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馬場雅史「多喜二を繋ぐ」(「民主文学」18年3月号)

 この人の現代高校生ものを二つくらい読んだと思うのだが、どちらも高校生の会話の部分はうまいと思ったが、全体としては芝居の台本を読まされているような感じがした。
 ところがこのエッセーには引き込まれた。
 自分の父親と、さらに祖父(母方か)とがそれぞれ多喜二に抱いていたらしいなみなみならぬ関心が、思わぬ形で出てくるところを書いている。本人は身内の話が読者にとって意味があるとも思えないのだが、といくぶん遠慮しながら書いている。ところがこれがたいへん面白いのだ。
 息子の18歳での入党に父親が反対したのは、多喜二のような苦労もしたことがないくせに、という思いからだったと十年後に父自らが打ち明けた。
 祖父の場合はもっと変わっている。アイヌの血を引くらしい祖父は、戦後樺太から引き揚げてきた。祖母は木造の出だ。木造は太宰治の「津軽」で有名である。子供がいなかったので、貧しい朝鮮人の娘を養女にした。それが筆者の母親らしい。祖父は漁師で、アイヌの民話を語ってくれた。読み書きができないのだろうと筆者は思っていた。ところが死後、「アカハタ」や多喜二の小説が出てきた。弾圧を恐れて読み書きのできないふりをし続け、戦後もそれを変えなかったということらしいのだ。
 失礼かもしれないが、この人の小説よりもこちらの方が面白い。
 ほんとうのことというのはしばしば作家たちの空想力を超えてしまう。ほんとうのことというのは面白いのだ。これを超える嘘を作り出そうとするのはつくづくたいへんなことである。
 世の中には、面白いエッセーを読むと、「なぜこれを小説にしないのか」などと言う人がいる。何故そんな発想が出てくるのかぼくにはわからない。小説は小説、エッセーはエッセー、ルポルタージュはルポルタージュ、そして評論は評論、それぞれがそれぞれ文学である。小説がエッセーよりも上にあるわけではない。
 とはいえ、もちろんそこから空想力をはばたかせて小説を創り上げることもできるだろうが、それはまた別の作品なのである。
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