FC2ブログ

プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

ジョージ・オーウェルをもう一度

 ジョージ・オーウェルの「1984年」への感想は、ネット社会に溢れている。日付を見るとけっこう新しいものが多く、いま流行っているというのは本当だなと実感する。
 ぼくはジョージ・オーウェルからの連想で「1Q84」を読み、それが春樹を読んだ最初だったのだが、若い読者は逆である。「なんだか春樹の小説に似た題名の小説が最近はやり出したぞ」ということで読んでいる。世代の違いを感じて面白かった。
 ネット上の感想は、好評と悪評と分けて並べている。数行だけを列挙し、「続きを読む」をクリックすると詳しく読める。短いのも長いのもある。
 好評を読むと、スターリンや社会主義への批判として読んだ感想は意外に見当たらない。現代社会への警告として読んだ読者がほとんどである。70年前に書かれた本だが、書かれたことと似たことが、いま起こっているじゃないか、という文脈で読んでいる。
 一方悪評のほうは「暗い」「魅力のない中年男が何だかくだらないことをぐちぐち言っている」「退屈である」というものに交じって、「リアリティの欠如」を責めているものが多い。
 どこがおかしいかについて、延々と書いている熱心な人もいる。だが、もちろんそういう読み方をするならこの小説はもともと突っ込みどころ満載なのであって、彼が丁寧にあげているどのひとつも、大方の読者にとってはとっくに承知なのだ。ぼくもすべて気づいていたことである。
 たとえばテレスクリーンである。画面の中の女性体育教師が、自ら体操しながら、まじめにやろうとしない主人公(画面のこちら側にいる)に対して「スミス、もっとまじめにやりなさい」といきなり画面の中から名指しで叱りつける。
 テレスクリーンで束縛されているのが党員だけだとしても、少なく見積もっても四桁を下ることはないだろう。この女性教師が体操しながら数千のモニターに目を走らせ、怠け者を瞬時に見つけて名指しする、などということができるはずがない。また怠け者が数千人の中で一人だけではあるまいに、指摘されるのが一人だけというのもおかしい。一人の教師が何人かずつ受け持っているのだとしたら、膨大な人数の教師が必要である。
 こんなことは読みながら誰の頭にも浮かんでくる疑問である。同じような疑問はすべての空想小説、漫画、アニメ、実写を含めて映画一般に掃いて捨てるほどあるだろう。そんなところで引っかかっていてはその手のフィクションを楽しむことなどできない。
 おそらくこの手の読者も、他の娯楽を楽しむときにはそんなことを気にしないはずだ。だが、このオーウェルの小説があまりにリアリティに充ちているために、あるいは、ひょっとするとあまりに地味で暗くて娯楽的ではないために、これを空想小説として割り切って読むことができなかったのだろう。
 他の読者はこれをあり得ない話としてではなく、70年前に一人の作家が空想小説として書いたことが、いまほとんど実現してしまったとして読んでいる。
 いま、あらゆる街角に監視カメラがあり、たしかに犯罪者の摘発に役立っている。犯罪の防止効果もあるだろう。だが、それはつまり我々皆がすでに日常的に監視されているということである。
 これにただ慣れてしまうだけでよいのか。という疑問を読者の心に喚起する、読者の想像力に働きかける、それがつまり、文学の役割だ。
 それ以上のことを文学はやらない。それ以上のことを考えるのは読者の役割である。文学はただ読者の想像力に働きかける。
「こんなにも生産力が増大したのに、なぜいまだに貧困があるのか?」
 ジョージ・オーウェルはすでに70年前の時点でそういう疑問を提起していた。この疑問はまさにいまこそ人々の頭に浮かぶべきことだろう。
「戦争とは何か。なぜ戦争があるのか? それは権力者が人々を支配するための道具立てではないのか」
「権力とは何か。何故権力は存在するのか?」
 こういったすべてのことについて、彼が作り上げた空想社会がチンケで非現実的だと言って批判したい人は批判すればよいが、小説家が提供しているのは考え出すための動機なのである。彼は答えを提供するわけではない。「考えなさい、想像してごらん」と言っているのだ。まさにビートルズのように。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す