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竹之内宏悠「私、行きます」(「民主文学」18年11月号)

 あまり上手とは言えない文章で読みにくかったが、最後まで読むと切実な話ではある。
 どこがまずいのか。最初の5行である。読者を引き込まねばならないいちばん大切な部分である。
 ちょうど同じ号で、仙洞田一彦が的確なことを言っている。
 <書く者が第一に意識しなければならないのは「場面」なのだ>
 その上の段で、「場面(シーン)」と書いている。仙洞田氏はこれを、レオン・サーメリアンという人の本から学んだそうだ。聞いたことのない人だ。宮本百合子の作品を二つあげて(ぼくはそれを読んでいないが)そこには場面がある、初心者の書くものには場面がないと言っている。
 ぼくは同じことをチャンドラーから学んだ。チャンドラーは、「最後がちぎれていても読みたいと思わせるような場面(シーン)」こそがストーリーよりも大切だと言っている。
 そういう問題なのである。

 事務所の電話がけたたましく鳴った。
「はい、川崎合同労組ですが」
 いつもの癖で、川崎地域合同労組の書記長古田孝広は、受話器を取ると白くなった髪の毛に手をやりながら応えた。
 電話の内容は、孝広が思った通り労働相談だった。

 一見、場面が書かれているように見える。合同労組の事務所で、そこには髪の白い書記長の古田がおり、電話がかかってきてとった。古田には髪に手をやる癖がある。
 なるほど、わかる。しかしこれは説明であって、シーンではない。
 なぜ「事務所の電話」なのか? そこが事務所であることを説明するためであって、事務所のシーンには事務所の電話しかないのだから、この「事務所の」はよけいな単語である。
 なぜ「けたたましく鳴った」のか? けたたましくなく、鳴るときはどういうふうに鳴るのか? 電話はけたたましく鳴ったり、違う鳴り方をしたりするのか? 
 電話がけたたましかったり、そうでなかったりするのは、居合わせた人たちのそのときの精神状態のせいだろう。そこになにか異常なものがあるのでなければこの単語もよけいな単語である。よけいなというのは、単に不要であるというだけではなく、あってはならないということだ。
「いつもの癖で」
 癖というものは無意識なものだから、「いつもの癖で」と書かれれば、そこに第三者の視線がなければならない。しかし誰の視線とも書かれていない。読者の視線だろうか。けれども読者は古田と初対面なのだから、それが「いつもの癖」であるかどうかは知らない。
「思った通り労働相談だった」
 何故そう思ったのか? その理由が書かれていない。理由などないのだ。これもよけいな単語である。

 電話が鳴った。それをとったという日常的なことを書くのに、よけいな形容詞がたくさんくっついている。これがなにか異常なことの始まりで、それを予感させるものがあって、そこに居合わせた人々が身構えていたというのならこの書き出しでよい。これはそういうシーンなのだ。そういう間違ったシーンを作者は作ってしまったのだ。
 読者に期待させる書きかたではある。ところが期待させるようなことは起こらない。起こりそうな雰囲気ではないし、実際起こらない。そこで読者はその大げさな形容詞を場違いに感じる。結局、正当なシーンは書けていない。

 合同労組の事務所に日ごろ交流のある活動家の高山が電話をかけてきて、応対した書記長の古田に、パワハラ被害者への救援を依頼した。事務所にやって来た被害者から話を聞いたら深刻な内容だった。
 被害者から話を聞く場面は、一応シーンになっている。そこは読ませる。被害者の生活の実態が描出されるわけではなく、被害者の語る言葉と、応対した者に与えた印象だけなのが物足りないが、切実感は伝わる。ただ、要するにそういう紹介記事なのだから、それにふさわしい、さりげない書き出しがあっただろう。弁当を買う場面だけはちゃんと物語になっていた。最後がよいので、書き出しのそぐわないのがもったいない。
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