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堀田善衛「広場の孤独」

 半世紀ぶりに再読した。
 木沼駿一郎が「零地帯」をくれたので、パラパラとめくっていたら、「広場の孤独」が目に飛びこんできた。
 木村陽治「堀田善衛のまなざし」(「零地帯」第2号 民主文学会東京東部支部)
 懐かしさで、その論評を先に読んだ。ずいぶん詳しく紹介している。この評者はぼくより10くらい年上のようだが、20歳の時に読んだそうだ。その10年後、ぼくはたぶん20歳をいくつか超えていたと思うが、読んだ。
 最近、「ふくやま文学」の中山茅集子の話にちょくちょく出てくるので、気になっていた。
 論評を読んでいて、自分が「広場の孤独」の内容をまったく覚えていないのに気づいて、ちょっとあきれた。
 ぼくの記憶にはぼんやりした印象しか残っていなかった。共産党への共感と反感と併せ持って、結局どちらも選択できずに広場に一人立つ若いインテリ、というイメージだけが残っていて、読んだ時は深く共感し、その共感はずっと抱いていたが、小説の内容のほうは完全に忘れてしまっていた。
 木村さんのほうは、このあと堀田善衛を読み漁ったらしい。「キューバ紀行」にも触れている。ぼくもそれは読んだ。その内容はいくつか憶えている。
 今回木村さんも再読して書いているのだが、小説の要点を的確につかんで詳しく紹介している。
 論評を読ませてもらったあと、早速ぼくも再読にとりかかった。もともといずれはと、思っていたのだ。あまりにも内容を忘れすぎているので、すぐに読む気になった。
 こんなすごい小説だったのかと、改めて思った。
 内容紹介は木村さんが丁寧にやっているので、そちらを読んでもらうとして、小説の結構というか、組み立てにも今回目を引かされたので、それについて述べたい。
 ちょっと凝った作りになっていて、半ばを過ぎたあたりで、主人公木垣が小説の構想を思いつく。もう少し後で、そのタイトルは「広場の孤独」にしようと考える。そしてラスト、原稿用紙に「広場の孤独」と書いたところで終わる。そうして書きあがったのがこの小説である、という仕組み。もちろんわりとよくある企みだ。サルトルの「嘔吐」がそうだし、ほかにもあった。
 しかし、この小説の場合、そういう仕掛けが小説の主張とぴったり重なっている。それは単なる仕掛けではなく、作者がこの作品で言いたいことなのである。
 台風の「目」は空虚である。それはそれだけではなにものでもない。「目」を取り巻く状況が、それを「目」にする。そういうふうにして一人の人物を描き出すことができないか。
 Stranger in town 広場の孤独
 主人公木垣は30半ばのフリーの翻訳家だ。もといた新聞社をごたごたで辞めて推理小説の翻訳などでほそぼそと食べていた。朝鮮戦争が始まって新聞社の外電翻訳の仕事が忙しくなり、右翼系の新聞社に臨時に雇われて働き始めて10日ほど。1950年7月、アメリカ軍は釜山まで追い詰められ、日本海へ蹴落とされる瀬戸際まで来ている。
 レッド・パージの発動される前日の夕刊締め切り間際の新聞社から始まり、主としてその午後から一晩、朝の帰宅後の事件までの疾走的な叙述の後、半日くらい置いてレッド・パージ当日の夜で終わる。
 同僚の御国と、印刷工の立川という二人の共産党員。アメリカの通信社記者のハワード・ハント、ハントの同宿には国民党側の記者張国寿、これはたまたま木垣の上海時代の知り合いだった。オーストリー貴族のなれのはて、老ブローカーのティルビッツ男爵、これも上海以来の腐れ縁。そして、木垣の妻京子は法律上の妻ではない。元妻と離婚するための手切れ金が木垣にはないからだ。この京子は上海のドイツ大使館勤務時代にスパイの疑惑をかけられ、いまアルゼンチンに逃亡したくて躍起となっている。
 こういう言わば裏ストーリーともいうべき木垣のプライベートが、物語の裏で動いている。その隠された部分が最後に表面に出て来て、表のストーリーと分かちがたくつながる。このへんの叙述はミステリータッチだ。
 そのほか副部長の原口、元二世の土井(アメリカ育ちの日系二世なのだが、在日中に開戦になり、憲兵の通訳をやってアメリカ国籍を失った)といった、さまざまな立場の人々との間に噛み合ったり噛み合わなかったりする言葉がやり取りされ、それはまた木垣の頭の中ではいっそう縺れて終わることのない煩悶となる。
 戦場から次々入ってくる電信の翻訳に明け暮れる東京の新聞社から、戦場との間を行き来する飛行機が飛び交い、負傷兵を乗せた救急車が走り回っている羽田へ、そこからさらに軍需景気に沸き立ち、夜を徹して動いている川崎の重工業地帯、そして様々な国籍の怪しげな人々と札びらと陰謀とが充ち溢れている横浜のキャバレーへ、そこから舞い戻って真夜中の新聞社、そして朝が来て、妻と幼子の待つ木垣の借間へ。マイホームへ帰って落着するのではない。そこで決定的な事件が起こり、表の物語と裏の物語が一つになる。その午後レッド・パージの発動。
 いわば朝鮮戦争の前線基地ともいうべき東京周辺を一晩の間にぐるっと一周りするような形で駆け抜けていく。その一晩の間に様々な物語が展開する。
 非常に密度の高い小説である。
 ぼくの記憶のなかではもっと観念的な小説に思えていた。もちろんこの小説のなかではずっと思索が展開していくわけだが、それが展開されるのは戦場のすぐ隣に接してその影響を強く受けている現場そのものとの関わりにおいて、そして戦場と密接に関わっている人々との関係においてなのだ。
 観念が独り歩きしていない。否むしろ観念は空虚なのだ。それは台風の「目」だ。それを台風の「目」となすのは、「目」の周囲の状況なのだ。この状況を描き出すことによって、「目」を描き出そうとしている。
 キーワードはコミット commit もしくは commitment。
 敗戦からわずか5年、戦争で崩壊した日本経済が、いま戦争によって回復しようとしている。商売人は喜び、労働者も喜んでいる。インテリにも働く場所が出来た。日本はすでにコミットしている。日本人はコミットしている。自分はコミットしている。
 主人公木垣は、共産党員御国や立川に惹かれながらも、そのあまりものあいまいさのなさに、違和感を捨てきれない。問題意識の決定的なずれを感じて、それ以上入り込むことができない。
 そして広場の孤独、Stranger in town なのである。

 文学的にも非常に興味深い作品で、こういうものを読むと、いまの芥川賞なんてずいぶんレベルが低いなあという感じになる。だいたいいまの小説には政治が関与しない。大江健三郎の「われらの時代」だって、すぐれて政治的だったではないか。政治を抜きに人間を語ることはできない。
 こういうことをいま一度ぼくらは考えてみる必要がある。

 その上にまた、「零地帯」の木村さんがいまこれを取り上げたのはあまりにもタイムリーだ。ここには敗戦後日本の原点がある。ここから考えねば始まらないという感じ。いままさに、そのときではないか。広場の孤独、Stranger in town。
 キーワードは commit もしくは commitment。
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