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「労働価値説」について

 マルクスをあまり読んでいないので、ぼくが理解した限りでのマルクスについて述べる。ぼくの描くマルクス理論が、ほんとうのマルクスと食い違っていれば、その部分はぼくによるマルクス批判だと思ってほしい。
 ぼくの誤解かもしれないが、労働価値説の「価値」を、道徳的価値と錯覚する向きが一部にあるような気がする。ここに書くのはそれへの批判である。
 ぼくの理解では、この「価値」とは「商品価値」のことであり、純粋に経済学用語であって、みじんも道徳の色彩を持ってはいない。道徳との間にはっきり一線を引かねばならない。
 それは商品がいくらで売り買いされるかということ以外の何ごとも意味してはいない。
 ではなぜ、価格と呼ばずに価値と呼ぶか?
 それは価格がさまざまな偶然に左右されるからである。さまざまな偶然に左右されながらも、なおテレビ一台は鉛筆一本よりも常に高い。この価格が逆転することはまずありえない。つまりそこに偶然に左右されることのない商品の本質的な構造がある。これを見極める必要が価値という用語を生んだ。
 いわば、価格という現象に対する価値という本質である。これはつまり、プラトン由来の観念論なのだ。美しいものがさまざまでありながら、どれをも美しいと呼べるのは、美しいものという現象の背後に、美という本質が存在するからだ、とプラトンは考えた。この本質こそが実在であって、目に見えるものはその本質の現れ=即ち現象にすぎないのだと。
 だがもちろん唯物論者マルクスは現象の背後に何かがあるとは考えない。
 存在するのは美しいものであって、美は存在しない。否、それも間違いであって、実際に存在するのは何らかの物や事柄なのだ。そしてそれとともに人間の感覚が存在する。この感覚が物や事と遭遇して美を感じる。それはさまざまな偶然的要因に左右されるが、人間が自然の生み出した動物である以上、その感覚には生理的要因があり、普遍性がある。(社会は人間にとって第二の本能だから、もちろん社会的要因と社会的普遍性も)。
 原始時代に茶碗を作った人たちは、それをできるだけ丸く滑らかに作ろうとした。そこには茶碗の用途とそれを用いる人間の身体特性、そして材料から見た形態の経済性ということがあった。それが茶碗における美であった。
 しかしろくろで簡単に丸く滑らかにできるようになり、さらには型を使って大量生産が可能になると、もはや丸く滑らかなだけでは美を感じとれなくなる。そこで手作りの茶碗にはどこかに一ヶ所いびつなところを残すことで手作りらしさを演出する。それが新たな美となる。時代が人間の感性を変化させるのだ。美は流行に左右される。しかし、それでもそれはその根底に人間の生理を(社会的生理も)何らの形で忍ばせている。
 価格と価値の関係も同様である。価格こそが実在なのだ。だがその価格を単に偶然において理解するだけではなく、最終的にその価格の構造を理解しようとすれば、いったん偶然的なものをとり除く必要がある。
 そうして現れたものが商品価値である。これは存在しない。ただ商品価格の理解のために頭の中に引かれる補助線である。この補助線を引くことで、経済学はみごとにわかりやすくなる。
「労働価値説」とは労働が価値であるという意味ではない。労働がいつでも価値なのではない。その労働による生産物が市場に出てきて商品として売り買いされたときに、その商品価格を決定する基本的要素として労働時間が現れる、労働時間の大小が価格の基本的決定要素である、ということ以上の意味はない。
 使用価値のないものは商品ではない。使用価値のあるものだけが商品である。だが、使用価値は商品価値の大小に対しては決定権を持っていない。決定権を持っているのはその商品を作り出すのに要した労働時間だけである。
 使用価値はものとは限らない。サービスも使用価値である。すべて人間の欲望に応えるものは、その欲望が胃袋からのものであろうが、精神からのものであろうが、等しく使用価値である(と資本論の、わずかにぼくの読んだ部分に書いてあった)。
 
「剰余価値」とはなにか? 教師が子供に教育を与えるとき、子どもの脳という物質に物質的変化を与えるのが剰余価値? なのではない(とこれも資本論に書いてあった)。
 その教師が学校経営者に雇われて、子供の保護者が払う学費から経営者にピンハネされれば、そのピンハネ分が剰余価値なのだ。剰余価値とは資本と労働者との関係においてのみ生じる概念である。
 この点に関して、ぼくにも過去に思い違いがあった。自分が食べるのに精いっぱいのものしか生産できなかった原始時代から、余分に生産できるようになって、奴隷主が生まれた。この奴隷主の得た剰余価値に雇われて音楽家や美術家が現れる。この音楽家や美術家は奴隷の剰余価値で飯を食っているのか? 現象としてはそう言えないこともない。
 だが、マルクスが理論構築しようとしているのは経済の発生経過ではない。資本の構造を明かすための理論なのである。主人のために食べ物を作るのが奴隷なら、主人のために音楽や美術を提供するのもやはり奴隷なのであって、ここに区別を持ち込んでも意味がない。
 何のための理論展開なのか、何を明らかにしようとしているのか、そこをはっきりさせて物を読まねば、おかしな誤解が生じるだろう。
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