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「零地帯」第2号 その4

たなかもとじ「やまあいの雪」

 身近に、娘を若くして失った女性が二人いる。どちらも書く人で、永年書いているのだが、娘のことは書かない。書けないのだと言う。思いが溢れてとても小説にはできないのだろう。
 たなかさんもやはり若くして失った息子さんに強い思いを抱きながら、氏の場合は、二人と違って、その思いを書いてきた。
 そういう経験のないぼくには、その心中を察することは難しい。何十年前だったか、ぼくの母が、「私より先に死なないでよ」と言ったことがあった。どういう話からそうなったのか記憶にないが、両親との間にほとんど会話のないままだったぼくに対する母の言葉として印象に残った(もっとも、母はいつも一方的にいろいろとしゃべっていたか――)。
 自分が親になり、いくらか年取ってくると、この母の言葉を身に染みてほんとうだと思うようになった。子に先立たれたくはない。これはヒトという一匹の動物としての本能なのだろう。

 しかしながら自ら経験のない身で、重い体験を持った人の作品を論評するというのは難しい。難しいが、たなかもとじはもはやアマチュアというよりもそれなりの文学業績を持った人なので、このさい、率直に書かせてもらおうと思う。

 何を書こうとするのか、ということなのだ。故人を書くのか。その場合にも二つのケースがあるだろう。現実のその人を書く場合、それから、まったくのフィクションとして作り上げる場合。前者の場合は、作らずに、生きてきたその人をありのままに書き上げる作業になるだろう。読者もそういうものとして受け取るところに、その作品の価値があるだろう。後者の場合は、作者が何を表現したくてフィクションを創り上げたのか、ということが問われることになるだろう。
 だが、たぶん、いままで読ませてもらった限りで(あるいは読み落としたものもあるかもしれないが)、たなかもとじは故人を書こうとしているのではない。子を若くして亡くした親の思いを書こうとしている。
 そういうことになると、やはり経験のない者として、どういうふうに書けるのだろうかということがはっきりつかめない。
 ただ、ぼくも友達は大勢失くしてきた。若いころ親しく付き合った友達のほとんどがどういうわけか皆ごく若いままに亡くなってしまった。そういう彼らへのぼくの思いというのは、どういうものであるのか。と考えてみると、それは生きていた彼らの、その時々の身振り、表情、言葉なのだ。そういうものがときたま心に浮かび上がってきて、やるせない気持ちや、もっとちゃんと付き合っておけばよかったという悔いになったりする。
 何よりも一番に心に浮かぶのは顔である。顔、という、つまり肉体なのだ。肉体という具体なのだ。
 たとえば「風立ちぬ」にしても、「野菊の墓」にしても、「智恵子抄」にしても、そこに描かれるのは、やはり亡くなった人の生きているときの姿である。そういう具体である。対象の具体である。自らの思いの対象の具体である。そういうものとして以外に人間の思いというものは存在するだろうか? 思いとは常に何かに対する思いではないのか。

 しかし、子を失うということは、まったく意味が違うのだろうとは思う。
 ではあるのだが、ぼくがここで言いたいのは、たなかさんの今回の作品から、必ずしも思いが読み取りきれないということである。思いを表現する方法として、やはり具体的に思いの対象が書かれることが必要ではないか、というとりあえずのぼくの考えと、そのほかにどういう方法があるだろうかという模索として、ここに提起したい。
 私見を言わせてもらえば、住職の言葉で締めくくる形になったのはちがうのじゃないか。言葉で締めくくれば理屈になる。人の心は理屈では解決できないし、まして他人の理屈では解決できない。本人が心のなかでどう扱っていくかの問題だろうから。それは全面的に主体的な問題なのだ。
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