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「いのちをふるい立たせてくれ!」 を読んで   植田与志雄

「いのちふるい立たせる」が石崎さんにとって特別な思い入れがある言葉であること、そういう言葉が特にサヨクの側に今必要になっていること、が語られている。
 私にとって「いのちふるい立たせる」言葉は何だったのか、そもそもいのちふるい立つようなことがあったのか振り返ってみると、私にとって耳に届いた言葉は「いのちふるい立たせる」という感覚とは少し違っていた。
 石崎さんは「人を動かすのは理屈ではなくいのちをふるい立たせるかどうかだ」と言いますが、私はどちらかというとふるい立ったというより、なるほどそうだな参りましたという静かなふるい立ちだった。
 紹介されている本を私が読んでいないからかもしれないけれど、石崎さんがふるい立ったセリフがなるほど感を持って迫ってこないのです。これは個人の体験の差によるものだろうから気にしないことに――
 でも肝心の後半の問題意識は十分に共有できるので、ここについて書いてみます。

*結論部分で「左翼は言葉の使い方において右翼に負けている。ずっと負け続けている。右翼の側からはとっかえひっかえ優秀なポピュリスト、パフォーマーたちが輩出するのに左翼の側はそういう人材に欠けている。欠け続けている」とあります。
 ここに言い訳したくなります。

*存在は意識を規定スル、これが正しいとすれば、今は「国を守れ、軍備なしに平和は守れない」この言葉が通じる現実があるから「武力で平和は守れない」は負けていると思う。戦後20年は「武力で平和は守れない」は常識で「平和は武力で守る」こんな言葉は通用しなかった。今では身近な現実がこのコトバに力を与えている。
 例えば中国社会主義は平和愛好国には見えない。昔の常識「社会主義になれば国家も死滅して戦争もなくなる」の正反対で、油断できない隣国になっている。だから自衛隊を“アブナイ隣国から国民を守ってくれる存在”と見て肯定する意識が国民の大多数となっている。
 負け惜しみになるかもしれないけれど、右翼に優秀な人材がいるからというより、左翼がこの現実に負けているから。現実に負けない、現実を乗り越える何かが要るのだが、左翼はそこまでの力を持てていない。その現実を乗り越える何かとは何だろう? 石崎さんはこれを自他に問うている。

*45年前、私をふるいたたせた(?)言葉は二つあった。
 同期入社のキリスト者から軽く言われた「リップサービスではだめ」がひとつと、もうひとつは、退職してアメリカの半導体会社に転職が決まった先輩の送別会でのあいさつ「世の中には自分のことしか考えない人とそうでない人がいる、自分は後者でありたい」だった。
 高度成長と反体制気分とが同居していた時代、私は当時の青年の平均として社会主義を知識として常識として賛同していただけだった。今思えばとても単純な言葉だったんだけど、この二つの言葉が心に沁み込んで、つまりふるいたって、人生のある決断をしたことを覚えている。
 自分の中の何かに思い当たる、自分の中に溜まった何かに点火されるように、ダムが静かに決壊するように、ふるい立つ(?)パターンだった。世の中には社会主義へのある程度の肯定的理解が共有されていて、それが自分の中にふるい立つ準備を作り上げていたと思う。
 今はそれと正反対の現実がある。だからこの現実に逆らうには相当の知恵と工夫が要るだろう。この現実を乗り越えるのは社会主義の刷新なのか、社会主義そのものと距離を置くことなのか? 自分は前者だけれど自信はない。集中登山のように両方でやってみればいいと思う。

*知り合いのキリスト者がふるい立ったのは「主が私の目の前を通った」からだそうだ。現実を乗り越えるふるい立ち体験をこのように言っていた。
 絶対者による人間救済の「はたらきかけ」であり、それによって自己中心主義的「自己」が客観的な、外の世界との関係の中に位置づけられた自己へと深まった。一人一人の現状肯定に対して「それでいいのか」と問われる。
 このようなふるい立ち、霊性による、自己の内面を絶対者の目で探られる、ものなのだろうか。

*社会主義との関係から離れられない左翼には不利な条件がある。資本主義はどんなに酷くてもボロクソには言われない。社会主義の基本的認識は「人間の歴史は法則によって動いている、この法則を把握して社会を制御すべし」である。資本主義は基本が自由、なんでもOK、悪いのも良いのも資本主義体制に責任がない、そこに住む人間の選択の問題。これと大きな違いがある。
 社会主義は社会の制御が基本、もちろん多数者での決定であることが前提だが、個が制約される制御によって個の真の(?)自由と解放を獲得する、そういう込み入った論理が基本。これは間違えてはいないのか、今までも何度も問い返されて来ているけれど。やはり歴史が法則によって動いている、の認識が問われている。そう思って納得してきたけれど。
・変わることのない法則:
 制御が有効なのは運動が法則に従っていることが前提である。物理科学の対象は物質とエネルギーであり、その枠組みを支えるのは物理法則である。物理科学の目的は物理法則を見いだし、そのもとで物質・エネルギーの世界で起こるさまざまの現象を説明することである。
 法則が支配することが物質界の特徴であり、このことを反映して物理科学の秩序原理は法則となる。法則は科学の進歩とともにその捉え方は変わるが、法則自体は未来永劫不変のものであり、われわれを含めて世界はその支配を逃れることが出来ない。 月へ行くには精密な制御が必須、月へ行く自由は精密な制御によって獲得されるもので、自由気ままな自由からは得られない。これは法則を知り、それを使って制御し、自由を獲得する例だが、物理化学が対象である。
・変わることのあるプログラム:
 人文・社会科学の対象となる生物界・人間界も物質界のように法則で支配されているとするのは唯物論の勇み足ではなかったか。吉田民人によれば――法則に代わってこれらの世界を支配するのは「プログラム」である。プログラムという言葉はすでに多くの分野で用いられているが、ここでは「前もって(Pro-)書かれた(Gram)」という意 味で用いる。
 生物界におけるゲノム、人間界における実定法はこの意味でのプログラムの典型例である。プログラムは環境の変動とともに変わり得ることが、未来永劫変わらない法則との大きな違いである。――
 社会主義の見直しは、存在は意識を規定する、まではいいんですが、法則の捉え方についてはこのレベルまで戻ることも考えた方がいいのではないか。
 いのちふるい立たせる、は自らの意志で法則から離れるときなのか、法則を悟って法則を自分の生活の中で体現したと思った時なのか?
 かなり脱線したので終わります。
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