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文体の問題

 もうひとつ、「時の行路」が読みにくかった理由を挙げる。
 読点を打つ個所の問題なのだ。
 これについては「ふくやま文学」の中山茅集子がふくやま文学館での講演で語っていた。
 あるとき彼女は井伏鱒二の作品を筆写してみたのだそうだ。すると読点を打つ箇所が井伏と自分ではぜんぜん違うことに気づいた。そして彼女の言うには、これはその作家の息を継ぐ箇所なのだ。自分が息を継ぐ箇所に作家は読点を打つ。これは一人一人違う。それが、その作家の身体リズムであり、生命であり、そしてそれが、その作家の文体なのだ、と。
 なるほどと思うので、あまり人の読点の位置をとやかく言いたくないのだが、それが自分の位置と違うと、どうしても違和感はある。
 田島一の文章は、ひとつのセンテンスがやや長い。ひとつのセンテンスのなかに複数の動詞が入ってくる。名詞を修飾する語がやや長くなるので、修飾される単語の直前で、氏は読点を打つ。その読点の直前がいつも動詞である。
 きょう書いた「とりあえずのまとめ」のなかから例をあげよう。
「続」P50「変かもしれないけれど、みんなのために生を貫こうとしたから多喜二を殺した、支配者の」 
 同じく。「わたしが多喜二のノートに出合った余韻をまだ残している、昨日のことだった」
 上の文章では、「変かもしれないけれど、みんなのために生を貫こうとしたから多喜二を殺した」という文章が「支配者」を修飾している。「殺した支配者」なのだ。ところが田島氏は「殺した、支配者」と、あいだに読点を打つ。
 下の文章も同様である。「余韻を残している昨日」なのだが、「余韻を残している、昨日」とあいだに読点を打たねば気が済まない。こういうセンテンスが非常に多い。
 ところがぼくは読点があるとそこで息を継ぐので、そこで意味がいったん終了してしまう。というのは読点の前がいつも動詞だから、そこでいったん文章が完了したように錯覚してしまう。その動詞が次に出てくる名詞にすぐにつながらない。
 氏の文章は必ずこういう構文になっている。いたるところに出現する。
 文体なのだからとやかく言えないのだろうが。
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