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「クレーン」39号(前橋文学伝習所)

 39号と、それへの批評を載せた「クレーン通信」と、一応目を通したので、感想を書く。ただし、多くの作品と多くの批評を読んで頭が混乱しているので、印象批評程度だが、勘弁願いたい。

 松澤 道「チャッコーナ・アルモーニカ(前編)」

 最後に読み、また初めて読む作者だったこともあって、これが一番印象に残った。もちろん「姉ちゃん」のセリフが独りよがりで、それも小学生の子に対してのこの長広舌は(内容も含めて)考えられない、という、糟屋さん、和田さんの指摘はそのとおりである。
 だが、このセリフは作者のセリフではなく、登場人物のセリフで、しかもまだ前編で、このあと、これを作者がどう料理するのか、というのは続きを読んでみなければわからない。
 期待外れに終わるかもしれないが、ぼくとしては大いに期待を持たされた。とてつもなく突飛な構想である。料理の仕方によっては面白くなりそう。
 ただし、これだけ風呂敷を広げてしまうと、前編と同じ長さの後編だけでは不完全燃焼に終わりそうで、せめて中編、後編と欲しい。
 作者自身、糟屋作品評のなかで安岡章太郎を引用して、自分には安岡のような表現力がないと嘆いていた。自作の欠点をかなりわかって書いているような向きがあって、よけいに期待を持たされる。

 もろひろし「空中楼閣(5)」

 第1回からの「クレーン」を作者からもらっているが、まだ読めていない。読んだのはおそらく前回と今回とふたつだけだと思う。(ひょっとしたらその前のひとつも読んだかもしれない)。全体的な感想は全部読んでから改めて書く。
 今回で最終回で、とうとう主人公は死んでしまった。死んでしまったら終わるしかない。
 何人かの感想を読ませてもらったが、意外と評価が低すぎる感じがした。ぼく自身はたいへん引き付けられて読んだ。
 心を病むとはどういう状態なのか、ということに強い関心がある。そばにいる人から見て書いたものは、結局外見にすぎず、心のなかが表現されない。一方、病んでいる当人の書いたものを、少し読んだことがある。読んだが、ぼくの知りたいことが書けていない。病んだときの当人の主観をそのまま描写して欲しいのに、なんだかクッションを置いてしまう。
 もろ作品は、当人に成り代わって当人の主観を書く。もちろんそれがほんとうに当人の主観だったかどうかはわからない。作者の推察に過ぎない。ほんとうにどうだったのかは、当人が亡くなった以上誰にもわからないし、たぶん生きていても本人にもわからないのではないか。
 けれども我々はこれを読んで、ほんとうにそうだったかもしれない、少なくとも真実からそんなに隔たってはいないだろう、という読後感を持つ。病む人の心に一歩近づくことができたような気がする。
 病む人の心というのは、雲をつかむようなものなのだ。それは合理性の彼方にあるので、理屈では理解できない。だからやはり文学的な接近法がいるのだと思う。
 少なくともひとつの症例を描き出すことには成功したのではないか。

 もうひとつ思うのは、「うつ」とひとことで言っても、その症状は一人一人違うのだろうということだ。
 今回、たまたま病者が、エホバの証人(作中ではヤーフェになっている)の信者であった。そこでそのことに特有の問題が加わって、問題を一層複雑にさせている。
 オウムの問題でも思うが、宗教問題というのは取り扱いのことさら難しい問題である。宗教批判というのはやりにくい。信仰の自由との兼ね合いが出てくる。だが、宗教に対する哲学的批判というのは、欠くべからざるものである。それは信仰の自由の問題とは切り離して、やっていくべきものだ。

 作品に戻る。最終回というのは聞いていたので、当然主人公は死ぬだろう。主人公の死をどう描くのだろう、ということに関心があった。
 そして今回の描き方は満点だったと思う。そこに雅夫は登場しない。いっとき荒れ狂って強制入院させられた千恵子は、心の平静を取り戻して退院し、二人は仲直りし、付き合い始めた頃のことを語り合う。前兆はひとつだけ、「唇が、なんか、紫っぽい」 翌日雅夫は泊りがけで出張に出る。そのあと千恵子の容体が急変する。同じ信者の愛子が来てくれて計った体温は33度しかない。救急車が来て乗せられるなかで千恵子の意識は遠くなっていく。「ああ、楽園へ行ける」
 それで終わりである。誰かの評のなかで、「作者はハッピーエンドにしてしまった」と書いていたが、こんなハッピーエンドはない。ここはこの上なく悲痛な場面であって、この上ない悲劇によって幕を閉じるのだ。それ以外になかった。
 病者への対応としてどこまで適切だったのか不適切だったのか、という批判はありうるだろう。しかし現実は思い通り、理屈通りにはいかない。狂った妻と日々対峙する夫にも自分の生活があり、現実生活を成り立たせるための職業の苦労がある。夫も神ならぬ人である。感情もある。そういう現実生活のなかでの苦闘を、声高に訴えてはいないが、読者には伝わった。でも作品の主眼はそこにあるのではない。
 千恵子の心を文章の上に再現すること。作者が試みたのはそのことなのだ。

 わだしんいちろう「天皇制廃止を訴える」

 というタイトルの小説なのである。面白いことは面白いのだが、結局よくわからない。

 田中伸一「最後の西部劇」

 映画評である。クリント・イーストウッドを論じている。ずいぶんたくさんの映画を観ている。それがそのままアメリカ文明評ともなっている。ぼくもイーストウッドは好きなので、楽しく読んだ。見ていない映画がいっぱいあって刺激になった。

 山川 暁「天皇と人権」 
 水丘曜一「国家と権力」

 天皇制について二人の論者がそれぞれの角度から論じていて、ぼくの知らなかったこともたくさんあって参考になった。
 しかし、ぼくが考えるに、天皇制の問題は複雑だ。もっともっと、いろんな角度からの意見を聞きたかった。天皇制特集と聞いて求めたクレーンであったが、少しもの足りなかった。浅尾程司さんが、当時の実情を素朴に書いていたが、そういうものももっとあってよかったのではないか。

 それはそれとして、山川さんの文章の誤字脱字の多さは際立っている。この人の名はよそでも目にしたことがあるし、著書をたくさん出している有名人らしい。松本清張の生原稿が誤字脱字のオンパレードで、秘書だか編集者だとかが修正していたというのは有名な話らしいが、高名な著者というものはそういうふうにやっているものなのか。それがたまたま今回の掲載誌が同人雑誌だったので、編集者が著者に遠慮して生原稿に手を触れなかった、ということなのだろうか。

 糟屋和美「花祭りのあと」

 小説というよりもエッセー的だが、ファミリー・ヒストリーとしても興味深いし、安岡章太郎の紹介にもなっていて、ぼくは安岡を知らないので面白く読んだ。

 和田伸一郎「三島由紀夫事件」

 これについては、松澤 道さんの批評中に書かれている事件への解釈に同感した。
 松澤さんの文章を次のような趣旨として受け取った。
「三島由紀夫には自殺願望があり、そこまでの事件は自殺するための舞台設定に過ぎなかった」
 ぼくは三島をほとんど読んでいないのだが、以前から、これと同じようなことを感じていた。ただし、「自殺願望」というよりも、「切腹願望」ではないかというのがぼくの解釈である。
 一度切腹を経験してみたい。しかし切腹は一度したら二度とできない。そこで人生終わりである。でも経験したい。齢とって体力、気力が衰えたらもうできない。やるなら今しかない。もちろんためらう気持ちがある。そこで一度始めたら後戻りのできないことをやって、自分を追い込んでいく。「ここがロドスだ。ここで跳べ」 ラスコーリニコフがさまざまな偶然を捉えて、ためらう気持ちを打ち消し、殺人計画の方へと自分を追い込んでいったのと、ちょうど同じように。

 以上です。
 ところで、和田さんへの手紙には書いたが、カギカッコの扱いと、「原因」の「因」がすべて「員」になっていること、この二つは著者の責任ではなくて、印刷所のパソコンの問題としか考えられない。善処されたし。

「小説書くひと=読むひと・ネット」に評が載っていると聞いて検索しましたが、2013年の34号評までしか出て来ません。
 どうすれば出ますか。教えてください。
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