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斎藤克己「きみの瞳のなかのぼく」追論

 読み直したが、今回作には前回作のような仕掛けは読みとれず、素直に読んでかまわない小説のようだ。
 素直に読めば、佳い作品なのだ。生きることの愛おしさ、過去から未来へと繋がっていく命、といったものを感じさせてくれる。
 文章がいい。大げさな表現がない。淡々と書いているのに、しかも実感がこもっている。
 強調すべき場所でも、やはり形容詞を使わない平易な文章を、ただ、くりかえすことによって効果を上げる。
 32ページ下段
 <他には何もない。何も起こらない。>
 <すごいよ。すごかったよ。とんでもなかったよ>
 こういうふうに畳みかけていく表現法だ。
 高村薫が「文体のあるのが純文学。ないのが大衆文学」と言ったが、この作者の作品にはまさしく文体がある。文体――つまり文章の個性である。小説は所詮作り事だ。だが、作品が文体を持っていると、厚みが出る。存在感が立ち上がる。実体感が出てくるのだ。
 しかし、不満もある。特に仕掛けのない小説だとしたら、不必要にリアリティに背く箇所を作るべきではなかった。
1. 月満たずの帝王切開による出産である。特別な部屋で管理されるはずで、安易に看護婦が抱いて出ることは出来まい。
2. 生れた子の目はすぐには開かない。何日かかかる。開いてからもすぐには焦点が合わない。
 この二点が不自然なので、そこに何か特別な意味があるのかと疑ったのである。前回作には最後にどんでん返しともいうべき仕掛けがあったので、今回もそれを期待してしまったのだ。
 それがないとなると、この二箇所は作者の単なるミスということになる。
 あと、もう一点。作者は前回も今回も、「長男」で通している。ところが兄弟がいるようには見えない。一人息子である。一人息子で「長男」という言い方には違和感がある。なぜ「息子」では駄目なのか。「長男」という表現には、すでに次男三男がいる現在の地点に立って長男の幼かったころを書いているというイメージがかぶる。それならそれでそういう設定を示す必要がある。前作も今作もそういう設定にはなっていない。
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