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「民主文学」18年6月号7月号

「民主文学」の新人賞2作と、7月号の3作と、久しぶりに全部読んだ。「まがね」が一段落ついたから読めた。新人賞2作(新人賞と佳作)については合評したので、「まがねブログ」に要約が載るだろう。
 ぼくはどちらもとても興味深く読んだ。文学作品としては梁正志「奎の夢」の方が上だと思ったが、田本真啓「バードウォッチング」はともかく面白さで読ませた。こういう作品は好きだ
 合評でも指摘があったが、問題をいろんな角度から追及して、「こうだ」と断定していない、そこに好感を持った。「こうだ」と答えが出るようなら、小説なんか要らない。答えられないから小説を書くのだ。
 カントとピーターパンと介助と並べて、三題噺というわけで、しゃれた構図である。しかも必ずしも上っ面ではない。かなり読み込んで書いている。
「たとえば永遠平和。それらはやっぱり抽象的で、現実化するにはあまりに脆すぎるわけだけれど、いざ信じることはおろか、顧みることさえ諦めてしまったら、おそらくそれらは妖精と同じで、本当に死んでしまうんだと思うんです」
 ただ現実にだけ寄りそって問題を考えていたら、見えなくなってしまうものもあるのではないか。違う角度からも見るということを促すところに文学の役割があるのではないか、ということを思い出させてくれるフレーズである。だから介助も様々な角度から見る。
 弱点をいくつか。やはりわかりにくいところがかなりある。冒頭からして分かりやすいとは言えない。もう少し書き方に工夫が必要だ。
 作品の実質的な主役はばあちゃんなんだが、ばあちゃんが舞台表面に登場するのは、2箇所だけ。「僕」の少年時代と、それから20年飛んで、3年前ばあちゃんが認知症を発症した時である。その間の20年間のことはまったく分からないのだが、それはそれとしても、現在のばあちゃんが希薄である。そこにいるのだが存在感がない。特にラストの場面、車椅子のなかにばあちゃんがいるように見えない。これは決定的だ。
 もうひとつ、最後の場面で、ヤマネコさんが、「ま、難しいことはよくわからんが」というのは違う。「僕」よりもずっと理屈を並べてきたヤマネコさんなのだから、「ま、今日は理屈は言わないが」くらいにしておかねばキャラが成り立たないだろう。

「奎の夢」には、合評では批判もいろいろ出た。歴史の事実にもとづいて書いているので、その点での難しさがある。この点はどうなのかという意見が各所に出た。ぼくも現代史をよく知らないので答えられない。
 もちろん明らかにフィクションの部分もあるのだが、その点での視点の移動などが選評で指摘されていたが、ぼくはこの作品に限っては視点の移動によるフィクションは認めてもいいように思った。それが史実の根幹をゆがめるわけではないし、ある程度小説的面白さがないと、読んでいけないからだ。
 合評での指摘部分は「まがねブログ」に載るだろうが、当否はよくわからない。ぼくの印象としてはよく調べて書いていると感じた。
 そしてなによりも、いまいちばん書かねばならないことだとも思った。

「ライク・ア・ローリングストーン」も読ませる作品である。渥美二郎はいつも読者をつかんで離さない。楽しく読んだ。
 ただ、疑問もある。障害とは傾向なのか? 傾向は誰にでもあるし、その種類も程度も人さまざまだ。障害と傾向との間の垣根なんてあいまいなものなのかもしれない。
 それでもぼくが不安になるのは、次のような記事を新聞で読んだ記憶があるからだ。
 若年認知症の人が、「私だってしょっちゅう物忘れするわよ」と言われて傷ついたという話である。「物忘れと認知症とはまったく違う。そのことをわかってくれていない」と感じたのだという。
 垣根はあるのかないのか。それはあいまいでよいのか。それともそれをあいまいにすることが新たに別の問題を生むということはないのか。

 井辺一平「冷える月」
 倉敷民商事件を土台に書いたらしい。ほかにも全国的に起こっている問題らしいが、作者が参考文献として挙げているのは、倉敷民商事件である。わが「まがね」の地元の事件である。それを我々が書けなかったというところにいまの「まがね」の実力が現れているような気もする。そういうことを書けた人々が老いてしまい、いまの我々には実際実力がない。
 日本語の使い方はめちゃくちゃ下手である。外国人が書いたのではないかと思うくらい下手だ。ため息をつきながら読んだ。
 しかし書いてある内容はすごい。ため息つきながらでも読まずにおれない。多くの人に読んでほしい内容だ。
 文学団体として、こういうものをもっと大衆化するための手が打てないか。つまり、誰かがもっとちゃんとした日本語で書き直すということがあってよいのではないか。
 もちろんただ日本語が上手なら書けるというものでもない。作者の書いた内容をちゃんと理解できるだけ事情にも通じる必要があるだろう。
 また他方、こういうことも思う。
 純粋に法律的事項の叙述、たとえば79ページの下段などはとてもわかりやすい日本語になっていて、明晰である。この作品の日本語の下手さは、これを小説にしようとする努力のたまものではないか。小説的に書こうという無駄な努力をしなければ、この人はもっと上手な日本語を書ける人なのではないか。

 最後に、木下道子「酒蔵の街」は楽しく読んだ。そこそこ高齢の女性はたいがい文章がうまい。文章がうまいと読んでいて楽しい。
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9:コメントありがとう by 石崎徹 on 2018/06/12 at 11:20:11 (コメント編集)

 どこまでが事実で、どこからがフィクションなのか、知りたい気がしますね。
 倉敷民商事件もじつは全く知らないのです。

8:冷える月 by 笹本敦史 on 2018/06/11 at 21:58:08

「冷える月」が描いている事件は倉敷民商事件とは違うようです。
倉敷民商事件のような建設会社と民商という私的な場で行われたことについては言いがかりをつけようと思えばできないことではないですが、この作品に描かれたような、公的な場で行われたことに関してこんな逮捕が可能なのか(実際にあるのだろうか)、やや疑問を持ちました。

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