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永澤 滉「分断と共同」(「民主文学」18年3月号)

 整った文章なのだが、整いすぎていて、小説の文章としては物足りない。タイトルを見てもらっても、どういう文章かは察しが付くだろう。
 ところが内容は面白いのだ。文章よりも内容で読ませる小説、というふうに考えれば、文章は気にならなくなる。
 30代の女性がいて、<護憲と反権力>の週刊誌の記者である。大手出版社の雑誌部門が分離したのだそうだ。月刊誌なら「世界」などが頭に浮かぶが、「週刊金曜日」かなあ、あれまだあるのかなあ、ほかに浮かばないなあ。もっともこちらは出版事情に疎い。
 父親が函館にいて、国立大学を定年退職して、地元の女子大で文学を教えている。かたわら、市民向けの文学散歩など企画している。その集まりには教え子を中心に、若い女性の参加が多いのだそうだ。いまどき珍しいのじゃないか。ここらでそういう集まりをしてもおばあさんしか来ない。きっと父親の授業が若い女性に評判いいのだろう。
 その娘である記者は、父親から文学散歩の手伝いを頼まれて東京から帰省し、バスに同乗している。
 若い女性の多い中に40代の、地元とも思えない女性が混じっていて、目を引いた。母親が函館の出身で、懐かしさで函館を見に来たのだそうだ。
 いきさつがあって、記者はこの女性と親しくなる。それがとんでもない大金持ちである。金持ちが函館を懐かしんで、地方の市民の集いに便乗したりするだろうかという疑問がわくが、まあ、そこはお話だ。
 金持ちなのだが、人権問題に関心が強く、人権を守る会を作って、弁護士などを集めて、実地に活動している。費用は企業や金持ちから寄付を募っているのだそうだ。
 はたしてこの女性は善意の人なのか、それとも何らかの目的を持ったスパイなのか、という疑念が浮上する。記者は好意的に受け取っているが、その同僚の女性は懐疑的である。
 その上に、記者が自分の勤務する週刊誌に書いたエッセーで函館の文学散歩に触れたことから、集いに参加した若い女性教師たちに圧力がかかる。文学散歩自体は政治を排除した文化行事としてやっていたのだが、<護憲と反権力>の週刊誌に載るような集いなら参加してはならないということになったのだそうだ。
 父親は学生時代に反戦運動などやって、そのせいで大学で職を得るのに苦労し、ずっと政治とは距離を置いて生きてきた。そういう人物の文学散歩だから市民権を得ていたのが、<護憲と反権力>の週刊誌の、だが、それ自体は政治臭のないエッセーで触れられただけで、地元の学校関係者が騒ぎ始めた? よくわからないが、そういうこともあるのかもしれない。書いたのが、文学散歩の主催者の娘だったというのが問題になったのかもしれない。
 圧力を受けた若い女性教師たちが集いに参加したことをだれが告げ口したのか。という問題があって、そのことと金持ちの人権女性との関係を作者がほのめかしているわけではないのだが、この女性の行動が謎に満ちているだけに、読者のほうではそういうふうに反応する。ミステリーの要素が加わってくる。
 人権問題のひとつとして冤罪事件が取り上げられ、三鷹事件についてかなり枚数を取って語られる。その事件に関する集会に参加した記者は、実際に三鷹駅周辺を歩いてみる。下山事件、松川事件について書いた松本清張がなぜ三鷹事件については書かなかったのか、そういうことへの示唆をも含みながら、ますますミステリーじみてくる。
 作品の最後で記者は父親と話し合う。いまは保守の人とも金持ちとも、手を組まねばならないそういうときなのだという話の流れで、記者が「彼女はかなりセレブな生活をしている人ですよ」と言ったのに対し、父親が言う。「平和を語るのに貧乏である必要はない」
 ここはたいへん説得力がある。

 というわけで、細部にはかなり疑問があるのだが、そこはお話として読んでもらうとして、話の大筋は面白いし、主張にも共感できる。
 のだが、話の根幹に関するところで、もう一つ大きな疑問がある。
 小説らしからぬタイトルが正直に表しているとおり、この小説のテーマは「分断」なのだ。集い参加者への圧力が顕わになった時点で、記者の同僚の女性が言う。「今、権力は市民が結束することを極端に恐れているのよ。市民を分断しようとしているのね。小さい芽でも早く潰そうとしているのだと思うわ」
 そのあとセレブ女性の人権を守る会の機関紙にはこうある。「現在の日本社会は市民を分断する動きが顕著になっている。市民を正と悪とに色分けしてその対立を煽る。役立つ人間と無駄な人間を分ける。この傾向が進行すると恐ろしい社会が出現するのではないか」

 立場の異なる両者に同じ発言が出てくる。これは作中人物のというよりも、作者自身の現状認識なのだ。そしてそれに対してぼくにはたいへん疑問がある。

 分断社会が出現しているのは現実である。とりわけそれは労働界に激しい。正規と非正規によって労働者が階級差別と言ってよいほどに分断されている。もっとも、それは昔からあった。昔は本工と下請け工との差別だった。そのもっと前は社員と工員との差別だった。工員は社員でさえなかった。さらに遡れば社員とは株主のことだったのだが。
 こういう分断支配、それによる賃金差別、それによって相対的に優遇される層を体制側に取り込み、反抗を起こしにくくする、とともにコストダウンを可能にする、という一石二鳥の政策に変わりがあるわけではない。
 だが、第二次大戦後の一定時期社会の均質化があったのも事実で、たとえば下請工と言っても、下請会社の社員であり、少なくとも非正規と呼ばれる身分ではなかった。会社間格差はあっても、会社から排除されているわけではなかった。
 いまの経済状況を大きく見れば、グローバル化によって、すでにあらゆる紐帯が存在しなくなっている社会である。資本はすでに国家を必要としていない。分断はすでに現実である。
 だが一方、それではじつは資本は困るのだ。資本にとって国家はもはや不必要だが、国家がすでに不必要だということを人民に悟られるのは資本にとって望ましくない。
 彼らは自分のもうけを社会に還元する必要をもう感じていないが、しかし、こういう現状に人々が気付くことは危険なことだと認識している。
 国家はすでに事実上存在しないと同然なのだが、でも存在しているように見せかけねばならない。で、彼らはイデオロギー操作で、ないものをあるように見せかける。いま愛国心が盛んに鼓舞されるのはそれゆえだ。
「権力は市民を分断しようとしている」と永澤氏は言う。しかしぼくの実感は違う。「権力は同調圧力を強めている」
 家族愛、郷土愛、国家愛が強調される。「分断」どころかむしろ「結束」させようとしている。

 もちろんそれは同調しないものを排除することと同じ意味なので、その意味では分断でもあるだろう。永澤氏とぼくとは同じものを反対の方向から見ているだけかもしれないが、それでも違和感はある。
 金持ちだろうが貧乏だろうが、保守だろうが革新だろうが、いまの政治の方向に対して結束して抵抗せねばならないという永澤氏の主張はわかるし、そのとおりだと思う。
 だが、いま体制の側が襲いかかって来ているイデオロギー攻勢、それが社会を巻き込み、またそういう社会的傾向を逆利用して体制が取り込んでもいる状況を見るならば、永澤氏の主張に違和感が生じてくる。

 ぼくの実感では、体制は現実としては社会をばらばらにしながら、イデオロギーとしてはそれを何とか一つにまとめあげようと一生懸命になっている。
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