 56ページ

① <「モノに結実しない労働は価値を形成しない」派と「モノに結実しない労働も価値を形成する」派との間で「サービス労働論争」があったが、その議論が情報の生産の分析にまでは至らなかった。それは「生産=物質的代謝」規定の影響によると思われる>

② <上記①~③(掃除、床屋、服の仕立ての三つ――引用者注)はマル経では何を生成していたか疑問視されサービス労働とされていたが、「エントロピーの減少=エントロピー財」を産出する労働と捉えられる>

 これに対する石崎の意見。
 エントロピーの増減という概念を使って、サービス労働問題をうまく労働一般の中に取り込んだな、とは思うし、エントロピーという方向からものを考えれば、たしかにうまく当てはまっているようにも見える。しかし、こじつけのような感じもある。そもそも何かを生産しなければ労働ではないのか?
⇒何かを生産しなければ労働ではない、これを前提して労働を「生産」に当てはめるために生産概念の拡張のためにエントロピー概念を使っていると思われるので、こじつけと感じるのですね。マルクスは物質的な何かを生産しなければ生産的労働とはみなさない。マルクスは生産を歴史的/超歴史的の両面で捉えていた。現代(マルクス時代)の生産は悉く資本主義的生産である、と語っています。あえて生産を狭く限定的に捉えていた。価値法則はこの資本主義的生産の分析に適合していた。マルクスの生産概念の拡張か、生産そのものを労働の前提から外すのか、での分け方もあるけれど、問題は生産とは何か、どのような活動が生産でどのような活動が非生産なのかをマルクスを離れて(超歴史的に)考えるのも意味ある事ですよね。これを明確にしないと「何かを生産しなければ労働ではないのか」の問いにかみ合った議論は出来ない。繰り返しになりますが、マルクスの生産概念は物質的代謝の過程での労働活動に限られている。マルクスが生産活動と明確に捉えなかった労働にサービスとエントロピーがあると思う。マルクスのこの生産概念のリニューアルが現代から未来社会への生産の変革の分析に必要。

 労働がまず食のために始まり、余裕が出来た時代に到ってサービスや科学や芸術が生まれた(一方での剰余価値の生成、他方でのその消費)という問題と、近代社会における雇用労働の局面で生じる、商品やサービスの価格と労賃との差額という問題は別の問題だ。
⇒「サービスや科学芸術が生まれたことと近代社会での商品やサービスの価格と労賃の差とは別の問題」
評者は著作がこの両者を混同している、と受け取られたようですが、そのつもりはないのです。
前者は、「余裕ができた」=生産力が発展=科学や芸術を低価格で扱えるようになったことを意味し、
後者は、発展した生産力が資本主義に都合に合わせて、資本が利潤を生むために、マルクス的に言えば資本主義的に充用された結果でしょう。


マルクスはあちらではああ言い、こちらではこう言っている、という矛盾があるのだろうが、単語もセンテンスも、いつでも同じことを意味するわけではない。それらを文脈の中で読みとらねば、なにも意味しない。

 価値とは商品価値である。商品価値は使用価値を必要とするが、使用価値はそれぞれ異なっているので、比較できない、衡量できない、価値の高い、低いを言うことはできない。それをできるのはただ単にそれを作るのに(あるいは与えるのに)要した労働時間だけである。 ということが価値の全てであり、要するに売れるものが価値なのだ。サービスも売れれば価値である。別に何も生産する必要は最初からない。少なくとも価値に関する限り、エントロピー概念は必要ない。
⇒価値は市場により売買の結果として与えられる、「要するに売れるものが価値」、「別に何も生産する必要はない」、確かにそうです。私は何が売れて何が売れないかを考えたい。この分析を通して、売れるものには使用価値があるから、となるのですが、では使用価値の中味はどうなのか、マルクスは使用価値の中味の分析はしていない、ここは捨象して、議論はすぐに価値(交換価値)に飛んでしまう。私は逆に価値(交換価値)の議論には踏み込んでいない。価値は石崎さんが言う補助線でしょう。私は価値を飛ばして超歴史的な使用価値の分析に踏み込んでいてここがマルクスとの違いです。価値は資本主義において初めて意味をなす概念でマルクスが極めた中心概念で、資本主義終焉の鐘が鳴るまでは使える。
⇒「少なくとも価値に関する限り、エントロピー概念は必要ない」これは価値に関する議論であり、使用価値を分析するに当たって、使用価値の有無/量的程度を吟味/議論するにはエントロピー概念は有用である。さらには物質的/非物質的財の生産範疇のなかでは分析しにくい使用価値がエントロピー概念によって明確に整理され、どのような使用価値をどのような労働が生むかの分析もうまくできる。
分析は不要とするなら話は別ですが、、、。
欲望を満足させる何かを提供する労働、この何かとは何なのか?これへの答えとして物質的財、非物質的財、エントロピーが考えられ、それはマルクスにはなかった分析によって得られるものである。


「資本論」から極端な例をひとつ。
 教育労働に関して、「教師は子供の脳細胞という物質に変化を与えるので、これは生産的労働だ」というバカなことを言った人がマルクスの時代にいたらしく、マルクスが彼らしい皮肉を込めて揶揄していた。 エントロピーを引っ張り出してサービス労働に価値を与えようとする試みは、この「子供脳細胞改造論」と似たところがあるような気がする。
⇒エントロピ概念を適用すれば、もしかしたらこれは「バカなこと」ではなく、マルクスが誤りかもしれない。今までマルクス主義理論では捉えられていなかった事象の位置づけが可能になるかもしれない。そうすれば、教育労働がもっと確かな根拠をもって有用労働と位置づけられるであろう。

 そんなことをしなくても、サービス労働は最初から商品価値なのである。 教育労働者はサービス労働者であり、官庁勤務者もそうだ。そのサービスの買い手は税金の形で対価を支払っている。直接買わないのでわかりにくい。でも、そうなのだ。
⇒どのような労働がサービス労働として役立つのか、そこを分析したい。買い手がつくから商品価値がある。マルクスにとってはそれで十分かもしれないが、そこを調べて見たら、エントロピー低下させる労働が使用価値を形成していたことが分かった、ということです。これはこじつけかもしれない。でもそうするとエントロピ低下させる活動は他にも見つかるかもしれない。物質財生産でもなく、知的財の生産でもない、けれどエントロピー低下させる活動に従来の生産活動と同列の席を与えられるかもしれない。
⇒エントロピ概念は観測から得られた物理的客観的な概念で補助線ではないと思う。価値ではなく使用価値と労働の関係の理解にはニュートン力学と同じようにこじつけでなく適用できるのではないか。


 さて、テキストの主筋に進む。それはこれらの問題と直接関係ないのだが、微妙に関係してくる。
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