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「わだかまる」再読

 二か月ぶりの再読である。いま、この作品で、ぼくが一番評価したい気になっているのは、文体である。
 ぼくは決して文体だけで持ち上げたり切り捨てたりする読者ではないつもりだが、それでも文体の好き嫌いは無視できない。
 一般に日本伝統の自然主義的文体は好きじゃない。それに対して、この作品の場合、一人称で書きながら、書いてあるのはほとんどその語り手の見聞きしたことであり、それにちょっとコメントを付け加えるだけである。語り手の心の内をぐだぐだと書かない。そこには謎の部分があり、それを読者に考えさせる仕掛けになっている。
 本格派の推理小説に多い手法だ。ハードボイルド的でもあり、ヘミングウェイやカミュとも共通する。さらに言えば演劇的である。演劇ではセリフが飛び交うだけであり、心の内は観客が想像するしかない。
 ぼくがこういう文体を好きなのは、心の内などと言うものは書けば書くほど嘘っぽくなるからだ。現実世界にはそんなもの存在しない。ただ想像してみるだけだ。だから書かないほうがリアリティがある。
 だが、文体を一番評価するということは内容的にはやはり不満があるのだ。
 設定自体はありふれている。父は母に昔から暴力をふるっていた。同居していた兄は十数年前に自殺し、その妻子はそのとき家を去る。姉は車で二時間かかる隣県にいる。「私」は大学以来関東に住み、そこで就職、結婚して、その息子がすでに大学生。もう五年間帰郷していない。その故郷は新幹線を使って四時間かかる。「私」は父を嫌い、その父にさからえない母を軽蔑して、いわば彼らを捨てた状態にある。
 こういう設定自体はありふれたものである。だがいまいち説得力に欠けるのだ。父親の像がうまく結べないのである。「人目もはばから」ず浮気し、そのせいで出世を逃し、近所が心配するほど家庭内で怒鳴り声をあげるような男が、「単なる愚者とみられるような人物」ではない? 父親をうまくイメージできないので、家族像も結べないし、兄の自殺(なぜ同居していたのだろう?)もすとんと胸に落ちない。
 ここにまず最初の躓きがある。
 それでも話をうまく盛り上げて結末まで持っていってくれていたら、おそらくそういったことはごく小さな傷として無視することができただろう。
 ストーリーは設定ほどありふれていない。認知症気味の母から、父を階段から突き落として殺したと電話がかかってくる。姉に電話すると、知っている、もうじき実家に着くと返ってくる。ところが帰郷した「私」は、かつて親しくしていた隣の姉さんから、事件の前日に姉はすでにその家にいたという情報を得る。
 姉はなぜそれを隠すのか。「私」の心に疑惑が生じる。疑惑の内容を「私」は語らない。しかし読者は、父を殺したのは姉ではないかと思ってしまう。ここのところ、初読後しばらくしてぼくの読み間違いだろうかという疑念が生じていたが、今回読み直してみて、やはりそうとしか読めない。
 しかも、疑惑はそれにとどまらない。葬儀に集まった近所の人、「私」が疎遠にしてきた親戚、みんなが事実を知っていて、「私」と妻だけがつんぼ桟敷に置かれているのではないか。あわてて言葉を翻した隣の姉さんの態度や、葬儀の場の雰囲気から、「私」はそう感じてしまう。
 そして「姉さん。姉さんは僕が捨てたものを一人で背負っていこうとしているのか」と終わるのである。
 ここには非常に面白いテーマがある。事件そのものは小説的な面白さだとしても、そこにとどまらない深い意味での面白味がある。
 情報とは何か、人は何を知っていて、何を知らないのか、それさえもわからないのが人生なのではないか、という問いかけがある。
 ところがこの最も重要な場面が駆け足で通り過ぎてしまうのである。
 それがいちばん残念なところだ。そこにこの文体を選んだことの難しさがあると思う。自然主義者たちはくどくどと心理描写してすべてを説明してしまう。それは簡単な方法だ。そして結局小説をつくりごとにしてしまう。そういう方法を拒否する作家は、隣の姉さんを描き、近所の人を描き、親戚を描き、また彼自身の姉を描き、母を描き、妻を描きする中で、ひとつの場的雰囲気を盛り上げていくことで、語らずして読者に感じせしめねばならない。
 それが作者の選んだこの文体が作者自身に要求する困難なのだ。そして残念ながら、この作品はそこまでには一歩及ばなかったようである。
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