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「長いお別れ」 2

 午前中で用事が一段落したので、きのうの続きを書く。
「長いお別れ」はたぶんこういうストーリーという、ぼんやりした記憶があったのだ。ところがそれは別の小説だった。いま思うと、たぶんフレドリック・ブラウンだ。フレッド・ブラウンは高校時代から好きで何冊か読んだが、いずれもSFだった。ところが一冊だけミステリーがあったのだ。題名を忘れて、きのう、あれから本棚を探したが見つからなかった。たぶん文庫の一冊本という記憶があったので、題名がわからなくても探せると思ったのだが。
 「長いお別れ」は、読んでいて、あ、結末はこうだという記憶がよみがえった。だが、途中の話をまったく覚えていない。
 ストーリーを忘れてしまっても、読後感のさわやかさだけが残っているのは、その文体のせいなのだ。日本の小説だけしか、あるいはせいぜい世界の古典文学しか知らない読者は、びっくりするだろう。文体の切れ味がすごく良い。自然主義文学の正反対だと言えば、だいたいわかるだろうか。
 明治以来の日本自然主義文学がどうにもたまらないのは、登場人物の心理をああでもない、こうでもないと、ぐだぐだと書きすぎるからだ。
 チャンドラーは一切書かない。書かなくても読者にはわかる。書かれている以上に分かる。主人公の心理も、他の登場人物の心理も。
 チャンドラーが書くのは、行動、言葉、表情、しぐさだ。つまり外から見てわかるものだ。それを書くことで人物たちの心のなかを読者に想像させる。
 チャンドラー作品は、ぼくに言わせれば推理小説ではない。探偵小説だ。どこが違うかというと、探偵の知り得たすべての事実を読者に公開していない。新しい事実が次々探偵の口から出てくる。これはフェアではない。全てが読者にあらかじめ晒されていなければ、読者は推理できない。探偵の後を追っていくことしかできない。だからこれは推理小説ではなく、探偵小説なのである。探偵の個性で読ませる小説なのだ。
 そういうように割り切れば、別に不満はない。新しい事実が次々出てきて、どんでん返しの繰り返しである。読者は油断ができない。これが真実だったのかと思った瞬間には覆されている。
 たとえばごく簡単な一例だが、最後の場面だ。

 私はうなずいた。「わざわざ来ていただいてすみませんでしたね、マイオラノスさん。ランディによろしくいってください」
「お礼には及びません」
「それから、こんど機会があったら、すじ道の通った話をする人間をよこしてもらいたいと伝えて下さい」
「何ですって?」言葉はおだやかだったが、語気は冷たかった。「私の話を信じないのですか」
「あんたたちはすぐ名誉にかけてといいたがるが、名誉が泥棒のかくれみのになることもあるんですぜ。怒っちゃいけない。おちついて、ぼくの話を聞きたまえ」

 といった具合だ。これは会話文のテクニックとしてもうまい。次の言葉が読者に予想できるような会話は退屈だ。常に読者を裏切るのでなければ、読む価値がない。

 しかし今回読んでいて、気付いたのは、チャンドラーの文章が意外と丁寧だということだ。簡潔だという先入観がある。たしかに簡潔なのだが、必要な描写は省いていない。新しい場所が出てくれば、その場所を短くだがちゃんと描写する。新しい人物が出てくれば同様だ。服装、背格好、顔、しゃべり方。
 そして会話はたしかに多いのだが、ときどき地の文をはさんで、話し手の表情や身振りを書く。これが意外と大事なのだ。素人はこれを書かないので、会話が宙に浮いてしまう。
 あと、もうひとつ。

 家に帰って、シャワーを浴び、ひげを剃り、服を着かえると、やっときれいなからだになった気がした。朝飯をつくって食べ、、食器を洗い、台所と裏のポーチを掃除してから、パイプにタバコをつめた。

 食器を洗い、掃除する。生活感にあふれているではないか。こういう生活感的描写が方々にある。
 もともと、探偵小説だから非現実的な物語だ。登場人物がみんな金持ちで、金持ちの世界の話だ。そうでなければ探偵を雇うことはできない。探偵だけが貧乏人で、それが金持ちの世界を歩きまわって、彼らと互角以上に渡り合うところが読ませどころなのだ。その探偵が、自宅に帰れば、食器も洗うし、掃除もする。そういう何気ない描写が、作品に現実感を持たせている。

 さてそこで、中山茅集子はこれを読んで、なぜ救われたのだろう?
 それは本人に聞いてみるしかないが、ぼくが想像するのは次のことだ。
 まずその突き放したような文体。じめじめしていない。乾いている。作家は文体によっておのれの思想を表明する、と常々ぼくは考えているが、このチャンドラーの文体がまず何よりも彼女の心にぴったり来たのではないか。
 しかもそれはがさつさではない。細やかさが秘められている。秘められていると感じさせる文体なのだ。
 そしてその文体がそのままフィリップ・マーロウの生き方となっている。
 ストーリーだけを追えば、通俗小説に過ぎないが、この文体を産み出し、その文体によって一つの人物像を作り出したことで、チャンドラーはたしかにある文学的業績を残したのである。
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