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「時の行路」とりあえずのまとめ

 正・続を読み終え、いま、「時の行路」第三部というべき「争議生活者」の読み直しにかかっている。この作品は、一年半前「民主文学」に発表されたときにすぐ読んだ。もともとの主人公「五味洋介」に立ち返り、彼と彼の家族を書いている比較的小説的な部分だった。だが、すでに記憶があいまいなので、これについては読み直してから語る。
 今回、今年3月号の、田島一と山口宏弥の対談を読んだ。山口宏弥は元日航パイロットで、解雇されて争議をたたかっている人である。この対談は面白かった。これも雑誌が出たときに読んだ記憶があるが、今回「時の行路」正・続を読み終えていたのでまた違う感慨があった。
 しかし、その前に、14年8月号の牛久保建男の文芸時評に触れておきたい。
 牛久保はガルシア・マルケスから語り始める。マルケスが1982年のノーベル賞受賞演説で述べた言葉。
「信じがたいわれわれの日々の生活を語るには従来の慣習化した手法では不十分なので、それをいかにして乗り越えるかがわれわれにとって最大の挑戦だからです」
 牛久保はマルケスのこの言葉を引用して、2008年に始まったいすゞのたたかいを描くことも「従来の慣習化した手法では不十分なので」作者のとった方法はあくまで裁判闘争を軸としたたたかいの事実経過を機軸におくということだった、と述べる。「それは作者の自由な手をしばることであるが……権力のふるまいは安易な創作を拒否するほどにひどいものだ」とすると……「それなら小説でなくともいいではないかという反論があるかもしれない。たしかにそうだ。しかし、この作品のようにいすゞの非正規社員を切り捨てる権力の乱暴狼藉の舞台を描いたルポルタージュがあるだろうか、報道があるだろうか。私たちは『時の行路』によってその実際を初めて知ることができるのである。そのことの意義をまず承知しておく必要があるだろう」
 牛久保がこう述べたのは正論だ。誰かが、何らかの方法で世に知らしめる必要があった。そのことの意義はまず承知しておくべきだろう。
 報道によると、いまこの作品の映画化の運動が沸き起こっている。赤旗連載のときの挿絵画家中西繁(かなり有名な画家らしい)がプロデューサーとして動き、脚本化が進む一方、一億円の目標で募金運動が起こっている。高知の女性がポンと百万円出して、「返却無用、映画が完成したらチケットを何枚か下さい」と言ってきたそうだ。
 何十万の読者を持つ日刊紙赤旗で半年ずつ二度にわたって連載され、やはりそれなりに読まれたのだ。そしてそれがこの問題への世論喚起に相応の役割を果たし、裁判に影響を与えた。
 だから百万をポンと出す人も現れる。
 まずその意義は承知しておかねばならない。
 結果的に裁判は負けた。だが、少なくとも初期においては世論は確かに大きく動いたのである。リーマンショック自体が大事件であった。膨大な解雇騒ぎがあり、日系ブラジル人たちが仕事を失い一斉に帰国する。「ハケンのお仕事」がもてはやされたのはその直前だったのだ。だからいっそう、派遣切りが目立った。その負の面がいっぺんに露わになったのだから。湯浅誠は年越し派遣村を開いた。
 こういうなかで裁判ははじめ有利に進展する。そのころのネット投稿を見れば、「この裁判に負けるようでは日本の労働者は奴隷だ」などと勝利を確信しているようなものがある。
 だがいつの代も世論は浮気っぽい。企業がメディアに影響力をふるったかどうか(広告料を通じて)は不明だが、いずれにせよ、世論はあてにならないということは常に肝に銘じておく必要があろう。次第に人々の関心は遠のいていき、2011年の大事件が決定的に派遣切りを過去のことにしてしまう。世論が関心を失えば裁判は終わりだ。
 我々はたたかいの実際を小説によって知るが、それはとても悲惨な生活である。そうまでして、たたかって負けた。いったい何の意味があったのかと問いたくなる。
 ところが、ネットに面白い記事がある。
 いすゞはいまも大量に派遣を使っているが、派遣に対する会社側の態度が奇妙なほどにやさしいというのだ。そのせいで、まともに働かない派遣がいる。おかげで真面目な派遣が迷惑するが、社員に言っても対応してくれないというのだ。つまり真面目な派遣労働者がネット投稿している記事なのだ。
 もちろんネットにはなりすましが多く、百パーセント信用することはできないが、いすゞのほうも裁判に懲り懲りして、派遣労働者に対して気を使っているというようにも受け取れる。
 だとすると、五味洋介たちは裁判に負けたが、成果は残した。無駄ではなかったかもしれない。そうだ、人のしたことは必ず何らかの影響は残す。無駄なことというものはない。

 ということはひとまず置いて。
 小説としてはどうなのか、それを問わずに終わらせるわけにはいくまい。
「それなら小説でなくともいいではないかという反論があるかもしれない。たしかにそうだ」と牛久保氏が言っている。
「それは作者の自由な手をしばることである」事実に制限されて空想力が羽ばたかない。
 そのことを作者本人が述懐している。作者と山口宏弥との対談に戻ろう。
 田島「作品は、ほぼ同時進行で書かせていただいたのですが、いすゞのたたかいというのは世間によく知られていますので、そこからの大きな逸脱は簡単にはできません。小説の本来のありかたからしますと、とにかくいすゞに限定しない形で大きく広げてどんどん虚構の世界をつくって書いていくという方法も考えられたのですけれども、ただ私は、いすゞ自動車の争議というはっきりした舞台をすえて、そこでたたかう人たちと一緒に歩みながら書いていくという選択をしました。ですから、これは作品の長所と言えるかもしれませんが、同時に短所にもなりまして、結局、取材に引きずられて自由に筆をふるえないという制約はやはりあったのです」

 ここがこの作品の一番のネックになっている。とりわけ係争中の事件であり、しかも作者はその一方の側に立っているので、あまり事実から逸脱するわけにはいかなかったのである。
 だから、五味洋介をはじめ、登場人物たちがいずれも存在感が薄い。抜きんでた個性がないからだ。そのような個性はふつう小説的フィクションによって作り上げるものだからだ。
 いっぽうで、由香里と高嶋の二人、特に由香里は生きている。小説的人物たり得ている。読みながら、この人はたぶんフィクションだろうとにらんでいたが、作者自ら暴露している。いすゞ以外の場所で出会った人をモデルに自由に創造したと。つまりここでは従来の方法が可能だった。
 だが、「従来の慣習化した手法では不十分なので、それをいかにして乗り越えるかがわれわれにとって最大の挑戦だからです」
 そうなのだ。文学は常に新しい手法を必要とする。しかし、それを乗り越えることができたかどうかが、問われることになる。

 すべての章が「……のだった」と始まり、「……しながら思い起こしていた」と書き継がれ、「思い起こしていたら……は終わっていた」で終わってしまうという間接話法は何のために必要だったのか。なぜジャストタイムで書くことができなかったのか。
「続」の第六章「虚言」P126「腕時計に目をやると、六時を過ぎたところだった」「カバンからノートを取り出し、福武は書きなぐったページを開いてみた」
 P136「公園のベンチで、今日一日の出来事を整理していた福武は、カバンを肩に掛けて立ち上がった。時刻は六時前であったが」
 六時を過ぎたころから10ページにわたって考え事をして終わると、六時前になっている。この人の時計は逆回りする。
 というくらいに現在時刻は無視されて、思い起こしたことばかりが書かれる。

 五味洋介が実在の人物であり、裁判闘争の中心的人物だから特に書きにくいというのはわかるが、もう少しどうにかならなかったか。
 彼は元営業マンであり、店長だった人物である。失敗はしたが自分で経営したこともある。たたかいが始まってからも、話すことが苦手な労働者たちに代わり、オルグにまわる。話すことが苦ではなかったと書いてある(「続」P22)。書いてあるだけだ。じっさいに話す場面がない。五味洋介の肉声が聴こえてこない。小説から受ける五味洋介の印象は、ぐだぐだと頭の中で考えごとばかりしている、いつも上の空のいたって無口で陰気な男である。説明と描写が食い違っている。説明ではそんな人物ではないはずだ。(「続」P232で洋介らしいセリフがやっとチラッと出てくる。こういうセリフがもっと欲しかった)

 日本語としておかしな文章が各所にある。
 一例。
「続」P50「変かもしれないけれど、みんなのために生を貫こうとしたから多喜二を殺した、支配者の」支配者がみんなのために多喜二を殺したと読めてしまう。どこが変なのかもわからないし、みんなのために生を貫くというのもなんのことかわからない。
 「人々のために生きようとした多喜二を、それが故に殺した支配者の」
 同じく。「わたしが多喜二のノートに出合った余韻をまだ残している、昨日のことだった」
 「多喜二のノートに出合った余韻がまだ残っていた昨日のことだった」

 こういうところがかなりたくさんある。

 とまれ、いろんな書きかたをする作家がいて、それを受け入れる読者がいる。読者のいるところに小説はある。だからどんな小説にせよ否定するつもりはない。小説はさまざまだ。
 ただ、自分はどういうものを読みたいかということはまたおのずから別問題だ。

 たたかいの小説で、具体的なたたかいの状況を書く必要はもちろんある。だがそれだけなら、それはむしろドキュメントの仕事ではないかという気がする。ぼくが小説に期待するのは、彼はなぜたたかうのか、ということだ。それはつまり主人公の精神の問題なのだ。人は状況だけでたたかうわけではない。心の中に何かが起こり、その結果たたかうのである。ぼくはこの心を作品のなかに見たい。
 いま「見たい」と書いた。それはまさに見たいのであって、解説を聞きたいのではないからだ。
 日本の伝統的自然主義私小説、あるいは心境小説と呼んでもたいして変わらないが、ぐだぐだと心のなかを書くやつ、あれはぼくの読みたい小説ではない。そういうものにはリアリティを感じることができない。人間の心はそういうふうには出来上がっていない。
 ぼくの見たいのは「シーン」なのだ。人の心が動く現場を目撃したいのだ。

 人間とは何か。
 心境小説は人間を作者の人形にしてしまう。現実にはそんなに理論立てて考えるはずのない人間の心を作者の意図通りに作り上げてしまう。作為が目立ち、リアリティがない。
 人間は外から見なければならない。外から見る人間だけが、現実にぼくらの前にいる人間なのである。その心は隠されている。ぐだぐだと見ることはできない。だが、その心が外に現れる瞬間がある。ぼくが見たいのはその「シーン」なのだ。

 どうなのだろう。ぼくらはもっとドキュメントを読まねばならないのじゃないか。ぼくらがドキュメントを読まないので、作家たちはドキュメントにすべき題材を小説仕立てにしてしまうのじゃないだろうか。
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